2011年9月17日土曜日

兄のこと。

 兄(森本啓三のことについて触れておこうと思う。
実際、何かの機会がないと兄については完全に忘れてしまっている。忘れようとしているのか?本当に忘れているのか? 理由は?


 彼は昭和13年生まれ、私とは丁度10歳の年齢差がある。丁度、戦争中でオヤジが出征したからだ。
 兄は大阪府立豊中高校から関西学院経済学部へと進み、㈱ダイハツへ入社した。そして見合い結婚、これがいけなかった。
相手は和歌山の本屋の娘、気位の高い女性であったことを覚えている。
結婚し家族と同居、それほど大きくない家に父母と弟(私)がいる。考えて見てもムリがある。

果してある日突然、トラックが来て彼らの荷物を運び出してソレッキリ!両親とは話合っていたみたいだが、私はなにも知らなかったのでビックリ!母から「もう兄とは思わなくていい」とのキツイ宣言を受けて二度ビックリ!
兄の嫁さんが母をイヤがったようだ。そんなこと結婚前にわかっているやろに!

その後、兄から何回か連絡があり、会ったこともあった。転勤先の福山、熊本まで行った。でもそれきり。 

 数年前、兄嫁(名前も忘れた)であろう人から電話「お兄さんが会いたがっています」とのこと何か重病の模様、でも何故か「私には兄はいません」と瞬間的に返事してしまった。兄がいなくなってからの苦労が凝縮されていたのだろう。
今はそれっきりだ!

 驚いたのは、オヤジが倒れても、ボクが結婚しても、オヤジが死んでも・・・、母は兄に連絡しようともそのことを口に出すことも無かったので、どうしようもなかった。
家内にはその事情を話したので彼女も義父母も知ってはいるが触れようとはしない。これでいいのかな?
もう今となっては過去の話となってしまった。

 人生イロイロ、家庭には言いたくない事情もあるものだ。







2011年9月16日金曜日

父、勝治が亡くなる。

 脳溢血で自宅療養中の父が昭和57年11月4日に亡くなった。享年77歳。
倒れてから5年、ヨイヨイながらよく生きたものだ。

医師が「もうそろそろ」とは言っていたが、突然の感があった。
寝た切りの状態であった父とは毎朝「行ってきます」帰宅して「ただいま」と言うのが習慣、逆にそれだけの状態ではあった。

4日の朝、静かなので寝間を覗くと亡くなっていた。穏やかに、安らかに。
一時、いわゆる「痴呆症」で家族を困らせたが、殆ど手を焼かせることはなかった。介護保険などない時代、全て自宅でよくやったとおもう。 

痴呆症の症状はやはり昔のこと、戦争中のこと。
夜中、突然起きて大声で「○○が今セレベスから帰ってきた。玄関開けてやってくれ!」と叫ぶ。今頃、復員する人なんていないし、夜中2時だ。・・・と言う説得はNG.同類項になって「判った。玄関開けてくるわ」と言って「開けたけど誰もいなかった」と言うと「そうか?思い違いか」と納得し寝てしまう。その極意がわかるまでだいぶかかったが。

優子もその時生れていた勝也(長男)もヨイヨイのオヤジしか知らないのは幸いだった。あの超オソロシイ父がいたら大変だったろうに!

2011年9月15日木曜日

地区長スタッフ   

 そして、そのうち店舗を管轄する地区長から声がかかった。
地区長にスタッフがつく組織変更があったので地区長スタッフになれと言う。これも始めての仕事、何にことやらわからない内に地区長スタッフ(コントローラ)になっていた。地区長が必要とされる営業数値を管理する仕事だ。

