2015年4月12日日曜日

西部劇ブーム

「西部劇」・・・死語になりつつある。

そう言えば「時代劇」も影が薄くなりつつある。
我々が子供の時代、映画はヤクザものかチャンバラ、洋画は西部劇が主流だったように思う。

TVでも「ローハイド」「拳銃無宿」「ライフルマン」等々たくさん放映されていた。最後に絶対に悪者はやられる勧善懲悪(アメリカ映画の基本)なので安心して観ていられたものだ。

中学時代、その西部劇にハマっていた。
モデルガン屋さんがあってプラスチックに銀メッキしたものがあって、学校の帰りによく立ち寄ったものだ。しかし安くて3000円。弾蒼や撃鉄が動くものだと数千円もした。
小遣いが月500円の時代、中学生には手が出ない。でも何とかやりくりして買った。

当時の親友は中村クン(彼は30代に早世したが)彼のアイデアでボール紙でガンベルトを作ったりもした。薄手のボール紙を数枚合わせてベルトとガンホルダーを作り色を塗ってそれらしい物が出来た。
二人で悦にいって早打ちの練習や打ち合いをしたものだ。

それが講じて山でやろうと言うことになり、豊中で唯一残された山林、東豊中まで行った。
今では住宅街になり、千里ニュータウンに隣接する場所だ。当時(昭和35~6年)は知らなかったが千里ニュータウンの工事が始まっていて山をかき分けて入ると突然、開発現場に出くわした。ブルトーザーが大きな音をたてて動いている。
二人にとっては大発見。「誰にも言わないでおこう」二人だけの秘密だ。
そして度々二人の「秘密基地」を見に行った。拳銃ソッチノケで!
拳銃はつごう数丁持っていたが知らず知らずに無くなってしまっている。惜しいことをしたとも思う。

2014年9月24日水曜日

石橋の家

久々にBlogをあけてみた。
3月以来半年もBlogをさわっていなかった。いつものことで書き出したらワッと書くがさわらないとなにもしない。何故かは解らないが、またワッとかくことになるのだろうか?

前回は中学2年、昭和32年13歳で止まっている。

 中学2年の秋、蛍池から石橋へ転居した。
石橋は池田市ではあるが阪急の駅にして1駅。で、豊中市から池田市への転居で当時の言い方で「越境通学」になった。少しでも良い・有名な学校へ入学するのが「越境入学」。ボクの場合は慣れ親しんだ中学に残っただけ、正式にはNGだろうが残された1年半を石橋から電車の乗り豊中まで通学した。
オヤジがバンバンの時代で石橋に新居、中古住宅を購入し改装・増築したものだ。
 場所は昭和の初期に阪急が開発した「石橋荘園」という住宅地、池田の室町に次ぐ日本で2番目に開発されたもの、当時の大阪の富裕層に「郊外に快適な住宅を」のキャアチフレーズで農地を開発、碁盤の目状に宅地にしたもので、今から考えると阪急創設者・小林一三氏の先見の明に関心する。

 近くに宣真学園という女子校があった。(奇遇だが、優子も義姉が通っていた学校でもある。時期的に言うと義姉とボクはすれ違っていた可能性もある。)
また、筋向いの家(岡田さん)は当時の救世教・石橋集会所だったとか!

 この家には道路建設のため数年しか住めなかったが、イイ家だった。
敷地は100坪あり前庭は和風・座敷・控えの間もあり純日本建築、それに裏庭を半分潰して洋間・2階に兄とボクの部屋。裏庭は全面に芝生をはりオヤジの好きなGolfの練習が出来るようになっていた。

自分の部屋が出来たことは非常に嬉しかった。
備え付けのベッドもあり出窓に机も設置されていて、受験勉強には快適であったが、逆に自分の城ができて好き勝手に自由を満喫した。丁度その頃、兄が就職し勤務地が函館になり引っ越した為、兄の部屋も使えるようになり2階を独占して快適そのもの。森本家、絶好調の時代ではあった。
-オシマイ-

















2014年3月8日土曜日

中学時代の友人

中学1年のクラスには未だに思い出す友人が何人かいた。
中村クン・芦田クン・長谷クン等だ。あと、原田・荒木・佐々木等がいたが、中村以外は非常に成績優秀な生徒だった。
それにつられたのか、1年の2学期、信じられないのだが成績が大躍進した。
クラス十何番から突然クラス4番になった。芦田・長谷・原田・森本だった。芦田はその後、北野高校から一ツ橋大学へ、そして日銀へいった。長谷は豊中高校から阪大をへて住友商事に入社、IT系の会社を立ち上げて社長になった。
因みに芦田クンの父君は住友生命の社長、兄は東大卒で大蔵省へ。家は金持ち、頭はいいし、兄弟で大蔵省・日本銀行とは恐れ入る。
でも、当時は全く仲のよい友人だった。お互いの家に泊まりにいったりもした。
中村クンとは兄弟以上の付き合いだった。1年生は同じクラス、2年・3年になってクラスは違ったが、非常に仲が良かった。登下校も一緒、週末にはどちらかの家へ泊まり行き、徹夜で話し込んだものだ。 その彼も早世した。残念な限りだ。

