2011年12月9日金曜日

FM放送局

当時は今から思うとバブル絶頂期は既に越えていた時期、しかし会社(ダイエー)はまだバンバン! 何にでも手を出していた。

政府がFM放送免許を各府県に1つだけ下ろすことなり、兵庫県内でも各町が手を挙げた。 
最後まで残ったのは神戸のグループと姫路のグループ。 
県が調整に入ったが双方譲らない。県としては何でも神戸市に作るのもマズイと考えたのか両者折衷案をとった。 
つまり本社は姫路におき姫路の顔をたて、放送局は神戸に作るというものだった。 実質、神戸に作る型、ややこしいのは神戸で作った番組を一度姫路に送りそこから電波を出すと言うところ。 技術的には可能かもしれないが、何かとロスが多いのではと危惧した。 名前にも気を使い地名は入れずに「KissFM」とした。
そして、その放送局の実質的経営はと言うと又ややこしいことに。
TVやラジオは放送法という法律があってマスコミの独占支配を排除している。具体的には10%以上の株式取得を禁じている。 
そこでこれもややこしい奇策(マル秘なので触れないが)をとり、実質ダイエーが経営する方法をとった。FM会社の主な出資会社はダイエーシンパの会社で固めてしまい、主導権を握ってしまった。これはそれまでの財界活動の勝利だ。つまりは本店の活動成果。
こうして「Kiss FM」が出来た。 

オモシロイのはダイエーではKissFMはグループ会社だとしているが、
神戸新聞のパンフレットには神戸新聞グループだと書いてある。双方がグループってどういうことか? 同じことがTV局「SunTV」でも起こっていた。
ダイエーが手をひいた今、その問題は無くなったろうが。

2011年12月7日水曜日

J リーグ 進出

Jリーグが創設された時の話。
神戸でもプロサッカーチームを作る話があり、ダイエーはこれにも首を突っ込むことになった。まだ当時はダイエー絶頂期で何にでも首を突っ込む感じの頃だった。 

例によって神戸案件なので、本店内にプロジェクトチームがおかれ、活動が開始された。母体は確か川崎製鉄か川崎重工だったので当社に話があったのか?当時、川崎重工・製鉄とは非常に良好な関係であったから。
こうしてサッカーチーム「ヴィッセル神戸」が生まれた。
今、ヴィッセルは楽天が親会社になっているが、ヴィッセルはヴィッセルのまま。これには次のようなJリーグの方針があったからだ。
いわゆる現場、チームの中身はプロに任せて、会社設立から運営の準備が進められた。
最後までもめたのはチーム名、Jリーグの基本方針はチーム名には都市名を使い企業名はNGであった。 
ダイエーとしてはプロ野球と同じようにダイエーヴィッセルにしたかった。と言うより、社長もプロジェクトチームもそうなると思っていたようだ。だからギリギリ最後まで企業名使用を調整した。どんどん開幕時期が近づいてくる、企業としてはその名前を使うことによって広告効果と費用の広告費扱いにでき非常に有利。しかし、ガンとしてJリーグ側は譲らなかった。これは立派だっただと思う。今のプロ野球のようにいい加減な扱いではない。ユニフォームに企業名が入ってもそれは単なる広告、チームは地元のもの。このことが地域のスポーツ振興にどれだけ役立っているか。野球チームのない地方の都市にとって今やサッカーチーム(J2も含めて)はシンボル的存在だ。

ここで、大問題が起こる。
考えられたことだが、中内社長がチーム名問題で「撤退」を指示。サッカー会社として動き出した頃だったので、大混乱。しかし、社長指示は「即刻、引き揚げろ」で出向していた社長以下が手を引くことに。
サッカー会社社長は「今さら放りだす訳にはいかない。自分はダイエーを辞めてもサッカー会社に残る」と言いだした。 彼の言うのも御尤もだが、サッカー会社に残っても親会社たるダイエーが手を引けば居場所は無くなる。全くイミがない。 しかし、彼はダイエーを退社しサッカー会社に残った。
喧嘩別れの型になったが、暫くしてダイエーへの復社がゆるされグループ関連の会社へ。
ここが中内社長らしいやり方だ。

