ダイエーを退職して再就職先も決まらずにいたのに何故か焦りはなったように思う。約2カ月の有給休暇中、家内と美術館巡りや近くの思いでの地探索や毎 日のように出かけていた。
ここで又、例の神戸のTさんの世話になる。
彼から連絡があり、仲間で送別会をしてやるという。
ありがたい話だ。当日は神戸JCのOBというか神戸ロータリークラブのメンバーが40~50名も集まって頂きおいしい中華を御馳走になった。それよりも嬉しかったのはその日の参加者が最就職先を探してやるという。これ以上の力強い応援はなかった。挨拶で「これからも神戸で神戸の為に働く」と宣言してしまった。
と言って特に就職活動もせず数日が過ぎた頃、Tさんから電話。
「メシ食おう」といつもの調子。久々に神戸へ。
突然「イチケンの社長が欲しがっているからイチケンへ行け」という。イチケンのA社長はダイエー社長の娘婿で去年ダイエーグループの建設会社イチケンの社長になったばかりの人。一族というだけの落下傘社長であり、気心の知れた部下もいないから自前のスタッフを欲しがっているとか。A社長のことは顔と名前を知っている程度。考える余地もなく「このことは中内さんにも話してある。エーなぁと言ってはった」とウソみたいな話。
で、断れない状況だし、断る理由もない。
勤務地は神戸で待遇はダイエー時代と同じにするという。よく考えると願ってもない話だ。しかし、即答はさけその日は別れる。
1週間後、また電話。
A社長が神戸に来るので会いたいと言っているという。かれが仕組んだこととは知りながら出かける。世間話をしながら昼食。なかなか本題に入らない。A社長としては判断しかねている模様、Tさんが最後に「それでいつから行ってもらおう?」と言うと「担当者から連絡させる」と煮え切らないがもう採用が決まったような感じ。こんなんでエーんかいな?
しかし連絡を待ったがなかなか連絡はない。
有給休暇も終わりかけの2月になって痺れを切らせて電話。「では来週から来て下さい」と担当者。なんとなく頼りない。
今思うに、今回のことはTさんがかなりごり押しした模様。
でもラッキー、待遇は同じで再就職出来た。しかも全く知らない会社ではない。本社は神戸だし、ダイエーからの出向者も多い。建設業界のことを知らないだけで再就職って感じはしなかった。
問題はA社長とのこと。
ハッキリ言ってあまり好きになれないタイプ。彼は典型的なオボッチャマ。なのに自分はエライと思っている。的外れな指示も多い。 しかも困ったことに親(義父)の七光りで社長にして貰っているのにその謙虚さがない。
Tさんの話ではそんな社長を立派な社長に育てろと言う。真剣に考えるとエライ会社に入ったものだ! しかし、日常の業務は何もナイ。ヒマなのもツライ。営業活動でもするか!
2011年11月15日火曜日
阪神淡路大震災 ③
震災のことはいくら書いても書き足らない。
この項で取りあえずはオシマイにしたい。
この震災の被害は臨時出費レベルで165万円、どこからも何の援助も無かった。(行政からの援助均は所得制限があり、当時はかなりの給料だったのが災いして支援はゼロ)
家の補修(室内の壁紙の補修がメイン、電気関係etc.)に85万円、塀の建て替えに80万円(一部は隣家と折半)で計165万円。
ほとんどが割れた陶器類・食器類の破損は含んでいない。実際には震災後購入した食器類はなく殆どが貰いものですませたからだ。10数年たった今でもその貰いものを使っている。
で、被害は最小レベル。しかし、その後最大の被害がやってくるとは信じられなかった。
勤めていたダイエーは全国チェーンとはいえやはり関西、特に阪神間に店舗が多く、被害は甚大。コンピュータセンター、流通センターも被害を受け震災の損害は500億円と会社は創業以来の大赤字。
そこでいわゆるリストラが始まった。
当時は今のようにリストラ=人員削減ではなく、関連会社を含めて事業を見直すという本当にリストラクチャリングが行われた。結果は同じだが、本体の社員を重点的に関連会社に出向させるということになった。
個人的には前述のKLWが成功していれば将来的にKLWへ出向してもよい、というより出向したいと思っていた。ところが震災で方向は大きく変わった。でも50歳直前、神戸の本店に来て10年あまり、もうそろそろ関連会社へ出向してもよいころかと思っていたし、そのような意志も漏らしていた。
管理職の10%を関連会社へ出向させるとの会社の方針が決まり、私にも出向の内示があった。ところがある関連会社の東京の本社だという。50ツラ下げていまさら東京はナイと、とっさに拒絶。同社には大阪支社もあるので出向はするが大阪にして欲しいと調整したが、管理職は東京と言われ不調。なぜか東京は、単身赴任は絶対にイヤだった。
で即「それなら退職する」と申入れ、スッタモンダしたが、退職は自由。退職願いを書いて提出。
その後、慰留すべく色々と動きはあったが全てお断りした。
実は退職については家内との相談もなく、再就職先の目途もなかった。でも家内は「アナタが好きなようにしたらいい。でも食べさせてね」と一言。
実際、再就職にアテはなかった。有給休暇60日のうちに何とかなるだろうとタカをくくっていた。
震災の最大の被害は会社をクビになったこと。
実際にはリストラではなく自己都合の退職。リストラなら退職金の割増等もなく1年後に始まった早期退職制度とは大違い。
その後のコトを考えればヨシとするか!
