2015年4月12日日曜日

西部劇ブーム

「西部劇」・・・死語になりつつある。

そう言えば「時代劇」も影が薄くなりつつある。
我々が子供の時代、映画はヤクザものかチャンバラ、洋画は西部劇が主流だったように思う。

TVでも「ローハイド」「拳銃無宿」「ライフルマン」等々たくさん放映されていた。最後に絶対に悪者はやられる勧善懲悪(アメリカ映画の基本)なので安心して観ていられたものだ。

中学時代、その西部劇にハマっていた。
モデルガン屋さんがあってプラスチックに銀メッキしたものがあって、学校の帰りによく立ち寄ったものだ。しかし安くて3000円。弾蒼や撃鉄が動くものだと数千円もした。
小遣いが月500円の時代、中学生には手が出ない。でも何とかやりくりして買った。

当時の親友は中村クン(彼は30代に早世したが)彼のアイデアでボール紙でガンベルトを作ったりもした。薄手のボール紙を数枚合わせてベルトとガンホルダーを作り色を塗ってそれらしい物が出来た。
二人で悦にいって早打ちの練習や打ち合いをしたものだ。

それが講じて山でやろうと言うことになり、豊中で唯一残された山林、東豊中まで行った。
今では住宅街になり、千里ニュータウンに隣接する場所だ。当時(昭和35~6年)は知らなかったが千里ニュータウンの工事が始まっていて山をかき分けて入ると突然、開発現場に出くわした。ブルトーザーが大きな音をたてて動いている。
二人にとっては大発見。「誰にも言わないでおこう」二人だけの秘密だ。
そして度々二人の「秘密基地」を見に行った。拳銃ソッチノケで!
拳銃はつごう数丁持っていたが知らず知らずに無くなってしまっている。惜しいことをしたとも思う。

2014年9月24日水曜日

石橋の家

久々にBlogをあけてみた。
3月以来半年もBlogをさわっていなかった。いつものことで書き出したらワッと書くがさわらないとなにもしない。何故かは解らないが、またワッとかくことになるのだろうか?

前回は中学2年、昭和32年13歳で止まっている。

 中学2年の秋、蛍池から石橋へ転居した。
石橋は池田市ではあるが阪急の駅にして1駅。で、豊中市から池田市への転居で当時の言い方で「越境通学」になった。少しでも良い・有名な学校へ入学するのが「越境入学」。ボクの場合は慣れ親しんだ中学に残っただけ、正式にはNGだろうが残された1年半を石橋から電車の乗り豊中まで通学した。
オヤジがバンバンの時代で石橋に新居、中古住宅を購入し改装・増築したものだ。
 場所は昭和の初期に阪急が開発した「石橋荘園」という住宅地、池田の室町に次ぐ日本で2番目に開発されたもの、当時の大阪の富裕層に「郊外に快適な住宅を」のキャアチフレーズで農地を開発、碁盤の目状に宅地にしたもので、今から考えると阪急創設者・小林一三氏の先見の明に関心する。

 近くに宣真学園という女子校があった。(奇遇だが、優子も義姉が通っていた学校でもある。時期的に言うと義姉とボクはすれ違っていた可能性もある。)
また、筋向いの家(岡田さん)は当時の救世教・石橋集会所だったとか!

 この家には道路建設のため数年しか住めなかったが、イイ家だった。
敷地は100坪あり前庭は和風・座敷・控えの間もあり純日本建築、それに裏庭を半分潰して洋間・2階に兄とボクの部屋。裏庭は全面に芝生をはりオヤジの好きなGolfの練習が出来るようになっていた。

自分の部屋が出来たことは非常に嬉しかった。
備え付けのベッドもあり出窓に机も設置されていて、受験勉強には快適であったが、逆に自分の城ができて好き勝手に自由を満喫した。丁度その頃、兄が就職し勤務地が函館になり引っ越した為、兄の部屋も使えるようになり2階を独占して快適そのもの。森本家、絶好調の時代ではあった。
-オシマイ-

















2014年3月8日土曜日

中学時代の友人

中学1年のクラスには未だに思い出す友人が何人かいた。
中村クン・芦田クン・長谷クン等だ。あと、原田・荒木・佐々木等がいたが、中村以外は非常に成績優秀な生徒だった。
それにつられたのか、1年の2学期、信じられないのだが成績が大躍進した。
クラス十何番から突然クラス4番になった。芦田・長谷・原田・森本だった。芦田はその後、北野高校から一ツ橋大学へ、そして日銀へいった。長谷は豊中高校から阪大をへて住友商事に入社、IT系の会社を立ち上げて社長になった。
因みに芦田クンの父君は住友生命の社長、兄は東大卒で大蔵省へ。家は金持ち、頭はいいし、兄弟で大蔵省・日本銀行とは恐れ入る。
でも、当時は全く仲のよい友人だった。お互いの家に泊まりにいったりもした。
中村クンとは兄弟以上の付き合いだった。1年生は同じクラス、2年・3年になってクラスは違ったが、非常に仲が良かった。登下校も一緒、週末にはどちらかの家へ泊まり行き、徹夜で話し込んだものだ。 その彼も早世した。残念な限りだ。