2011年12月6日火曜日

K女史のこと

ダイエー・イチケンとサラリーマンを辞めて浪人中、ある人の紹介で中国人女性・Kさんの仕事を手伝うことになった。

彼女は神戸・三宮でスナックを経営していたので以前から知っていたが、ここまでヤリ手の女性とは知らなかった。
彼女の家族関係が理解できない。
勿論、結婚していて息子もいる。息子を日本に呼び寄せ日本の大学を卒業させて跡継ぎさせようと育てている。妹家族も日本にやってきている。
姉妹ともご主人を中国に残したままで? チョット理解に苦しむ?

彼女は現在、中国との貿易業・上海料理店・デパートでの中華惣菜店・スナック・中国人留学生の受入れ学校等を経営している。
元々は中国からの私費留学生、殆ど無一文でやってきてパートを3件掛け持ちして日本の大学を卒業、そのまま日本に居座って上記事業を拡大してきた。

日本語はあまり上手ではないが、仕事へのスタンスはさすが中国人といった感じ。当時は中国との貿易、繊維製品の製造輸入を手掛け拡大しようとしていて、流通に詳しいということで私に手伝って欲しいとの依頼があった。しかし、私は衣料品はあまり知らないし、まして輸出入にはずぶの素人。その点では彼女の期待には答えられなかった。しかし、1年弱の間、彼女の手助けは色々したつもりだ。

中国からの製造輸入は非常に儲かる。
アバウトな話、日本で100円の商品は中国ではだいたい1/3の30円位で出来る。輸送・通関等の諸経費も加算しての価格だ。そして2/3の価格で卸す、当方の利益は1/3の30円位はある。
彼女は自身のネットワークを活かして中国の工場に仕様書発注する。
今のネットワークはスゴイ!彼女は国際携帯で上海の工場へ電話でどなり散らす。(日本人には中国語の会話はそのように聞こえる)こうなると国内も海外もない。
中国との取引きは慣習として発注時に代金の1/3を支払う。商品の完成時に1/3、日本到着時に残りの1/3をはらう。つまり100円の商品は30円で出来るので1/3の10円を最初に工場側に前払い。全くの信用のみの取引、実際ここでトンズラすることもあるらしいから要注意だ。

この方法で前年は1億の売上、つまり純利益は3000万円、非常にオイシイ話。 
それをK女史はもっと拡大しようとしていた。
日本での販売先は中規模の通販会社、しかし販路を拡大するとその先払いの資金がない。当時、日本政府の景気対策で中小企業への無担保融資があり、そこから1000万円借りる交渉をし、1000万円借り3ヶ月後の取引終了後、返済しようとすると銀行は返さなくて良いという、もっと融資しようとも言う。中国貿易の有望さが注目されかけていた時代だ。最終3000万円まで借りたことを覚えている。
その間、オモシロイ話は多々あった。
某焼き肉チェーンが焼き肉用の網を10万枚単位での打診があったり(値段が合わずNG)、自動車部品の話があったり、その為上海まで出張したりして非常に有意義な期間だった。
K女史からは色々と勉強させられた。多謝・多謝!