この項で取りあえずはオシマイにしたい。
この震災の被害は臨時出費レベルで165万円、どこからも何の援助も無かった。(行政からの援助均は所得制限があり、当時はかなりの給料だったのが災いして支援はゼロ)
家の補修(室内の壁紙の補修がメイン、電気関係etc.)に85万円、塀の建て替えに80万円(一部は隣家と折半)で計165万円。
ほとんどが割れた陶器類・食器類の破損は含んでいない。実際には震災後購入した食器類はなく殆どが貰いものですませたからだ。10数年たった今でもその貰いものを使っている。
で、被害は最小レベル。しかし、その後最大の被害がやってくるとは信じられなかった。
勤めていたダイエーは全国チェーンとはいえやはり関西、特に阪神間に店舗が多く、被害は甚大。コンピュータセンター、流通センターも被害を受け震災の損害は500億円と会社は創業以来の大赤字。
そこでいわゆるリストラが始まった。
当時は今のようにリストラ=人員削減ではなく、関連会社を含めて事業を見直すという本当にリストラクチャリングが行われた。結果は同じだが、本体の社員を重点的に関連会社に出向させるということになった。
個人的には前述のKLWが成功していれば将来的にKLWへ出向してもよい、というより出向したいと思っていた。ところが震災で方向は大きく変わった。でも50歳直前、神戸の本店に来て10年あまり、もうそろそろ関連会社へ出向してもよいころかと思っていたし、そのような意志も漏らしていた。
管理職の10%を関連会社へ出向させるとの会社の方針が決まり、私にも出向の内示があった。ところがある関連会社の東京の本社だという。50ツラ下げていまさら東京はナイと、とっさに拒絶。同社には大阪支社もあるので出向はするが大阪にして欲しいと調整したが、管理職は東京と言われ不調。なぜか東京は、単身赴任は絶対にイヤだった。
で即「それなら退職する」と申入れ、スッタモンダしたが、退職は自由。退職願いを書いて提出。
その後、慰留すべく色々と動きはあったが全てお断りした。
実は退職については家内との相談もなく、再就職先の目途もなかった。でも家内は「アナタが好きなようにしたらいい。でも食べさせてね」と一言。
実際、再就職にアテはなかった。有給休暇60日のうちに何とかなるだろうとタカをくくっていた。
震災の最大の被害は会社をクビになったこと。
実際にはリストラではなく自己都合の退職。リストラなら退職金の割増等もなく1年後に始まった早期退職制度とは大違い。
その後のコトを考えればヨシとするか!
2011年11月14日月曜日
「言葉」の使い方
言葉は進化(?)すると考えている。
だからと言って乱れた言語を許容するものではないが、言葉が独り歩きするのは止められない。
NHKの「言葉のおじさん」のファン、彼も使い方の誤りを否定はしない。否定しても大衆の流れに対抗は出来ないからだ。同感!
時には全く逆な使い方になっているものもあり笑うよりほかない。
「凄い」は「スゴイ」になって「非常に」という意味になっている。本来「凄い」は「凄く怖いオバケ」と良くない意味で「スゴイカワイイ娘」と良い意味には使わない。スゴクカワイイって口がどこまで裂けているの?って聞きたくなる。
「御曹司」って昔は「部屋住み」つまり次男以下の食い扶持のない者のさげすんだ言葉のはず。曹司は台所の意味。それが「大企業の御曹司」なんてTVで言っている。本当は跡継ぎ「御嫡子」、御曹司なんて言われると怒らなければ!
以前、勤めていたダイエーは、というかチェーンストアという業界は言葉の使い方がシビアだった。用語集というのもあって覚えたものだ。
入社当時の70年代から今はよく使われるようになった「コンセプト」「ニーズ」「アイテム」etc.等の言葉は定義を決めて厳密に使い別けていた。
コジツケの社内用語もあった新規に店を開店することは「オープン」改装も「改装オープン」で毎日朝10時に店を開けるのは「開店」このように別けると話がスムースに進むのも事実。
「Needs」の反対後に「Wants」というのがあるが、今ニーズと言っているのはウオンツの意味だと思う。
社内ではニーズとウオンツを間違えると叱られたものだが!
Wantsはお客さまが今欲しいと思っておられるコト(もの)、今はやりの保温性が高く薄い下着はウオンツ商品、下着という範疇の素材を変えただけでありこれはお客さまの保温性と薄さというウオンツには答えてもニーズに答えたことにはならない。
Needsはお客様が今は欲しいとは思っていなくてもこのようなモノがあればよいなぁと思われているコト(もの)。例えば塗るだけで温かい保温性のある化粧品とかタケコプターetc.
だからお客さまのWantsは捉えられても、Needsはよく考えないと解らない。
お客さまのNeedsを捉えるのは難しい。
言葉の使い方の進化(?)にはニガムシを潰している。
だからと言って乱れた言語を許容するものではないが、言葉が独り歩きするのは止められない。
NHKの「言葉のおじさん」のファン、彼も使い方の誤りを否定はしない。否定しても大衆の流れに対抗は出来ないからだ。同感!
時には全く逆な使い方になっているものもあり笑うよりほかない。
「凄い」は「スゴイ」になって「非常に」という意味になっている。本来「凄い」は「凄く怖いオバケ」と良くない意味で「スゴイカワイイ娘」と良い意味には使わない。スゴクカワイイって口がどこまで裂けているの?って聞きたくなる。
「御曹司」って昔は「部屋住み」つまり次男以下の食い扶持のない者のさげすんだ言葉のはず。曹司は台所の意味。それが「大企業の御曹司」なんてTVで言っている。本当は跡継ぎ「御嫡子」、御曹司なんて言われると怒らなければ!