中学入学

中学は大阪府豊中市立の第五中学校へ行った。
豊中の中学は味気ないネーミングを未だに続けている。因みに我々のころは6中までであったが、最近では20位まであるようだ。
で、やはりベビーブーマーである我々の時代は50人クラスで15組まであった。1学年で700人以上いた。

何組であったのか忘れたが、1年生のクラスは学校でも有名な「イトハゲ」伊東先生だった。何の担当だったかはこれも忘れたが、イトハゲが有名なのは担任クラス全員に日記を書かせること。それを提出、コメントが書かれて帰ってくる。書式は決まっていなかったが大学ノート1日1ページは書かないといけなかった
ように思う。
先生に見せる日記だから当然ホンネは書けない。でも、担任とのコミュニケーションはこれでとれていたと思う。

今から思うに、この習慣は何と結婚する前まで続いた。

ありがたい習慣がついた。何故、結婚を期にやめてしまったのか、又、何十冊もあった日記を結婚を前に燃やしてしまったのか。今から思うに残念だ。

日記を書く習慣は文章を書く習慣にもなり、当時はイヤな日記ではあったが、今から思うとイトハゲさま・様だ。








2013年12月24日火曜日

蛍池時代(その7・ガールフレンド)

なかなか小学校を卒業出来ないでいる。
書けば書くほど色々思い出すから仕方がない。
でも、ここらへんで卒業しよう。
最後の話題は女の子のこと。特にマセテいたとは思わないが、6年生の頃はよく女の子達と遊んだ。それもミス蛍池小学校クラスの可愛い子達だ。「達」と言うのは数名のグループでの遊びだったからで、どの子が好きのと言う話ではない。男は決まって二人、ボクと高松クン。 高松クンはなかなかのハンサムボーイだった。女の子の名前で覚えているのは青山さん・木山さん位か? あと二人位いたと思うが覚えていない。
よく青山さん宅で遊んだ。何をしていたかハッキリとは覚えていないが、唯一覚えているのは男女大綱のスモウ。 何故スモウなのかはわからないが、子供ながらによくやったものだと思う。
その後、中学に入ってからは彼女達とも高松クンとも交流はなくなった。
甘酸っぱい思い出ではある。

蛍池時代(その6・クリスマス)

今夜はクリスマスイブ。
小学生時代、ボーイスカウトに入っていたので毎年クリスマスパーティーをしていた。
学校の講堂を借りて、カブスカウト・ボーイスカウト・ガールスカウトと父兄も一緒になって日本的なクリスマスパーティーをやっていた。
毎年、校庭の大きなヒマラヤ杉をクリスマスツリーにして夕刻からスタンツ(寸劇)スカウトソングを各班ごとにする。キャンプファイアーの冬版と思えばいい。
夕飯は名物の闇汁。大きな鍋に色々な物が入っている。わざと下駄型に切った大根。大きなままの豆腐、肉の脂肪の塊・・・等々。味は忘れたがあまりおいしい物ではなかったが、電気を消して暗闇で食べる。だから「闇汁」お椀の中のものは全て平らげないとバツゲームがあった。
当時はまだ日本にクリスマスは定着していない時代だったので、クリスマスってのはこんなもんだとずっと思っていた。
未だに我国のクリスマスはクリスチャンでもないのにプレゼント交換したり、パーティーしたりでおかしなものだ。まだ家庭内でするようになっただけマシか!

蛍池時代(その5・家庭教師)

小学4年か5年の時、家庭教師がついた。先生は小田さんと言う当時、どこかの医大生だった人だ。
週二日位、夜に時間ほど家に先生が来られた。
英語(小学生なのに)が主だった。お陰で中学に入って英語を勉強するようになった時には既に中2の教科書の半分位まで進んでいて、英語が得意科目になっていた。(因みにいまでも英語は好きだ)
確か、中2位まで教えてもらっていたと思う。
毎回、終わりがけに母がオヤツを持ってきてくれる。その時が一番嬉しかった。あぁやっと終わったと。 
大学へ行って自分が家庭教師のバイトをやりだして近所の小学生二人を教え出してもオヤツがやはり楽しみだった。大学生にとって家庭教師は時間的制約はあるもののボロイバイトとではあった。週2回2時間で月8千円、時給が100円位の時代だったので効率的だった。
しかし、小学生時代に家庭教師なんてわが家は裕福だったのか?
しかし、あの小さな(今風に言えば2LDK)家でよくやったものだ。
困ったのはその時間帯のテレビが見れず、翌日友達の輪に入れなかったことか!

