2011年11月30日水曜日

U.S.Army Band

神戸日米協会事務局としての・・・仕事?

神戸日米協会では毎年「神戸まつり」時に米陸軍軍楽隊(厚木基地駐留)を招いてパレードに参加していた。彼らも神戸に来るのを楽しみにしていたようだ。

因みに、このUSArmyBandは兵隊が楽器を演奏しているのではなくミュージシャンが軍服を着ていると言われているほどで彼らは個々には一流のミュージシャンだとのこと。
話はそれるが湾岸戦争が起こった時、彼らにも出撃命令が出て楽器を銃に変えてイラクへ行ったとか「明日、イラクへ出発します」とメッセージをもらった時にはアメリカの厳しさを実感した。

USArmyBandは2泊3日で神戸へやってくる。

細かい話だが、神戸へ来るまでは彼らは出張扱い。神戸で活動中はこちらがその面倒を見ないといけない。それには費用(宿泊・食事・移動etc.)も世話役のスタッフも必要で準備も大変。(費用の捻出も大変だがここではふれない)
パレード前日には歓迎Partyを開催。
これがオモシロイ。彼らはこの出張を神戸で遊ぶことを楽しみにしている。神戸にはミュージシャンの集まる店が数多くあるからだ。 彼らにとってPartyは食事の感覚で、早く終わって街へ繰り出したい。 ところが主催者である我々は彼らとPartyを楽しみたい。彼らをノセテ演奏させ、賑やかなPartyにしたい。彼らはノルとやはりミュージシャン、なんでも演奏してくれる。最後にはみんなでダンス。楽しいPartyではあった。

ここで一番困るのは神戸日米協会々長(=社長)の機嫌。

何か問題があってブスッとされていてはPartyもダイナシ。会長の機嫌取りの対策も必要なのだ。つまりは会長のお相手を招待しておくこと。一番よいのは知事や市長に来てもらうこと。市長は神戸まつり中なので忙しいが顔だけは出してもらう。そういったイラン気遣いもしなければならない。
翌日のパレードには会員とArmyBandが参加。
でも会員が中々集まらない。パレードなんてという年齢の方が多いから仕方がない。勢いJCや関係先の動員も必要になる。Armyの世話役も必要。 当日はバタバタだ! 彼らの中には菜食主義者やブタは食べない人とか、アメリカ人なのにハンバーガーは食べないとか、フライドチキンでも地方によって味が違うので何種類か用意しないといけない。日本人感覚では対応出来ない人もいる。勿論、女性隊員も数名いる。
彼らの演奏とパフォーマンスは毎年市民に大好評。あれだけの迫力のある演奏・パレードは中々見られるものではない。
今、考えてみてヨクあんなことやっていたなとゾッとする。
まだ若かったのか?

2011年11月29日火曜日

米軍 厚木基地見学

米軍関係のことが続く、神戸日米協会事務局の仕事の関係でお付合いがあったからだ。(7これもダイエー社員としての仕事?)

神戸日米協会では毎年、神戸まつりにUSArmyBandを招いてパレードに参加していた。
その関係で彼らの駐留する厚木基地とは関係があった。外交辞令で「一度お越しください」とは言われていたが、協会幹事が本気にするとは思わなかった。そう言っているなら一度行こうということになった。これも全くのアソビ。

そしてどうして知ったのか基地内のGolf場でプレイしたいという。無理なお願い。
でも、先方は全てOK、厚木の司令官スタッフ(軍属)は殆ど日本人なので交渉も簡単だった。しかも司令官秘書役は日本人女性で彼女が色々せわをやいてくれた。
参加者を募集して20名くらいの視察団を作り厚木へ。
厚木基地は在日米陸軍の総司令部があるところ。だからか兵器類はあまり見渡らない。ジープ・トラックが何台か並んでいるだけ、それともどこかに隠してあるのか?

総司令部でレクチャーを受けた。
先方の狙いは良好な日米関係の維持・拡大。日米安全保障条約と在日米軍がどれだけ日本の自由と民主主義に貢献しているかを強調する。彼らは必ず「自由&民主主義」という。自由と民主主義を守る為ならどこへでもなんでもすると言ったスタンス。日本は国民の生命財産を守るのが防衛だと思っていいるきらいがあるのとエライ違いだ。
しかし不遜にも我々の主たる目的はGolf. 
このレクチャーは有意義なものだった。 日米安保の軍事部門の構成が良くわかった。 やや、疑問なのはそこに日本政府、自衛隊があまり出てこなかったこと、米軍中心の話だからか? 
有事の際、情報はまずこの厚木に集められ、ハワイの太平洋軍司令官にそれから本国・大統領へ流され、大統領が命令を下す。海軍との関係を知りたかったが質問は控えた。長引くとその後のGolfに影響する。