中学入学

中学は大阪府豊中市立の第五中学校へ行った。
豊中の中学は味気ないネーミングを未だに続けている。因みに我々のころは6中までであったが、最近では20位まであるようだ。
で、やはりベビーブーマーである我々の時代は50人クラスで15組まであった。1学年で700人以上いた。

何組であったのか忘れたが、1年生のクラスは学校でも有名な「イトハゲ」伊東先生だった。何の担当だったかはこれも忘れたが、イトハゲが有名なのは担任クラス全員に日記を書かせること。それを提出、コメントが書かれて帰ってくる。書式は決まっていなかったが大学ノート1日1ページは書かないといけなかった
ように思う。
先生に見せる日記だから当然ホンネは書けない。でも、担任とのコミュニケーションはこれでとれていたと思う。

今から思うに、この習慣は何と結婚する前まで続いた。

ありがたい習慣がついた。何故、結婚を期にやめてしまったのか、又、何十冊もあった日記を結婚を前に燃やしてしまったのか。今から思うに残念だ。

日記を書く習慣は文章を書く習慣にもなり、当時はイヤな日記ではあったが、今から思うとイトハゲさま・様だ。








2013年12月24日火曜日

蛍池時代(その7・ガールフレンド)

なかなか小学校を卒業出来ないでいる。
書けば書くほど色々思い出すから仕方がない。
でも、ここらへんで卒業しよう。
最後の話題は女の子のこと。特にマセテいたとは思わないが、6年生の頃はよく女の子達と遊んだ。それもミス蛍池小学校クラスの可愛い子達だ。「達」と言うのは数名のグループでの遊びだったからで、どの子が好きのと言う話ではない。男は決まって二人、ボクと高松クン。 高松クンはなかなかのハンサムボーイだった。女の子の名前で覚えているのは青山さん・木山さん位か? あと二人位いたと思うが覚えていない。
よく青山さん宅で遊んだ。何をしていたかハッキリとは覚えていないが、唯一覚えているのは男女大綱のスモウ。 何故スモウなのかはわからないが、子供ながらによくやったものだと思う。
その後、中学に入ってからは彼女達とも高松クンとも交流はなくなった。
甘酸っぱい思い出ではある。

蛍池時代(その6・クリスマス)

今夜はクリスマスイブ。
小学生時代、ボーイスカウトに入っていたので毎年クリスマスパーティーをしていた。
学校の講堂を借りて、カブスカウト・ボーイスカウト・ガールスカウトと父兄も一緒になって日本的なクリスマスパーティーをやっていた。
毎年、校庭の大きなヒマラヤ杉をクリスマスツリーにして夕刻からスタンツ(寸劇)スカウトソングを各班ごとにする。キャンプファイアーの冬版と思えばいい。
夕飯は名物の闇汁。大きな鍋に色々な物が入っている。わざと下駄型に切った大根。大きなままの豆腐、肉の脂肪の塊・・・等々。味は忘れたがあまりおいしい物ではなかったが、電気を消して暗闇で食べる。だから「闇汁」お椀の中のものは全て平らげないとバツゲームがあった。
当時はまだ日本にクリスマスは定着していない時代だったので、クリスマスってのはこんなもんだとずっと思っていた。
未だに我国のクリスマスはクリスチャンでもないのにプレゼント交換したり、パーティーしたりでおかしなものだ。まだ家庭内でするようになっただけマシか!

蛍池時代(その5・家庭教師)

小学4年か5年の時、家庭教師がついた。先生は小田さんと言う当時、どこかの医大生だった人だ。
週二日位、夜に時間ほど家に先生が来られた。
英語(小学生なのに)が主だった。お陰で中学に入って英語を勉強するようになった時には既に中2の教科書の半分位まで進んでいて、英語が得意科目になっていた。(因みにいまでも英語は好きだ)
確か、中2位まで教えてもらっていたと思う。
毎回、終わりがけに母がオヤツを持ってきてくれる。その時が一番嬉しかった。あぁやっと終わったと。 
大学へ行って自分が家庭教師のバイトをやりだして近所の小学生二人を教え出してもオヤツがやはり楽しみだった。大学生にとって家庭教師は時間的制約はあるもののボロイバイトとではあった。週2回2時間で月8千円、時給が100円位の時代だったので効率的だった。
しかし、小学生時代に家庭教師なんてわが家は裕福だったのか?
しかし、あの小さな(今風に言えば2LDK)家でよくやったものだ。
困ったのはその時間帯のテレビが見れず、翌日友達の輪に入れなかったことか!