2013年12月8日日曜日

蛍池時代(その3・ボーイスカウト)

3年生になって担任の東先生からボーイスカウトへの誘いがあった。多分、態度の悪いボクを矯正させる狙いがあったのかもしれない。
ボーイスカウトは6年生かで3年生のボクは下部組織のカブスカウトに入った。
ボーイスカウトはイギリスの軍人、ベーデン・パウエル卿が提唱した軍隊の幼年学校の在宅版のようなもので、よく考えると「?」なものだ。
しかし、当時はカッコイイものでもあった。週に1回位に集会があって、色々なことを教えてもらった。活動は野外活動が主でよくキャンプをしたものだ。キャンプは最初キライだったが、いつの間にか好きになりボーイスカウトに昇進してからは毎週土曜の午後は夜間ハイクと言った半日キャンプによく出かけた。宝塚や箕面・能勢の山が主たるキャンプ場だった。今では開発されてその殆んどが住宅地になっているが当時が懐かしい。
夜間ハイクは本来、夜間の行動の訓練で通常はテントは持って行かない。食糧とシートのみをかついで歩きまわる。適当な場所を見つけて食事をしシートで雨露をしのぐ寝床を作り仮眠する。朝起きたら滝壺の上で寝ていてビックリなんてこともあった。それがオモシロかった時代であった。















蛍池時代(その3・疑惑事件)

小学校時代の一大事件のことを忘れていた。
暴行疑惑とも言うもので、6年生の時ボクが担任の中川先生に理科の実験中に何か薬剤をかけたというのだ。これは全く身に覚えのないことで、母が教頭によばれて「こんなことをする生徒は退学だ」と言われて初めて知った。そんな事実はなかったし、中川先生も何も言っておられない。母に詰問されても言うことない。そんなことはない。ボクの言うことを信じて欲しいとしか言いようがなかった。
誰が何の為にこのような話をでっち上げたのか分らないが、丁度その時話が進んでいた「健康優良児」推薦問題にからんでいたのか? この疑惑のお陰で推薦が取り消されたのは事実だ。
教頭が言った退学云々の話はどうなったのか、以後のことは聞いていないし、そのまま学校へは行っていた。 
キツネにつままれたような話ではあったが、その時はどうなることかと気が気ではなかった。
大人への不信感が増大したことは事実。






2013年12月6日金曜日

蛍池時代(その2)

書き出したら止まらない。
まぁ、子供たちの何かの参考になろうから続けよう。

比較的裕福だったと書いた。
いつの頃だったか、母が言った「お父さんの給料が10万円になった」と。当時のボクにはその意味がわからなかったが、今考えるとスゴイ給料だ。当時はアンパンが10円、梅田までの電車賃が30円の時代、今はパンが100円、電車は270円、従って物価は10倍になっている。としたら給料10万円はなんと100万円! 母が自慢たらしく言うはずだ。 昭和30年代、オヤジは四国に本社を置く小さな婦人手袋輸出企業の番頭格。日本が戦後復興を成し遂げようと必死に頑張っていた時代。そんなもんかもしれない。
日米繊維摩擦が起こるまで、繊維産業は日本の花形だった。
で、確かに食べ物も着るものも今から考えると贅沢だったように思う。母はお茶とお花を習い謡曲まで初めていた。ボクの着るものもよく百貨店に買いにいった。

しかし、オヤジの顔を見るのは日曜だけ、朝はすれ違い夜は必ず飲んで帰ってくる。オヤジっと食事を一緒にするのも日曜だけだったように記憶する。オヤジは非常なのん兵衛だった。家にはいつもキリンビールが箱で積んであったし、当時は高かったサントリーオールドが並んでいた。飲んだら怒りっぽくなるのには困った。日曜は昼間から酒を飲んで怒鳴り散らす。母が可哀そうだった。

蛍池には3,4歳から中学2年の秋まで10年位住んでいた。
当時の蛍池は住宅と田畑が混在する地域で小学校の横は田圃だった。飛行場さえなければいい所であった。
学校までは100m位でいつも正門まで行くと遠回りになるので生垣の間から学校へは行っていた。みんなが毎日通るので人一人分の隙間が出来ていたのだ。
小学校時代の成績は覚えていない。良くも悪くもなかったのだろう。しかし、授業態度はあまり良くなかったらしい。教室ではいつも最前列の左端、先生の机の前が指定席だったのを覚えている。それに給食が食べられなかった。不味かったからだ。当時の給食はアメリカの援助物資でバターっけのないコッペパン、クジラ肉のシチュウ、脱脂粉乳の3点セット。パンはパサパサで、クジラ肉は臭いし脱脂粉乳に至っては飲めたもんじゃない。しかもあのアルマイト野食器も味気なかった。給食を食べ終えるまで午後の授業が始まっても給食とよくニラメッコさせられた。机の中には干からびた食べ残しのパンがゴロゴロ、それでよくここまで大きくなれたものだ。
今頃になって給食の味が忘れれられないなんて言う人がいるが信じられない話だ。
取りとめの無い話が続く。一つ思い出したら次々と出てくるものだ。