 これも今みたいにPCのない時代、電卓と鉛筆の世界だ。
でもこの仕事を4年程した。地区には商品の部門を担当するスーパーバイザー(SV)が十数名もいた。彼らの管理も担当した。シンドイのは毎週月曜の営業ミーティング用の資料をつくること、日曜の閉店後各店からの報告をまとめて月曜8時のミーティングに備えるのだ。営業数値、売れ筋情報、サクセスetc.を地区としてまとめ本部に報告する。地区と地区長の評価にかかわるレポートだ。 慣れるまでは夜10時、11時までかかったものだ。
  コントローラの仕事は各店の営業成績、店利益のコントロール。
売上至上の経営から利益重視の経営へ各店の店長の視点を変えていく。当時、店長は売上げのみに目が行き、利益は二の次であった。 第一社長自身が「売上は全てを癒す」と言うのだから・・・? 
人件費・営業経費・施設の管理費等店のP/L(損益計算書)項目に関心を持たすようにする。 人事考課も利益重視スタイルに変わりつつあったからその管理手法には各店々長も興味はあった。 しかし、店にはそれを分析する時間がないし手法も知らない、そこで各店別に解りやすい経費のグラフ化や他店比較等の資料を作成し配った。 
当時、会社の最終利益は売上比1.0%を切っていたから、100円儲けるには1万円の売上げが必要で、1万円の売上げは100円の商品100個分だから、経費削減の方が簡単に利益を上げられる。しかし、縮小均衡は許されない会社だからそのへんの匙加減が難しかった。
地道な資料作成と店への提示、比較が好評だった。でもどれだけ利益貢献したかは不明だ。
そして予算編成が最大の仕事。地区に与えられた利益予算から売上げ・経費を逆算し予算化するのだ。 それを各店に配分、店長を納得させるのがキツイ仕事であった。店長にとって予算は直接評価を左右する重要項目、ボーナスが倍近く違ってくるのだから真剣だ。 大声を張り上げて激論は何度もあった。最終的には店長をおだてて予算案を納得させる。これしかなかった。
このコントローラ時代は比較的時間があった。
忙しいようだが勤務時間は比較的自由、店巡回用に車通勤も黙認されていた。特に我々は西宮店に駐在していたので家からも近く楽であった。休みもキッチリとれた。SV連中とよくGolfにも行った。飲みにもショッチュウ行った。思い起こせばダイエー時代の一番ヨイ時代だったと言える。

2011年9月14日水曜日

J.C.Pennyの実験。

 着任した西宮店は実験店、アメリカのJ.C.Pennnyの店舗運営の実用化実験。
だから人事経験者が店の次長として異動したらしい。本部スタッフとの調整役もきたいされていたらしい。
Pointは
①単品管理(コンピュータ全盛の今となっては手作業での単品管理なんてと        思うが当時は画期的)
②作業の縦割りから横割りへ(業務別組織化)
③パート比率の向上。
私のメイン業務は勿論パート比率を40%から60%まで引上げる実験。(今では60%は当たり前だが)実際は採用試験ばかりしていた。応募者にとっては今までのスーパー勤務より難しいことを言うから離職率が高かった。だからその穴埋めに奔走した。バカみたいだ。

結論から言うと実験は失敗した。

理由は西宮店が予想以上に売れたこと、そしてやはりダイエーの体質的なこと、簡単にいうと男性的なイケイケどんどんな会社に細かい数字による管理は向かない。社員が店長以下馴染まないのだ。

通常業務(営業)と実験の両立は難しいということだけを学んだ。

実験は自然消滅、私も人事担当から営業(食品)担当の次長へと横滑り、食品全般の責任者になった。これは面白い仕事だった。一般食品しか知らなかったので肉、魚、野菜果物の生鮮三品について勉強出来た。
「疑わしきは売るな!」を衛生管理の基本方針とした。これは正解だった。パートさんが売場でこの商品は(?)と思った商品は下げて廃棄と言うのだが、少しでもオカシイ商品は直ぐ廃棄に回るので売場主任は大変、自らが衛生管理をするようになった。意識が非常に改善された。
イベントも面白かった。季節季節の企画や行事に合わせて売場を作る。花見に始まり土曜の丑、キャンプ・バーベキュウ、運動会、クリスマスetc.
この間も忙しくて家庭を顧みなかったように思う。
長男は生まれたが。可愛がるヒマもなかった。

2011年9月13日火曜日

オレの方向かせろ!