以前、勤めていたダイエーは、というかチェーンストアという業界は言葉の使い方がシビアだった。用語集というのもあって覚えたものだ。
入社当時の70年代から今はよく使われるようになった「コンセプト」「ニーズ」「アイテム」etc.等の言葉は定義を決めて厳密に使い別けていた。
コジツケの社内用語もあった新規に店を開店することは「オープン」改装も「改装オープン」で毎日朝10時に店を開けるのは「開店」このように別けると話がスムースに進むのも事実。
「Needs」の反対後に「Wants」というのがあるが、今ニーズと言っているのはウオンツの意味だと思う。
社内ではニーズとウオンツを間違えると叱られたものだが!
Wantsはお客さまが今欲しいと思っておられるコト(もの)、今はやりの保温性が高く薄い下着はウオンツ商品、下着という範疇の素材を変えただけでありこれはお客さまの保温性と薄さというウオンツには答えてもニーズに答えたことにはならない。
Needsはお客様が今は欲しいとは思っていなくてもこのようなモノがあればよいなぁと思われているコト(もの)。例えば塗るだけで温かい保温性のある化粧品とかタケコプターetc.
だからお客さまのWantsは捉えられても、Needsはよく考えないと解らない。
お客さまのNeedsを捉えるのは難しい。
言葉の使い方の進化(?)にはニガムシを潰している。
2011年11月12日土曜日
阪神淡路大震災 ②
当時自宅は宝塚市にあった。
震災の殆ど東の端、家内の実家のある箕面市などは殆ど被害無し、聞くと棚の上の花瓶が落ちて割れたとか、そんなん被害言わへん!
報道は神戸に集中し宝塚などは殆ど報道されなかったが、実際は100名以上のの方が亡くなられる大災害。全壊・半壊家屋も多数でた。実際、我が家の周辺でも殆ど半壊状態、皆さん近くの小学校へ避難されていた。我が家だけがシャンと建っているのが悪いみたい。ブロック塀だけが根元からグラグラ、そのままでは危険なので無理やり壊す。怖かったのは隣家の屋根から瓦が落ちてくること。建物のそばには行けない。
ガレージの車が引きずられてタイヤ跡が30cm位残っている。
幸いにもブロック塀の2~3cmのところでギリギリ止まって車は無傷。ラッキーだ!後に京大の地震調査があってこのタイヤ痕をみて震度7の判定があったほど。
震災から4日目、やっと落着いたので出勤。
先にも書いたが交通手段はバイク。電車・バスは依然ストップ、道は瓦礫で一杯なので車は無理、バイクしかナイ。とは言え移動に過酷な状況には変わりない。バイクが通れる裏道を探し探し行く。だから神戸まで2~3時間かかった。しかも激寒、でも気が張っていて寒さもあまり感じなかった。
ダイエーとしては会社をあげて商品供給に全力を集中。
全国から商品を配送し倒壊を免れた店舗やその店頭で食料品を中心に生活必需品を販売していた。総力をあげて震災対応と言えばカッコ良いが、売上第一。従って本店事務所はほったらかし、恐らく各種問合せが入っているハズ、サービス的にはお客様への情報センターの役割が重要だと思って本店の復旧を提案したが、当時は販売最優先とのことで却下された。
仕方がなく、店舗で販売応援。
取引先からタンクローリーで水が来るというのでそれを手伝った。当初はその水を神戸市に供給してもらうハズだだったが、市は殺菌消毒していない水は供給出来ないという。なんと言うお役主的発想!実はその水は「サントリーの○○の水」のブランドで販売している名水。それでは独自に供給しようと店で配りだした。なにせ25トンのタンクローリー、10数センチの口しかなくそこからお客様の容器に配るのはかなり無理がありズブヌレ、寒い・冷たいでよく風邪をひかなかったものだ。
1週間くらいたって一段落したので、指示を無視してポートアイランドにある本店へ。
ポーアイは埋立地なので液状化が激しい。雨が降ればドロだらけ、乾くと砂嵐状態。そして全てが隆起している。見た目は隆起だが実際は1mの陥没。建物にはクイが打ってあり固定、周りの地面から隆起したように見えるが実際は地面が凹んでいるのだ。実験をするとよくわかる。コップに土と水を入れよく振ってみると水が上に浮いてくる。比較的大きな土砂は重さで沈み込み、細かい砂だけが泥水として残る。見た目は隆起だ。この光景も非常に異様なものだった。それに晴れて地面が乾くと砂埃がヒドイ。非常に細かい砂が建物の中にまで入ってくる。
驚いたことに本社のあるビルの正面玄関の階段が目の高さにある。足をかけて這いあがらないとビルには入れない。それだけ隆起、いや地面が陥没している。
やっと事務所にたどりつく、予想はしていたがガチャガチャ。
ドアが開かない。電話交換機が吹っ飛んで唸っている。着信のランプも付きっぱなし。引っ繰り返ったデスクやロッカーは何とかなるが、交換機は配線が複雑で素人では復旧は無理だ。配線を一つづつチェックしながら繋いでみる。2日がかりで何とか復旧。その途端、電話が鳴りっぱなし。一人では対応できない。翌日から店勤務していた担当者を呼び戻す。常務とあと一人は対策本部詰め、後は本店対応。
業務的には良かったが、環境が劣悪。第一事務所のある9Fまでは階段しかない。電気は通っているが水が出ない。トイレも使えない。交通手段もナイ。食事もままならない。飲料水は各自持参。
そんな中、女子社員も頑張ってくれた。ひっきりなしに電話はなる。ありとあらゆる問合せに対応。と言っても電話を担当部署へ振るのが主な作業、これが朝から晩まで続く。前述の砂の被害もヒドイ、日に何回も掃除をしないとそこいら中がザラザラになる。昼食も買い出しにいかないといけない。辛い日々が続いたが皆頑張ってくれた。
1週間くらいたつと全国各地からの支援・ボランティアが続々と届き、依然交通はストップ、道路は極端な渋滞はしているが、街は妙な活気にあふれていた。どこへ行っても「腹へっていないか?」と食料をくれる。街を歩いていてもパンやオニギリを配っている。この支援体制は嬉しかった。
<続く>
震災の殆ど東の端、家内の実家のある箕面市などは殆ど被害無し、聞くと棚の上の花瓶が落ちて割れたとか、そんなん被害言わへん!