学校にはプールがなかった。そこでPTAも協力して作ることになった。お父さん連中が休みにスコップを持ってプール作りに駆り出された。今では考えられないことだが父兄の努力で3年生位の時にプールが完成。運動神経の鈍いボクにとって唯一自慢できる運動は水泳だった。だれにも教えてもらわずにスイスイ泳げた。しかも早かった。多分学年1,2を争うスピードだったと思う。
もう夜も遅いので今夜これで止めにする。
書き出したら止まらないので・・・。






























2013年12月5日木曜日

蛍池時代。

音対策で二重窓だったのを覚えている。学校の端の一部は飛行場に隣接している程近かったからだ。飛行場は鉄条網で囲まれ、犬を連れた兵隊
物心ついた時には豊中市蛍池にいた。
生まれたのは四国・香川県大川郡白鳥町松原133(今は香川県東香川市白鳥町)蛍池も移った頃は麻田と言った。 旧麻田藩の領地だったからだろう。 麻田藩は城も無い陣屋だけの極小大名、今はどうなっているかは知らないが、昔は駅の近くに旧麻田藩の大きな石碑があった。
蛍池って池もどこかにあったのだろうが、当時はため池が多くありわが家の横にも名前は忘れたが池があった。
わが家は坂の横に建つ一軒家、小さいながらも庭もあり、大きな柿の木もあった。富有柿で1年おきではあるが大量の実をつける木だった。
実はダイエーを辞めて有休の時にママと二人で蛍池を探検したことがあり、家の場所は確認できた。
6畳・4.5畳・3畳に台所・風呂もあった。そこに両親と兄の4人で暮らしていた。今から思うと狭い家ではあるが、当時はそんなこと何も考えたことがなかったし、高台にあったので見晴らしは良かった。
兄は4.5畳の部屋を独占していた。丁度、兄は高校受験だったからだと思う。ボクは縁側に学習机を置いてもらいそこが我城だった。勉強なんてしなかったし、出来る環境でもなかった。
その頃、オヤジは東讃莫大小(莫大小:メリヤスと読む。メリヤスは布の種類でわかりやすく言えば肌着の布と思えばよい)と言う会社の役員一歩手前で、ある日オフクロさんが「お父ちゃん取締役になった。これで定年もないし、あんしん」と言っていたのを覚えている。
そんな状況なので多分、他の家庭よりは裕福であったと思う。
電話は町内初だったし、TVも一番に買ったとおもう。勿論白黒の14型。
場所は蛍池小学校の近く、もっとわかりやすく言えば伊丹の飛行場(今の大阪空港)の近く。当時はまだ米軍がいた。しょっちゅう戦闘機が飛んでいたし、夜中はエンジン整備の音がうるさかった。当時は珍しく小学校が防が警備していた。まだ、日本に進駐軍がいた時代だった。
今日はここでオシマイ。続きがあれば又加筆しよう。





2013年1月16日水曜日

阪神淡路大震災・18年

17日は阪神淡路大震災被災18周年。
一昨年の東日本大震災で阪神大震災のカゲは薄くなったようだが、
我々被災者にとってはやはりあの震災抜きには考えられない。

1995年(平成7年)1月17日
個人的に言えばあの日から人生は大きくウネリ出したと思う。
大震災がなかったら、例のKLWにGoサインだでて(17日に神戸市と関係企業の最終合意会議がある予定だった)それから紆余曲折はあったにしても上手くいけば、KLWへ出向して、上手く行けば役員にでもなって・・・、定年までゆっくり出来たかも!
何せ、KLWワーキンググループのダイエーサイドのメンバーだったのだから!
でも、KLWはディズニーとUSJに完敗していたかも???
「・・・鱈の話はアリューシャン」 

マジな話。
今問題になっている東日本大震災の復興が遅れている問題。
比較すると・・・・・。
阪神は地震・火事で焼失、東日本は津波で流出
阪神は都市直下、東日本は地方の海岸沿いで面積が広い。
それに原発事故まで含まれているのだから大変の域を超える。