上海の話は別途書くことにする。

2011年12月5日月曜日

流通科学大学

大学を作る話。
中内社長が私財をなげうって大学を作るということになった。
しかも神戸に、「流通科学大学」だ。(関東にある流通経済大学とは無関係)
ホンネは相続対策だが! 財団法人に寄付したら、その時点でその金は公共のもの。支配は可能だが自分のものではなくなる。そこんとこをダマシタ奴が大学設立を持ちかけ、社長はのった。
多くの新規事業やプロジェクトを始める場合、神戸関連が多い。
従って準備チームは本店内に置かれることも多くなる。その為かどうかは疑問だが、1フロア余分に事務所スペースが空けてある、空いている。

例によって準備チームが本店内におかれ数名の担当が常駐した。学校法人の設立なんて殆どというよりは全くの素人、苦労していたようだ。
この業務は本店(というよりはダイエー)とは無関係の話で首を突っ込むことはなかったが、神戸の人にとってダイエーが作る大学ということでどこへ行っても話題にはされたので、情報だけは知っておかないといけなかった。
私が担当していた中内育英会の関係で流通・商業関係の大学の先生もこの大学設立に関係されていたり、関心を持たれたりしていて色々と聞かれたり情報もあった。だから大学設立チームとの情報交換も大切であった。
文部省への申請や、大学用地を取得するための神戸市(市の開発地を購入)との調整やらチームのメンバーは色々大変だったようだ。

流通科学大学自体はダイエーが作るということで非常な人気だった。
要はこの大学を卒業すればダイエーに就職出来るとのうわさで、初年度の入試応募者は倍率50倍、関西の有名私大・関関同立の次にランクされる位の人気だった。

これが、大変なことになった。
受験者が多いのはありがたいが、実際の入試が大変。1万名を越す受験者の入試をしなければならない。受検会場が足りない。入学試験を管理する先生が足りない。そこで受験会場は近隣の大学や・高校をかりて、受検当日はなんと我々ダイエーの管理職が担当することになった。これは内密の話、民間企業の社員など受検に使うなんて文部省はOKしないだろうから。
で、その理由かは知らないが、当日(日曜日)は無給・交通費も出ない。出たのはヤヤ豪華な弁当だけ! 受験料を何億も稼いでいるのに。 

現場が面白かった。(受験生の皆さんゴメンナサイ)
担当した受検会場は50名位入る小さな教室、そこを二人で担当、お互い取り決めをした。「お互いを先生と呼ぶこと」「必要以外には喋らないこと」「笑わないこと」等々。社内ではあだ名で呼んだり冗談をよく言うが、それはやめようと、受験生に失礼だからの配慮。
しかし、倍率50倍、教室に50名、つまりこの教室で1名しか合格しないのだ。何という厳しさ!

その後、事務長を務める中内育英会の奨学金枠がこの流通科学大学にも割り当てることになり、例の中国人留学生のこともあり大学との関係は深まっていった。
当時、大学へ出向した(させられた)ダイエー社員は「大学へ飛ばされた」という被害者意識を持っていたようだが、ダイエーが崩壊した今となっては大学だけが残り、彼らも残り「ラッキー」そのもの。
人生すべて「塞翁が馬」。

2011年12月2日金曜日

一難去って、また一難。

先々月、足の血管を手術して血流がよくなり歩くのが楽になったのだが、
「一難去って、また一難」
今度は以前からい気になっていた右足の付根が痛み出した。
大腿骨と足の間の軟骨が無くなりかけているのだ。 腰から太ももあたりがピリピリと痛い。

骨そのものではなく周辺の神経が痛む。
それも常時ではなく何かの拍子にピリッとくるから厄介だ。日常生活に支障があるかと問われると「アル」ともいえない。調子の良い時は何もない。

以前の整骨医の診断では「耐えられなく痛くなってから考えよう」といった医師とも思えぬ診断だった。その時がやってきたのか?
最終的には人工軟骨を入れる手術&リハビリで治るらしいが、ついこないだ入院・手術したところなのに、また手術はハッキリ言ってイヤ!
もっと痛くなるまで待ってみようと思う。病気でもないし放置しても本人がイタイだけで構わない。

ため息だけが出る。「一難去ってまた一難」
「人生全て塞翁が馬」かも?