報道は神戸に集中し宝塚などは殆ど報道されなかったが、実際は100名以上のの方が亡くなられる大災害。全壊・半壊家屋も多数でた。実際、我が家の周辺でも殆ど半壊状態、皆さん近くの小学校へ避難されていた。我が家だけがシャンと建っているのが悪いみたい。ブロック塀だけが根元からグラグラ、そのままでは危険なので無理やり壊す。怖かったのは隣家の屋根から瓦が落ちてくること。建物のそばには行けない。
ガレージの車が引きずられてタイヤ跡が30cm位残っている。
幸いにもブロック塀の2~3cmのところでギリギリ止まって車は無傷。ラッキーだ!後に京大の地震調査があってこのタイヤ痕をみて震度7の判定があったほど。
震災から4日目、やっと落着いたので出勤。
先にも書いたが交通手段はバイク。電車・バスは依然ストップ、道は瓦礫で一杯なので車は無理、バイクしかナイ。とは言え移動に過酷な状況には変わりない。バイクが通れる裏道を探し探し行く。だから神戸まで2~3時間かかった。しかも激寒、でも気が張っていて寒さもあまり感じなかった。
ダイエーとしては会社をあげて商品供給に全力を集中。
全国から商品を配送し倒壊を免れた店舗やその店頭で食料品を中心に生活必需品を販売していた。総力をあげて震災対応と言えばカッコ良いが、売上第一。従って本店事務所はほったらかし、恐らく各種問合せが入っているハズ、サービス的にはお客様への情報センターの役割が重要だと思って本店の復旧を提案したが、当時は販売最優先とのことで却下された。
仕方がなく、店舗で販売応援。
取引先からタンクローリーで水が来るというのでそれを手伝った。当初はその水を神戸市に供給してもらうハズだだったが、市は殺菌消毒していない水は供給出来ないという。なんと言うお役主的発想!実はその水は「サントリーの○○の水」のブランドで販売している名水。それでは独自に供給しようと店で配りだした。なにせ25トンのタンクローリー、10数センチの口しかなくそこからお客様の容器に配るのはかなり無理がありズブヌレ、寒い・冷たいでよく風邪をひかなかったものだ。
1週間くらいたって一段落したので、指示を無視してポートアイランドにある本店へ。
ポーアイは埋立地なので液状化が激しい。雨が降ればドロだらけ、乾くと砂嵐状態。そして全てが隆起している。見た目は隆起だが実際は1mの陥没。建物にはクイが打ってあり固定、周りの地面から隆起したように見えるが実際は地面が凹んでいるのだ。実験をするとよくわかる。コップに土と水を入れよく振ってみると水が上に浮いてくる。比較的大きな土砂は重さで沈み込み、細かい砂だけが泥水として残る。見た目は隆起だ。この光景も非常に異様なものだった。それに晴れて地面が乾くと砂埃がヒドイ。非常に細かい砂が建物の中にまで入ってくる。
驚いたことに本社のあるビルの正面玄関の階段が目の高さにある。足をかけて這いあがらないとビルには入れない。それだけ隆起、いや地面が陥没している。
やっと事務所にたどりつく、予想はしていたがガチャガチャ。
ドアが開かない。電話交換機が吹っ飛んで唸っている。着信のランプも付きっぱなし。引っ繰り返ったデスクやロッカーは何とかなるが、交換機は配線が複雑で素人では復旧は無理だ。配線を一つづつチェックしながら繋いでみる。2日がかりで何とか復旧。その途端、電話が鳴りっぱなし。一人では対応できない。翌日から店勤務していた担当者を呼び戻す。常務とあと一人は対策本部詰め、後は本店対応。
業務的には良かったが、環境が劣悪。第一事務所のある9Fまでは階段しかない。電気は通っているが水が出ない。トイレも使えない。交通手段もナイ。食事もままならない。飲料水は各自持参。
そんな中、女子社員も頑張ってくれた。ひっきりなしに電話はなる。ありとあらゆる問合せに対応。と言っても電話を担当部署へ振るのが主な作業、これが朝から晩まで続く。前述の砂の被害もヒドイ、日に何回も掃除をしないとそこいら中がザラザラになる。昼食も買い出しにいかないといけない。辛い日々が続いたが皆頑張ってくれた。
1週間くらいたつと全国各地からの支援・ボランティアが続々と届き、依然交通はストップ、道路は極端な渋滞はしているが、街は妙な活気にあふれていた。どこへ行っても「腹へっていないか?」と食料をくれる。街を歩いていてもパンやオニギリを配っている。この支援体制は嬉しかった。
<続く>
2011年11月11日金曜日
阪神淡路大震災 ①
平成7年1月17日早朝5時46分あの忌わしい阪神淡路大震災が発生した。
その朝、私は自宅2階で就寝中だった。
激しい揺れに眼が覚めて地震だと気づいてからも未だ揺れは続くのでこの世も終わりかと思った。
普通は「アッ地震だ」で地震は収まる。
しかしこの地震は眼が覚めてベッドの上で地震だと思ってから横にいる家内とどうしようと会話があった位長く揺れた。家が揺れる音と何かゴーッと異様な音がしていた。数分も揺れていたように感じたが実際は1分位だった。
しかしこの地震は眼が覚めてベッドの上で地震だと思ってから横にいる家内とどうしようと会話があった位長く揺れた。家が揺れる音と何かゴーッと異様な音がしていた。数分も揺れていたように感じたが実際は1分位だった。