阪神が3~5年で復旧したのは都市のパワー。
壊れた建物は殆んど企業が復旧した。
東日本は津波で土地までえぐられて地面(土)の復旧までは国がしてくれない。
何故なら土地は個人資産であり「公」が手をつけるには特別な立法措置が必要になるからだ。
それに津波の被害を100年で3回(明治・チリ津波・今回)も受けている土地に再度家屋や工場をたてるのか否かの合意も中々出来ていない。
阪神の時でも壊れたマンションを建て替えるのに住民の合意が中々まとまらなかった。
東日本の場合、町全体を高台に移すか元の場所に再建するか?というのだから合意するのは至難の技。
最終的には行政が国民の合意を得て、再建に資金を出さざるを得ないだろう。
しかし、震災だけ優遇するのはムリがあるかもしれない。
例えば、他の災害や火事で損害を被っても何の支援もないのに・・・・。
政府の強力なリーダーシップが必要になる。

それに福島原発の問題もある・・・・・!

・・・・オシマイ・・・・





















2012年5月11日金曜日

通信販売

昭和43年だったと思うが、前年に会社を潰したオヤジが新しく通信販売業を始めた。
今なら当たり前のようになった通信販売だが、40年以上も前に通販を考えついたオヤジはスゴイと思う。

オヤジは元来が手袋屋で扱った商品ははやはり手袋、しかもゴルフ場のキャディーさん用の作業手袋。
ゴルフが好きだったオヤジはキャディーさんのウオンツを良く知っていたから普通の手袋を改良して商品化、全国のゴルフ場に販売した。
今とは違って注文も郵便なら配送も郵送、代金回収も郵便局経由。PCもなく宅配便も発達しておらず、netbankも無い時代のアナログ的方法だがそれしか方法は無かった。

全国ゴルフ場ガイドと言う本が市販されていてどこにどんなゴルフ場があるかは全て解るのでそこにカタログ・注文書を入れた手紙を出した。当時はゴルフ全盛期で全国に1200位のゴルフ場があった。しかも年々増加傾向にもあった。
それを春・秋と年2回送付し、注文を待つ。
注文は料金受信人払いのハガキ、料金は2倍だがこれが効率的で、最終的には局留めにしてもらい、発送で郵便局に行くたびに受注ハガキを受け取る。

商品は昔からの取引先に発注、アイテム数は10。オールシーズンと冬用が各5色ある。在庫は商品自体がかさばらないから在庫スペースもいらない。在庫が少なくなると工場へ発注、1週間で入荷するから在庫が無くなることもなく運営できた。
一番の心配は代金の回収。商品を送ってからの入金なので、知らん顔されたら・・・? しかし、日本人は真面目、貸し倒れは殆ど1%以下。例え入金が遅れても殆ど回収出来た。

この事業をオヤジと社員一人の二人でやっていた。
事業的に問題はマーケットに限界があることだ。
全国1200のゴルフ場に30人づつキャディーさんがいるとして36000人。年に2回買ってくれるとして1双(手袋は双で勘定する)250円で計算するとしてマーケットは1800万円。
当時の売上は1000万円そこそこで全国シェアは60%でスゴイものだが、延びしろがない。
当時のレベルでは食っては行けたが、将来性はない。
オヤジから受け継いだ時、ボクはサラリーマンだったからプラスαの収入にはなったが、そののちどうするべきか悩んだものだ。

その時の通販の制約は①商品が小さく、軽い物 ②お客様が限定される(告知方法がナイ) ③代金回収に不安のない・・・こと等がポイントだった。

結局は本業であるサラリーマンも忙しく、アルバイト的で終始し、その後の阪神淡路大震災でのゴルフ人口の減少、その後のゴルフブームの消滅もあり、この事業は廃業。世話になった取引き先に譲渡した。
失敗ではなかったが、少し先走り過ぎた事業ではあった。





















2012年1月18日水曜日

テレビは何故?

日本の民放テレビ放送は何故こんなに堕落した詰らないものになってしまったのか?
民放テレビも株式会社で収益を挙げることが求められるのは致し方ないのはわかる。
だから視聴率を上げて広告料を高くとるのが営業、営業の為には番組内容を大衆受けするものに変えていかざるを得ない。その方向が現在の番組の低俗化を招いているのだろう。バラエティーと呼ばれる意味のない番組が全盛、しかもギャラの安い割には人気のあるお笑い芸人(芸もないのに)を使ったバカ笑い番組が多すぎる。官製放送のNHKまでがその傾向にあるから世の中終わりかも!
これも突き詰めると視聴者たる我々が悪いのか!
最近は広告もスポット広告、1本何秒幾らのCMばかり。
以前は一つの番組を1社のスポンサーが買い取って放映、番組内容もその企業イメージにあったものを作っていた。だから、東芝日曜劇場などは安心して見ることが出来た。広告自体も松下やサントリー等は品がある物が多かったように思う。
表現の自由は尊重しなければならないが、何か規制が必要な時代になってきたのではないかと思う。
その前に良識が低俗番組を駆逐するか? しかし、悪貨は良貨を・・・!
報道番組にも一言あるが、又の機会にしよう。