 前後するが、社員教育の話。
 企業の社員教育には定番はない。
知識・技術教育は必要だがそれよりも大事なのはロイヤリティー、今では死語化しつつあるが、所属する企業への帰属意識が重要視されていた。特にダイエーでは先年の労働争議以降、喫緊の課題だった。

新入社員時代から帰属意識、もっと砕いて言えば会社の方を向いているか?が要求された。社長曰くは「オレの方向かせろ」だ。
 それも時間がない。毎年4月には何百人もの新入社員が入社してくる。
色々専門書も読んだし各企業の事例も研究した。でもダイエーのような企業は日本には存在しなかった。つまりは大規模なチェーン経営、しかもサービス業、そして創業間もない企業。社員数15000人、組織も軟弱。営業所が多い(当時店舗数150店)一人社長だけがカリスマ性で会社を引っ張っている超急成長な企業。


しかもお客様の要求もだんだん高くなってくるのに知識・技能がそれに追いついていない。せめて将来を担う新人だけでもキチンと教育しなければ。
そこで傾斜的な手法に走った。つまりは技術・知識教育は放棄。情意(=やる気)にポイントを置いた。社長指示である「オレの方・・・」教育だ。
よくよく考えると、200人の新入社員は150店舗に配属されるが、彼らにとって新入社員はボク一人の状態、1店あたり1人しか配属されないからだ。同期といったヨコのつながりが全くない。

 これでは帰属云々以前の話。そこで企画したのがどこかのメーカーが採用していた「グループ制教育」。
先輩のソコソコ優秀な社員をリーダーにして近隣数店舗をグループ化、数名の新人を先輩が管理するやり方だ。先輩社員への意識つけも重要、事前にリーダー教育も実施した。人事部とリーダー選びから始めた。2年先輩のリーダー20名位を選出、合宿でリーダー教育から始めた。最初は各店からクレームが来た。教育期間中人手をとられるからだ。しかしその後リーダーに選ばれることが昇進への近道と噂されるくらいになり、教育への味方が変わってきた。
 新人は就業後や定休日にリーダーの元に集まり悩みを相談、情報交換する。
その時の費用くらい出してやりたかったが敢えて経費はゼロ。それでも彼らには感謝されたし、社内の新しいインフォーマル組織が出来上がった。自分自身でグループの研究テーマを決めて合宿研修時に発表することのみが制約条件、事務局としては特にすることがない。社員→新入社員→リーダー→人事と言う情報ルートも自然と出来あがった。社内的には「これで教育?」「教育部は何してる?」と批判も出たが、無視した。いまに解るよ。
 そして年2回、全新入社員を集めた合宿を富士山のふもと御殿場の「国立青年の家」で実施、研究テーマの発表会だ。勿論、社長も参加。「これでオレの方・・・」の実践だ。新入社員にとって社長は雲の上の人、合宿で24時間共同生活をすることで当時既に神格化されていた社長の実像に触れることが出来た。中内さんも普通のオッサンや!大成功の企画だった。
 
 何回目かの御殿場での研修時、西日本は大豪雨に見舞われ交通は至る所で遮断。研修の中止も考えたが、そのまま実施、酒井部長の「こんな時、どうするかリーダーの判断のテストや?」と言う考えで。
結果、送れて来たグループはあったが、全員集合。鹿児島から飛行機で来たグループや在来線を乗り継いで来たグループ、色々あったが、良い研修になった。

 因みに事務局の私は愛車に道具類を満載して豪雨の中、高速を急いだが大垣で名神が冠水通行止め、一般国道をひた走り何とか御殿場着、次の日には澄まして新入社員を向かえたものだ。

 数年後、西宮店次長時代に案内が来た。
リーダーの同窓会をするので参加して欲しいとのこと。全員で懐かしい御殿場の国立青年の家に集まり、富士登山をしようと言うのだ。嬉しかった。 
社長にも招待状を送ったら参加すると言う。社長も嬉しかったのだろう。 
 残念なのはこの企画をケンケンガクガク練った酒井さんが亡くなっていることだった。 酒井さん「社長の方向かせた」結果ですよ。



2011年9月12日月曜日

新婚生活って???