やっと揺れがおさまり、階下の息子たちに声をかけたら大丈夫との返事、家族は全員無事なようだ。落着いて部屋の中を見るとグチャグチャに物が床に散乱、歩くにも歩けないほど。第一足の裏が痛い。ガラス片が散乱していた。靴を探して皆に靴を履かせた。窓から外を見るとそこいらの家が壊れている。明け方の空が異様な色をしていた。しかも物音がしない。すべてがストップしている。電車も車も動いていないのだ。何という静寂、地獄とはこんなものか?とも思った。 家の中を見回ると建物には大きな被害はないものの色々と物が散乱している。特に食器類・ガラスものが割れて床一面に散らばり歩けない。とりあえず居場所を確保し、家族で対応を話し合う。
一段落して常務に電話(当初は携帯が繋がった)例のKLW問題決定の重要な会合が夕刻市役所である。この状態では行けるかどうかわからない。「宝塚はヒドイ地震」と報告したのを覚えている。停電中でTVも映らず、周りの状況しかわからないのでまさか神戸があんなに酷いことになっているとは知らなかった。
とにかく家の中を整理しないといけない。
その時、咄嗟に湯船を一杯にした。水道は辛うじてまだ出ていたので、目いっぱい風呂を一杯にしておいた。因みに水道はそのあと直ぐに止まってしまった。この水が後々非常に役立った。
そして全員クツを履いて家の中を掃除、ユックリ見ると電灯は線が根元から千切れているし、あの重いテレビが吹っ飛んでいる。ラッキーだったのは3年前に家をプレハブに建替えていたこと、壁にキレツは走っているがよく見ると壁紙が破れているだけ、鉄骨構造なので枠組はシッカリしている。ただ、ドア類は金具ごと外れていたり壊れていた。引き戸は外れて素っ飛んで角が壁に刺さっている。電機・ガス・水道・電話といったいわゆるインフラは全てNG。食器という食器は粉々に。そして外壁がボロボロに痛んでいた。ブロック塀がグラグラする。しかし倒れてはいない。ちゃんと中に鉄骨が入っている証拠。隣家の塀は完全に崩壊、道をふさいでいる。工事がずさんなのだ。
その時、咄嗟に湯船を一杯にした。水道は辛うじてまだ出ていたので、目いっぱい風呂を一杯にしておいた。因みに水道はそのあと直ぐに止まってしまった。この水が後々非常に役立った。
そして全員クツを履いて家の中を掃除、ユックリ見ると電灯は線が根元から千切れているし、あの重いテレビが吹っ飛んでいる。ラッキーだったのは3年前に家をプレハブに建替えていたこと、壁にキレツは走っているがよく見ると壁紙が破れているだけ、鉄骨構造なので枠組はシッカリしている。ただ、ドア類は金具ごと外れていたり壊れていた。引き戸は外れて素っ飛んで角が壁に刺さっている。電機・ガス・水道・電話といったいわゆるインフラは全てNG。食器という食器は粉々に。そして外壁がボロボロに痛んでいた。ブロック塀がグラグラする。しかし倒れてはいない。ちゃんと中に鉄骨が入っている証拠。隣家の塀は完全に崩壊、道をふさいでいる。工事がずさんなのだ。
家の中の整理が何とか一段落したので、ゴミを出そうと表へ出てビックリ、近所の方々は家の外へ出て呆然とされている。殆どの家が半壊状態なのだ。怖くて家の中に入れないらしい。時折、瓦が滑って落ちてくる。まだ余震も続いている。考えてみると我が家だけが3年前に建替えているが、他の家は昔(20年以上前)ほぼ同時に建ったのにそのままなのだ。我家だけ外観は何事もなく建っているのが悪いみたい。西隣の家は2階から全部壁が落ちて中が見える状況、向かいの家は1階と2階が「くの字」に曲がっている。町内全滅だ。ペチャンコに潰れている家はないが殆どの家が歪んでいる。入れたものじゃない。
昼前に停電だけは解消された。
TVを見てビックリ、神戸が燃えている。死者2000人とかの報道。エライことになっている。でも身動き取れない。第一交通手段が全てストップ。車で行こうにも道路が瓦礫で通れない。連絡を取ろうにも電話は不通、携帯も繋がらず万事休す。常務には2,3日休むとは伝えてあったがそれっきりだった。当日は家の中を整理・掃除するだけで終わった。当座の食べ物・飲み物は何とかある。未だ正月の残り物があった。一番助かったのはモチがあったことだ。水道とガスだけは不通だが電気は通ったので何とか生活は出来る。余震は続く、その夜は家族抱き合って毛布に包り寝た。
本当に家を建替えて正解だった。ご近所は避難場所の近くの小学校に移っていかれたので、ゴーストタウンに我家と家族だけが残った状態で何か不安もあった。音がしないのは何か恐ろしかった。
TVを見てビックリ、神戸が燃えている。死者2000人とかの報道。エライことになっている。でも身動き取れない。第一交通手段が全てストップ。車で行こうにも道路が瓦礫で通れない。連絡を取ろうにも電話は不通、携帯も繋がらず万事休す。常務には2,3日休むとは伝えてあったがそれっきりだった。当日は家の中を整理・掃除するだけで終わった。当座の食べ物・飲み物は何とかある。未だ正月の残り物があった。一番助かったのはモチがあったことだ。水道とガスだけは不通だが電気は通ったので何とか生活は出来る。余震は続く、その夜は家族抱き合って毛布に包り寝た。