2012年1月17日火曜日

社長の原稿

ダイエー人事時代で忘れていたことがある。
教育・研修で社長にお越しいただき訓示を頂くことが多々あった。

訓示の原稿(レジメ)は事務局としてまとめて数日前には社長に渡さなければならない。
その機会は入社式に始まり、新入社員の研修、階層別の研修等々、人事に在籍の3年間で毎年5回として10数回は社長の原稿を書いたことがある。しかし、それをそのまま読んでもらったのはたった1回、それも異動が決まってからの最終の新入社員研修の時だ。 これで最後と言うのを知っていたかのようである意味感激した。

富士の裾野、御殿場の国立青少年の家での新入社員研修の最終回のこと。
いつも社長の原稿(レジメ)は壇上の演台に置いておく、しかし社長は読まない。厭味ったらしく「今日はこんな話をしろと人事が作っておいてありますが・・・」とその原稿を手にとって見せてわざわざ脇に置き、自分が持ってきた風呂敷包をあけて自身の資料を取り出して話だす。
そんな時はガックリ、だがそれにも数回続くと慣れてきていた。と言っていいかげんな原稿を作る訳にもいかないので、無駄な作業とは判っていても真剣に時間をかけて作ったものだ。
しかし、その時の社長は素直に原稿を開いてそれに従って話し出した。
殆ど私の作った原稿そのものだ。脱線もあまりしなかった。だから聞いている方はあまり面白くなかったかもしれない。ふと社長の体調か何か悪いのかなとも思った。シンドイから現行のまま話したのかもしれない。
でも嬉しかった。人事を卒業する卒業論文が評価されたような感じだ。
神戸に移ってからは、会合・Partyの挨拶原稿は何回か書いたが、挨拶は形式的なものだから書くのも面白くない。
研修の「社長訓示」はその研修の成否を左右しかねないから重要なものだ。それだけにやりがいはあった。最後に卒論がパスして感慨無量ではあった。

2012年1月11日水曜日

申送り書

やはりエライもので、Facebook経由で投稿しなくなったらこのBlogも届こうっている。プレシャーがなくなったってわけか?別に構わないが、不思議なもんだと思う。

「申送り書」なるものをまとめた。
これは息子たちへのモシもの時の実用的な申送りで遺言ではない。
より身近な使えりものを目指した。死亡した時は勿論、急な病気で入院などとなった時、彼らが困らない為だ。その可能性が大なる私としてはこれは必需だと思って作った。この「申送り書」はPCのドキュメントに残してある。

例えば、銀行の通帳はどこにあるとか、その前に何行に預金があるかから始まり、光熱費やNTTの引き落としまで記してある。
普通、母親が存命なら母親がすることを彼らがしなければならないのでこのようにした次第だ。
一気に全てを書くことには無理があるので、順次書き加えていくつもりだ。
この「申送り書」の所在だけを彼らに連絡しておけばよい。
モシもの時はこのPCを開ければOK。
何となく一安心なのだ!

2012年1月4日水曜日

進路指導セミナーの講師

昔はこんなのでは無かったと思う。
ひょんなことで関西一円の高校をたずねることになって驚いた。

平成14年にイチケンを退職して暫く遊んでいた時の話。高校生向けのセミナーの講師の仕事があると聞いて応募した。
講義1回につき幾らと言う請負仕事、予定がある時はお断りもOKと言うのでヒマツブシにはうってつけだと喜んで応募。履歴書に以前ダイエーで人事・教育を担当していたと書いたので即採用した。 

具体的には高校3年で就職をする学生へ就職についての心構えを講義する講師。 決まった内容はないし、先輩としての体験を喋るだけでいい。しかし、時には就職試験(面接)のことやその実技指導も要求されたりした。

これを企画運営している会社はおもしろい。
事業内容は私立大学、専門学校の受験生への説明会(進路指導セミナーと呼んでいた)の企画運営。
昨今の少子化で受験生は不足ぎみ、各大学や専門学校は事前に受験生の囲い込みをしておきたい。その具体的手立てとして高校で無料の進路指導セミナーを開催する。各大学・専門学校から参加料(これが収入源)を貰いそのセミナーの企画運営をする。当日は高校を訪問し、説明用のブースを作り、各校から担当者が来て資料を配り入試の説明をする。出来たら願書まで書かせる。