 11月12日に結婚式を挙げて、30日が西宮店のオープン、バタバタの毎日が続いた
。それに西宮店は周囲に大型店(当時3000坪は大きい)が無いためか非常に売れる店だった。お蔭で例の実験は棚上げ。売場作り、商品手配、従業員手配に忙しい毎日を送った。

やっと年末も何とか乗り切り、正月、当時はまだ正月4日間は休みの時代、少しはゆっくりしたかな?(記憶にないが) 
 そこにマタマタ大事件発生、母が突然倒れたのだ。
池田の市民病院に即入院。「腸閉塞」との診断、早急に閉塞部分を除去、つまり手術ということになった。困ったのは当時の病院は完全看護ではない、誰かが付き添いしなければならないのだ。しかも例によってオヤジは「ヨイヨイ」のまま、今でいう痴呆症。母の付き添いは雇ったが誰かが毎日病院へ顔を出さないと母は不安がるし、誰か家にいないとオヤジは何をしだすかわからないし、どうすりゃいいんだ!!!
ボクが出勤時か帰宅時に西宮から池田を経由して母の様子を見ることにした。家内はオヤジの世話。

仕事は相変わらず忙しい。新婚生活なんてどっか行ってしまった。

母は開腹手術、付き添ったが午後から半日かかる大手術。終わったら夜だった。大腸を10cm切除、腸閉塞には違いないが「大腸ガン」だった。当時はまだ「ガン=死」の時代、医師は気を使いそう言ったみたいだ。手術後1カ月で母は退院。

両親が寝ている家庭って悲惨を通りこしている。でも今思うに優子はシッカリしていた。どんな環境にも順応、対応出来る女性だった。しかもグチ一つ言わない。

 その後、この両親を最後までこの家で看取るわけだが、彼女が明るいので気が楽ではあった。優子さんに感謝!

2011年9月10日土曜日

上司:酒井教育部長   ?

  始めての本部勤務は人事・教育部。
上司は酒井 清氏、一言でいえばダイエーらしからぬシビアな人物。
 当時のダイエーはイケイケどんどんで粗雑な男性企業、そんな感じの社員が多かった。しかも創業期から成長期に突入、人材不足で他社から人材を多数取っていた時代、酒井部長も船場の衣料品現金問屋からの途中入社。
 彼は掛け売り中心の問屋にコンピュータを導入(今のPOS)1枚からでも現金で買えるスーパー方式の問屋(大西衣料)を作った人。非常な勉強家、躾もウルサイ。因みに彼は当時有名になった「おたべ」と言う京都の菓子屋の次男、その会社の常務も兼ねていた。だから経済的にも有福、着るもの、持ち物から違っていた。そこもダイエーでは異質。そして何故か中内社長に非常に近い。商業コンサルとの繋がりもあった。
 そこへ「オレは池田店の主任や」と言う意識で行った。ハッキリ言ってその時がサラリーマンの始まりなのに。
ある日、酒井部長が呼んだ「キミは日に何本タバコ吸うんや?」と聞く、後ろから見て勘定してるんかいな?(当時はデスクで吸えた)
また、「キミは何本ネクタイ持ってる?」「ネクタイは毎日変えた方が良いよ」・・・ウルサイオッサンや!

 強烈だったのは「森本クン、君もう字は書かんでエーわ!」 エッ何のことや? 字を書くなとは部外への文書は清書してもらってから出せとのこと。もともと字が上手でないことは自覚していたが、あらためて言われると強烈。 その時の清書役が家内・優子。彼女も字は上手ではないが、一字、一字、丁寧に決まった書体で漬けペンで書く、それが教育部の文書だった。

当時、ダイエーは組織はあったが殆ど組織的な運営がなされていなかった。つまり本来なら担当者・課長・部長・本部長(役員)・社長を言うラインで運営される。しかし、担当者たる私の上には教育部長たる酒井さんしかいなかった。つまりは新入社員教育は私と酒井部長の二人で立案、即社長決裁、GO! と言う非常に簡略化されたやりかた。創業者社長がいる企業そのもの。考えようではオモシロイ会社だった。
そんな中で酒井さんは社長に非常に気に入られていたので、部下たる私は非常に仕事が楽であった。


残念なのは、その酒井部長が42歳で急逝されたこと。
当時、新聞にも「企業戦士壮烈な・・・」と載ったが、社長プレゼン中に倒れたのだ。蜘膜下出血だった。アッという間に亡くなってしまった。

先日、奥様にお会いした時、その後のダイエーについて「主人が生きていても同じことしてたのでしょうかねぇ?」と聞かれ答えに窮した。 それほど中内さんに近い人であった。ご冥福をお祈り致します。