本当に家を建替えて正解だった。ご近所は避難場所の近くの小学校に移っていかれたので、ゴーストタウンに我家と家族だけが残った状態で何か不安もあった。音がしないのは何か恐ろしかった。
震災4日目、やっと出勤した。交通手段がないのでバイクで神戸まで移動、直線距離は30kmだが道路が寸断されているので六甲の山越え50~60km走らないといけないし、第一1月下旬だから非常に寒い、着込んだ上にアノラック・ベンチコート、マフラーに帽子、見られた格好じゃない。バイクは何度もパンクした。路面がガタガタの上に色々な物が落ちていて踏むと直にパンクする。通勤に片道2時間位かかっていた。目に焼き付いているのは道路上に並べられた毛布に包まれた遺体。3体、4体と並べて安置してある。夜間になると灯された蝋燭が異様!
<続く>
<続く>
2011年11月10日木曜日
レジャーワールド構想
神戸にレジャー施設を作ろうという企画が1985年頃に持ち上がった。
重厚長大と言われた工業中心の時代が終わり、これからは軽薄短小の時代、ソフトの時代と言われかけた頃、神戸の基幹産業であった製鉄業が終焉を迎えようとしていた。川崎製鉄の工場閉鎖、神戸製鋼所の高炉縮小があり、具体的には海岸の工業地帯がポッカリと空いてしまうことになった。神戸市として基幹産業の縮小は人口の縮小に繋がり、ひいては街の衰退に繋がる大問題だ。
そこで提案されたのが新しい産業としての「レジャーワールド構想」、東京ディズニーランドの成功により全国各地にいわゆるテーマパークが多数建設されかけていたので神戸でも集客施設として作ろうという気運が盛り上りかけていた。
最初は神戸商工会議所が中心となって研究会ができ、関係各社の共同出資で企画開発会社に移行して研究企画が進んでいた。
神戸レジャーワールド開発㈱(略:KLW)がそれだ。 神戸の主要企業が出資し社員も出したが、どこもメインのスポンサーになろうとはしない。事業への不安と未経験が先に立ち、最終的には1000億単位の膨大な投資がネックになった。TDLの場合、広大な敷地がありTDL周辺土地を売却することで開発費がねん出できた経緯があるが、こちらはゼロからの出発、何千億という投資をする企業はなかった。
神戸レジャーワールド開発㈱(略:KLW)がそれだ。 神戸の主要企業が出資し社員も出したが、どこもメインのスポンサーになろうとはしない。事業への不安と未経験が先に立ち、最終的には1000億単位の膨大な投資がネックになった。TDLの場合、広大な敷地がありTDL周辺土地を売却することで開発費がねん出できた経緯があるが、こちらはゼロからの出発、何千億という投資をする企業はなかった。
紆余曲折があり神戸市が開発したポートアイランド二期工事の用地に建設するという事業計画案も完成、模型まで作られていたのに頓挫した。(このあたりの経緯の記憶がアイマイになっているが)
結論から言うと当社の対応が事実上この計画を頓挫させたのは事実。商工会議所の次期会頭問題との絡みで、KLW企画会社に参加していたが出資は残したものの同社役員は退任、社員も引き上げた。
当時のKLW最大の問題は神戸市が用地提供をスンナリOKしないこと、勿論埋立地の用途変更申請が必要で国との厄介な問題はあったが、主たる問題は事業の成功性、だれもが未経験ゾーン、そんな中一番理解があるとされていた当社が事実上の撤退したのだからお先真っ暗になった。KLWの会社は休眠状態になり一時レジャーワールド構想は完全に頓挫した。財界・神戸市の関係もギクシャクしかけた。
KLWの会社が頓挫して直ぐに今度は神戸市が中心となって計画を進めるという。その為の協議会を作るので入って欲しいとの依頼があった。しかも型としては非公開、市が主導権をとるが民間の協議会に行政も参加する型をとる。従って、経費も会員企業の均等負担、協議会の会費という型で集めて全ての運営費にあてる。だから会費というには余りにも高すぎる会費。コンサル会社のコンサル料も入っているらしく、何か神戸市にハメラレタ感じ。どうして市がやる気になったのかも不明。参加企業はKLW会社の中心メンバーにイコールで、これもおかしな話、正規会員は各社のNo2(企業として決断出来る人)ということになり、実務はワーキンググループ(WG)を作り、各企業からの参加、市職員、コンサル会社で進めるということになった。WGには私が入った、WGは隔週に開催されたので割と忙しい作業ではあった。KLWの作った企画を尊重というかそれしかないのでそれをベースに主には事業計画の収支試算の検討から入った。要は事業を進めていくについての損益・継続性がポイントだった。TDLと異なるのは関東と関西のマーケットの差、ディズニーという世界ブランドとノーブランド、資金の無さ等々、問題点を挙げると成功は覚束ない。