高校側では無料で各校の資料や説明を受けられるとあって大歓迎。
しかし、ここで各高校が困ったのは就職希望者への対応、その時間就職希望者はどうするのか?そこで就職希望者へは「就職の心構え」の講義が必要となり、我々講師の出番となる。
高校によって進学率が異なるので進学校ではほんの数人に講師したことがあるし、就職希望が多い学校では200人位の時もあった。この講師を初めて2~3回までは事前にレジメを作り大変だったが、慣れてくるとパターンができその高校の実情を聞き即対応出来るようになった。
関西、大阪がメインではあったが、四国・徳島や名古屋方面に出張することもあって楽しかった。

そこで気づいたのは各高校のレベルの差、公立・私立を問わずそのレベルは千差万別。
大阪の名門校へ行った時は「さすが○○高」と校門をくぐった瞬間にその伝統を感じた。校門から玄関までがキチンと清掃され植木も葉刈りされている。玄関の受付の対応も立派。
一番ヒドイ学校はTVドラマでも見られないヒドサ!
まず、玄関に入って「エッ」と驚いた。なんと女子学生がガムを噛みつつ玄関先に寝転んでいる。先生らしき人が横を通っても注意もしない。掃除もぞんざい。
講義が成り立たないことも行くたびかあった。教室がざわついて話にならない。そんな時は一方的に講義してオシマイにするに限る。妙な正義感は不要。なにせ、同席している先生が申し訳程度に「静かに」と言うだけ。静かにはならない。

一度、こんなこともあった。
講義が初めて気がついた。後ろの方の席でなんと弁当を食っている。たまらず注意したらその生徒曰く「怒られた。怒りよった」と。
私にではなく担当の教師に抗議する。ここで私の一言がいけなかった。「弁当は教室外で食べろ!アホ」・・・「アホ」は余分だったが口癖だ。
この高校のヒドサはこのことについて講義終了後ナニの対応もなかったこと。そしてその後会社に高校から抗議めいた電話があったとか。そして会社からは「過激な発言は慎んで欲しい」と言われ辞職してほしいような感じだったので即辞めた。民間企業はツライものだ。
ヒドイ高校の現状を親は知っているのか?
教育者ではないからこれ以上は何も言わない。

2012年1月1日日曜日

2012年 新年を迎えて

新年明けましておめでとうございます。
形式的な挨拶、一つもめでたくはないが、生きていることには感謝・感謝!
家族全員元気に元日を迎えられたことはありがたい。

しかし、残念なのはママがいないこと。
そして当家の伝統が正月にも受け継がれていけないこと。

四国の田舎から船場へ丁稚奉公に出て来た祖父・勝治と福井小浜の城下町からこれまた女中奉公に大阪に来ていた祖母・一恵の二人が大阪船場の商家と讃岐と小浜の風習を加減して新しい「モリモト流」を作っていた。
それをママにまでは殆ど完全に受け継がれていたと思うが、ママの急逝で息子たちに受け継ごことが出来なかった。
正月は、関西風の白みその雑煮・お屠蘇・梅茶・おせち料理等、母は土井勝先生の弟子、優子もそれに近かったので新森本流を確立させていたのに。
今さら、愚痴を言っても仕方がない。
息子たちが新々森本流を作ってくれることを願うばかり。

2011年12月29日木曜日

社長巡回

またまたダイエー時代に戻る。

社長は時間があれば店・現場を巡回する。
創業者にありがちな「会社のものは全てがオレのもの」と言う意識があるからだと思う。
それ自体が悪いことではないが巡回される方は大変。少しでも良く見られたいし、前回の指示事項は改善できていないといけない、ましては注意・指示されても困る。
だからダイエーの特質としてそれぞれの責任者は社長の動向に常に注意をはらっている。

神戸に来られる時は分刻みのスケジュールがわかっている。
社長はスケジュールを知られることを嫌がるが、同行秘書は一人なのでこちらにサポートを頼む為に漏らしてくれる。秘書が手帳をチラッと見せてくれるのを見て覚える。ポイントを把握して対応すべきは対応する。要は巡回先へヒントを漏らす。
一番困るのはアキ時間があること、チョット巡回ということが多々あるので可能性がある時は変な言い方だが「警戒警報」を関係する店・事業所に漏らす。それもハズレが多いとオオカミ少年になるので、ある程度カンも必要。
他社の人には何故同じ社内で?と理解できないだろうが、これが現実。突然の社長巡回でミスが発覚して左遷はおろか解雇もあったのだから。