2011年12月1日木曜日

神戸ルミナリエ

今年も神戸でルミナリエが始まった。
震災の年から数えて17回にもなる。当初はここまで続くとは思っていなかった。
このルミナリエは神戸市が開催しているように思われているが(今は神戸市が主催者)実はある神戸の財界の大物の発案。
彼は一人で開催を説いてまわり約数億円かかる費用を寄付金を集めて開催にこぎつけた。それには神戸商工会議所を巻き込んだ全く民間主導のものだった。経済効果は期待できるものの最初はみんな疑心暗鬼。最初は4~500万人もの来場者があるビッグイベントになるとは思わなかった。交通関係のJR・阪急・阪神等のみが収入増が期待でき、多大な寄付をしていた。当然、当社にも寄付依頼があり、他社の動きも調べて動いてはみたが、この寄付に何のメリットもない。社長がOKする可能性は非常に少ない、というより「何でもかんでも持ってくるな!」としかられそうだ。
そんな中、逆にダイエーが動けば他社も仕方がなく動くと言われる次第。

個人的にも何とかしたかったので、禁じ手を使った。

つまり、中内社長が断れない人から頼んでもらうのだ。そこで、その方にそれとなくお願いに、そして上手く二人が会えるようにして頼んでもらった。 即、OK! グループ各社にもお願いしてかなりの額を寄付した。これで他社も出しやすくなり何とか数億円の寄付が集まって開催に至った。

しかし、実施される街は大変。スタート地点の元町の大丸さんなどは、開催待ちのお客さんで売場は混雑するし、またトイレが公衆便所状態、その清掃も大変で多大な迷惑をかけたようだ。 売上増を期待した飲食店もスタート地点の元町周辺はガラガラ、終点地点の三宮周辺だけが賑わったようで、賛否が分かれ翌年には反対運動が起きる。その問題は解決せず今に至っていると思う。


寄付も長くは続かない。

来場者がお賽銭みたいに100円でも入れてくれたらと各地に寄付の箱を用意したがイマイチ。   タダで楽しむな!と言いたい。
最終的には神戸市の外郭団体がルミナリエを受け継いでもうこれはやめられないイベントになった。

確かに止めるには惜しいイベントではある。

新聞記事情報

これは広報の仕事だが、神戸には広報担当が1名なのと我々にとって新聞情報も必要、そこで広報業務の一部を手伝っていた。

単純な新聞の切り抜きを作るだけの仕事だが、担当者任せに出来ない重要な作業なのでシフトを作って一日置きに管理職が担当した。

作業的には毎朝、8時半までに新聞のサマリーを東京の広報へFAXする。9時までには各地の新聞が社長へ届く段取り。
そのためには7時頃には出勤し日経+全国紙+地元紙神戸新聞に目を通し、切り抜きを作る。

この作業は東京・大阪・福岡もやっていた。

当社の発表記事でも各地各紙の扱いがどんなものかの比較にも主要都市の新聞情報は大切と考えられていた。同じ新聞発表でも大阪では1面なのに東京では1面にはのっていないと言ったことはママあった。
流通関係の情報、経済界の情報、それに各地特有の情報は漏らさずピックアップ台紙に張り付けてサマリーを作る。神戸で特に気を使ったのは神戸新聞、地元の情報で神戸にしか載らない記事は多々あるからだ。特に当時神戸新聞とは冷戦状態(当時記事に誤謬があり、広告全面撤退していた)であったので気を使った。
慣れてくると各紙の姿勢がよくわかる。ひどい記事は通信社の記事のまる写しなんてのもある。
こちらが作戦上、ある1紙だけにリークした記事などはその後の各紙の対応も色々あり面白かった。

月曜が大変、何故なら日曜分が追加されるからで月曜は管理職全員で対応した。

当時のダイエーは流通業界のトップだし、中内の動向も注視されていたので広報対応は重要な業務であった。
結果的に新聞情報で知らない記事はなくなり、その後の渉外活動に役にたったことは言うまでもない。