ただ、ポーアイにテーマパークを作るという結論は決まっていたようにも思う。行政として神戸市が入りやすくする為のストーリー作りであり、国との調整(埋立地の用途変更)へのバックアップのようなものにも思えた。企画がまとまりプロジェクトは最終段階に、要は実行レベルでの参加、出資と債務保証、最後の踏み絵みたいなものだ。ここは神戸市の根回しは巧妙で不参加のメンバーはなかった。ただ、出資、債務保証で渋る企業が多かった。金額が大きすぎる。1社当たり計250億円、参加8社で2000億円、今までにない金額だ。
どこかが先頭を切れば話は早い、そんな意思はなかったのだが、当社の決済の速さで社長のOKを即とって市の事務局へ参加する旨報告、これがひき水となり全社参加へ。
この間の動きで当社に対するシンパシーがハッキリした。どこかが先頭を切れば話は早い、そんな意思はなかったのだが、当社の決済の速さで社長のOKを即とって市の事務局へ参加する旨報告、これがひき水となり全社参加へ。
各社にインフォーマルに調整していくと・・・。某製鉄会社や重工業会社、総合商社の当社寄りはそのように明言する会社があるほど明確になった。元々当社サイドにあった食品会社を入れると過半数の企業が当社シンパとなった。「ダイエーさんの後をついて行くのが当社の方針です」と言い切る企業まで現れた。
個人的なことを言えば、これで確実な出向先が確保されたようなもの、定年してからKLWの部長くらいにはなれるかも? 何か官僚が天下り先の財団を作ったような感じがしないでもない。
最終的には次回(これがあの平成7年1月17日)の協議会で全メンバーが集まり、正式決定ということでスケジュールが決まった。
そして、運命の1月17日を迎える。あの阪神淡路大震災のあった日だ。
震災で神戸市は非常事態。
レジャーワールドどころではない。取りあえず当日の協議会は無期延期、無期延期ということは計画自体も無期延期、無期延期は中止に近い。半年後、正式に中止が決まり当然のことだったがこれで皆が助かった。
神戸市も各参加企業も成功が疑問視される事業、しかも250億もの出資が助かった。
レジャーワールドどころではない。取りあえず当日の協議会は無期延期、無期延期ということは計画自体も無期延期、無期延期は中止に近い。半年後、正式に中止が決まり当然のことだったがこれで皆が助かった。
神戸市も各参加企業も成功が疑問視される事業、しかも250億もの出資が助かった。
2011年11月9日水曜日
留学生の受入れ
社長が政府の臨時教育審議会のメンバーになっていた。中曽根内閣の時代だ。
政府の各種委員の人選はどうやら多額納税者(社)から選んでいるようだ、つまりは沢山税金を納めている人(会社)への配慮みたいなもの。
臨教審の中身はよくは知らないが、そこで我が国の受入れている留学生が先進諸国に比べて少なく、今後は留学生を多数受入れるべきとの方針が決まった。そこで委員の一人であった社長は自身が実践しようと当時設立まじかであった流通科学大学と中内育英会に「中国人留学生を受入れる」よう指示があった。
いつもそうであるように指示は至極簡単なもので具体化は我々事務方がしないといけない。具体的には中国人・流通科学大学しか決まっていない。何人か? 費用は? 方法は? 全て決めなければならない。
いつもそうであるように指示は至極簡単なもので具体化は我々事務方がしないといけない。具体的には中国人・流通科学大学しか決まっていない。何人か? 費用は? 方法は? 全て決めなければならない。
大学に留学生枠を設けるだけなら簡単だが、どうやら費用を全額負担する腹のようで、採用人数と費用とのバランスがポイント、費用は育英会からだすことになりそうで、といっても育英会も潤沢に資金があるわけでもなく、またしてもエライコッチャ!
入学までは大学が費用面では育英会がもつことで、まずは費用を試算、学費は大学側が負担、その他の就学費用と生活費(住居・食事・その他)を育英会が負担するとして試算、概算で1人につき毎年200万円もいる。学部入学として2年間で1人400万円と試算しところへ中国での選考は都市別に振られ計6名と決められた。つまりは年間2400万円
要は当社と密接な関係のある都市の幹部にそれだけの権益を与えたことになる。結果的に選ばれた留学生は必ずしも成績優秀者ではなくその地方の有力者のお声かかりの人の色合いが強く、主旨と現実のギャップは大きなものがあった。
育英会事務局としては資金手配をしなけれなならない。
半永久的に続く事業としてこれは増資をして(財団なので基本財産の増加)その利益(株の配当)で賄わなければならない。増資といっても元々社長が個人的に全額出して作った財団法人、いまさら他人さまに声はかけられないし、だれもこんな話にのってはこないだろう。社長に追加の出資をお願いするしかない。
半永久的に続く事業としてこれは増資をして(財団なので基本財産の増加)その利益(株の配当)で賄わなければならない。増資といっても元々社長が個人的に全額出して作った財団法人、いまさら他人さまに声はかけられないし、だれもこんな話にのってはこないだろう。社長に追加の出資をお願いするしかない。
金額を株式に逆算(配当は1株15円だった)するとなんと300万株以上になる。当時、株価は2000円位していたので総額は60億円!