一番困るのは神戸を出て東京へ戻る道すがらだ。
神戸・伊丹間には店舗も多いし、事業所も沢山ある。飛行機に乗られるまで気が抜けない。本店といえども例外ではない。
ある時帰路の車中からTELがあった、道路沿いに空き地を見つけその情報が欲しいとのこと。東京に着くまでに報告するようにとの指示。
2時間くらいしか猶予はない。走り廻って情報収集。オフィッシャルな情報は任せて、囲む会の情報通に問合せをする。こんな時も囲む会のメンバーやJCメンバーの情報が役に立つ。ウラ情報まで彼らは精通しているからだ。
そして何とかレポートを纏めてFAX.指示を待つ。
社長に報告した内容を関係すると思われる部署にもインフォーマルに流す。でないと該当部署は即対応できないからだ。
このスピードがダイエーを支えていたのだとも思うが、担当部署は大変だった。
その社長もいまや故人、懐かしいと言えば懐かしい。

2011年12月28日水曜日

上海自動車産業視察団  ③

・・・続き。
二日目以降は自動車部品屋さんの工場視察。
今回の旅行はスケジュールが知らされていなかったのでやや不安。

まずは常州市役所を表敬。
市長は不在だったが副市長が出てきてご挨拶。TVニュースなどで見る大きな中国型の応接室、椅子はコの字型に並んでいて向かいの人とは話も出来ないほど遠い。K女史の顔をたてた表敬だった。副市長はK女史を「市の誇り」と褒め称えていたらしい。

その後、自動車工場団地地区へ。
中国は土地所有が認めておらずこのような工業団地を作る場合。地図に自由に線を引いてその中の農民を他の農場へ強制移住させるだけで済む。 風景的には農業地帯に忽然と近代的な工場が現れる異様な風景。
途中の町は西部劇に出てくるように平原にポツンと現れる。これも地方の町はハッキリ言って汚い。雑然。

で、工場視察。
自動車工場と言っても部品屋さんばかり、当社はベンツ社と取引しています。当社はBMWと・・・と言ってもセイザイ車のヘッドライトだけだったり、ドアノブだったりで自動車そのものではない。でも彼らは自動車業界だと言う。
どこへ行っても社員総出で熱烈歓迎。
ある会社などは正門前に社員が整列してお出迎え、ナニ様でもないのに。何か勘違いしていないかフト心配になる。またどこへ行っても例のショックアブソーバーの話はない。歓迎されて悪い気はしないが、大げさすぎてすこし不安になる。
工場のボードに「7%」と書いてあったのでナニの数字かと聞くとロス率とのこと。7%とはなんと信じられないロス率、これでも儲かっているらしいから驚き。

二日目はそう言った視察ばかり4社ほど訪問した。
昼飯は途中のレストランで、外見はみすぼらしい店に案内されるが、店内は素晴らしい装飾。外見もキチンとすれば良いのに。そして昼からフルコース、勿論のこと酒つき。これまた非常に旨い。

夜は夜で上海で一二を争うという料理店へ。
そこにはK女史の同級生だった上海市交通局長が待ち受けていた。
上海市1300万人の交通を抑える大物だ。でもさすが上海、彼はポロシャツ姿でどこにでもいるオッチャン。
はてここは誰の奢りなんだろうか?
果して、宴席に知らない人物が次々にだ入りする。聞くと運輸関係の業者らしい。交通局長が来ていることを聞きつけて差し入れ(大概が酒)を持って局長に挨拶にくる。局長もそれを当然のごとく受ける。そのたびに話が中断する。ゲスト(?)たる我々を無視した行為にチョットがっくり!

そして食後、局長曰く「三番目の妻が足指マッサージをしているので行こう」三番目の妻にもビックリだが、公務員がアルバイトしている。 さらにカラオケへ。ここもその三号さんがやっているとか。

そして三日目は観光・ショッピング・・・?
ショックアブソーバーはどくへ行ったんだ!聞くと今夜ミーティングがあるという。
夕食後、やっと商談的な話。
概要は例のショックアブソーバーをコピー生産したいので手を貸して欲しいとのこと。生産と言ってもPatentはどうするのか? ここでビックリ発言「Patent無視して良い」と市の書記から言われているから大丈夫だと言う。
Patentはジープ社か三菱から借りないと生産してはいけないハズ。中国共産党書記がいかに偉いかは知らないが国際条約違反になる。中国側良くても我々は手が後ろへ回る。
話は技術的なことではなくここで暗礁にのりあげた。話はまとまらない。明日は帰国の予定。
こうやって中国と言うのは統治されているのかと実感する。国際的なトラブルが絶えないのが良く分かる。

こうしてタダの上海ツアーは終わった。
ナニの成果もない。K女史に聞くと「彼らは招待した。日本の業界人を知っている」というだけでその目的の半分は達しているとのこと。
最後に重要なのは「礼状」。 形式ばった礼状を書き送る。 肩書きは「神戸商工会議所・会員 K」、エッ会員って肩書きなの? それで中国の田舎はいいらしい。
未だに何がナニだかわからず仕舞い。
料理が旨かっただけ。