問題は誰が社長に説明してその株式をもらってくるか? 事務方としては常務理事にお願いするしかない。誰も気の進まない仕事だが、無理やり常務理事に行ってもらった。「君は社長のポケットに手を突っ込めというのか!」と常務には嫌味をいわれたが、イヤならオレが行くといったハラはくくっていた。
すごい話だが、社長は二つ返事でOK。当時の中内社長にとって60億円は庶民の6万円位の感覚か?
ただし、税金がかからないようにとの指示、我が国では寄付をしても下手をすると課税されかねないのだ。
すごい話だが、社長は二つ返事でOK。当時の中内社長にとって60億円は庶民の6万円位の感覚か?
ただし、税金がかからないようにとの指示、我が国では寄付をしても下手をすると課税されかねないのだ。
方向性は出たので事業としてはGoしたが、あとに残された問題はこの税金問題。
税務なんて全く知らないし、公益法人のことも日常業務以外は全くの素人に近い。
ラッキーだったのは社長顧問に以前某立大学の専務理事をされ、公益法人には非常に詳しい方がいてその方の指導を受けることが出来たことだ。毎度のことだが何か問題が起こるとどこからか救世主が現れて助けてくれる。ラッキーそのものだ。
また、社長の個人資産管理会社も全面的に協力してくれた。
しかし、作業は事務長たる私ひとり。シンドイことに変わりはなかった。
監督官庁たる兵庫県教育委員会や大阪国税局との調整が主な仕事、最終的には「試験研究法人の基本財産増額」は無税扱いになるのでその手続きを実行した。今までの事業内容に始まり、今の事業、今後しようといる事業それぞれの内容を明記、中には関係者の署名・捺印がいるものもあり、非常に作業は煩雑ではあった。
しかもその申請書たるや同じものを手書きで3部提出しなければならない。申請書は厚さ2cmもあるしろもので3部作成はきつかった。勿論、年度内申請の期限もある。やっと何とか作成し提出。
ホットしていたら東京の国税庁から電話があり話を聞きたいという。このときのことは今でも覚えている。担当官いわく「今度、何かの用事で東京へ来られる機会がありましたら、国税庁へお立ち寄り願えませんか」と至極丁寧な言い回し、この電話で「では次の機会に・・」という訳にはいかない、「早速伺います」いうことで、翌日朝一番に上京、国税庁へ。
エリート中のエリート官庁、大蔵省の一部だから石造りの古いビル、エレベータの床がすり減っている。廊下は薄暗い。驚いたのはエアコンがない、夏の暑い日なのに扇風機しかない。税金を集める方だから無駄には使わないという姿勢のようだ。
担当官と面談したが、内容的には書類の確認程度、つまりは書いた事務方の人間を確認したかっただけの模様。しかし、これで何か問題があればいつでも国税に連絡するルートも出来た。先方もそれが狙いのようだった。
税務なんて全く知らないし、公益法人のことも日常業務以外は全くの素人に近い。
ラッキーだったのは社長顧問に以前某立大学の専務理事をされ、公益法人には非常に詳しい方がいてその方の指導を受けることが出来たことだ。毎度のことだが何か問題が起こるとどこからか救世主が現れて助けてくれる。ラッキーそのものだ。
また、社長の個人資産管理会社も全面的に協力してくれた。
しかし、作業は事務長たる私ひとり。シンドイことに変わりはなかった。
監督官庁たる兵庫県教育委員会や大阪国税局との調整が主な仕事、最終的には「試験研究法人の基本財産増額」は無税扱いになるのでその手続きを実行した。今までの事業内容に始まり、今の事業、今後しようといる事業それぞれの内容を明記、中には関係者の署名・捺印がいるものもあり、非常に作業は煩雑ではあった。
しかもその申請書たるや同じものを手書きで3部提出しなければならない。申請書は厚さ2cmもあるしろもので3部作成はきつかった。勿論、年度内申請の期限もある。やっと何とか作成し提出。
ホットしていたら東京の国税庁から電話があり話を聞きたいという。このときのことは今でも覚えている。担当官いわく「今度、何かの用事で東京へ来られる機会がありましたら、国税庁へお立ち寄り願えませんか」と至極丁寧な言い回し、この電話で「では次の機会に・・」という訳にはいかない、「早速伺います」いうことで、翌日朝一番に上京、国税庁へ。
エリート中のエリート官庁、大蔵省の一部だから石造りの古いビル、エレベータの床がすり減っている。廊下は薄暗い。驚いたのはエアコンがない、夏の暑い日なのに扇風機しかない。税金を集める方だから無駄には使わないという姿勢のようだ。
担当官と面談したが、内容的には書類の確認程度、つまりは書いた事務方の人間を確認したかっただけの模様。しかし、これで何か問題があればいつでも国税に連絡するルートも出来た。先方もそれが狙いのようだった。
色々あったが、何とか基本財産増額問題は完了した。
お世話になった方々に感謝! 感謝!
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