ランチョンミーティングだったので食事がでた。
今日はVIP扱いと言うことでホスト役の将校が多数同席、しかし基地一番のメニュウというものの、ペラペラのステーキとジャガイモ・スープの簡単なもの。当時は急激な円高で基地運営も大変だったのでこんなものか! 因みに、基地のアメリカ人はその頃ほとんど基地外(つまり日本側)へは出ないとのこと。日本は物価が高いから、つまり日に日に円高でドルの価値が下がっていくかららしい。

ランチ後、待望のGolf。
基地に隣接するGolf場、到着順にスタート、セルフでカート、このカートがコース内グリーン以外どこを走ってもOKで非常に楽。しかもプレイ料金が700円(当時$120円)くらいでタダ同然。 コースは平地に人工の山・川等を作った簡単なもの。それでも広い。メンテはイマイチだがそれもご愛嬌。周りは英語ばかりで海外でプレイしている感じ。

プレイ後、風呂は無し、シャワーを浴びる。
このシャワールームは何の仕切りもない。隣のデッカイ米兵と一緒にシャワーを浴びる。こんなデッカイ奴と戦争したら負けるのアタリマエや!
厚木で気を良くしたので今度は沖縄でGolfしたいと皆が言いだしたが、沖縄は米兵のみでNG.因みに沖縄のコースは素晴らしいとのこと。
日米協会の事務局長もたいへんだった?

2011年11月28日月曜日

U.S.S. ミッドウェー

東京の日米協会、外務省の列記とした外郭団体。
神戸日米協会はその法人会員。

日米協会からは月例の各種会合の案内以外に緊急の案内がある。たいていは米軍がらみの案件。情報が軍事機密なので連絡が直前にならないとできないのだ。

当時、在日米海軍の空母ミッドウェイーが来週、横須賀に入港し米海軍が見学を受け付けるといっているので、申し込んで欲しいとの案内が突然きた。
見学日まで数日しかない。メンバーに連絡して参加を受付ける日には時間がない。でも一度見学してみたかったので、協会役員数人に声をかけた。2人が行くという。こうなれば事務局も同行しなければ、ということにして申し込む。全くのアソビだ。
今日に東京に前泊して、全国から集まった会員約40名と貸切バスで横須賀へ。
横須賀米軍基地、そのゲートから圧倒された。警備兵のデカサ!そして本物のカービン銃と拳銃。ゲートを通過した途端そこはアメリカなのだ。
ミッドウェーはもう旧式、この翌年には退役し代わりに再来年には原子力空母が着任するから見おさめ。
ミッドウェーは通常型空母だが、60000tはある巨艦。
ワクワクして乗船、しかし航空機はゼロ、3000人いる乗組員も殆どが下船し、館内はガラガラ。チョット拍子抜け、それでも300m近くもある飛行甲板はスゴイひろさ、1機だけファントムが展示用にあった。
艦内は一つの町、日常生活に必要な設備は全て整っている。病院・食堂・図書館・体育館etc.次の出向に備えて食料等のつみこみに忙しそうだった。フォークリフトでドサット積み込んでいく。

驚いたのは非番の兵隊、ラフなスタイルで艦内で遊んでいる。隣では何か機器類を真剣な顔をして整備しているのに。
艦橋、艦長席にも座った。艦の端から端まで見渡せる。計器がイヤというほど並んでいる。画面類は全てSONY製。艦長席の計器類がスッキリしていないのは艦が古くなり、装備だけ後付けで追加したからか? 

艦長が強調したのは「横須賀が母港だ」ということ。
母港が海外にあるのはミッドウェーの横須賀だけで、言いたいのは日本と極東の為に駐留しているということ。
だから、士官以上は家族までアメリカから呼んで日本に住んでいるとのこと。 今回の見学会もアメリカとしては日米関係の広報活動なのだ。
ということで、日米協会事務局長のヨロクではあった。

2011年11月27日日曜日

中内 功もビックリ!

神戸時代の話。
こんなことまでやった。

神戸の歓楽街と言えば「東門街」、生田神社の東側の一角に飲食店・バー・スナック等が多数集まっている。
その入口にあたるゲート下に今時珍しいサンドイッチマンがいた。広告看板を肩に担いでうろうろ歩きまわって宣伝する人力移動式広告塔。
そしてあるサンドイッチマンが担いでいた看板が問題になった。
また、それを知らなかったのも問題だった。神戸のことは猫が犬を噛んだことも知っていなければならないのに!

「中内 功もビックリ!」「この低価格、○分○○○円」・・・ヘルスの宣伝。
それまでは織田信長、豊臣秀吉といった歴史上の人物名を使っていたのがいつの日か実在の人名に、しかも中内の名前になっていたのだ。
しかも××ヘルスの宣伝。  ビックリするのはこっちだ!
その事実を社長の耳に入れた人がいた。(いらんことするヤツや!)
即、指示。「何とかシロ」と。

これは急がないといけない。
例え1分でも放っておくと何人かの人が見て笑いものになる。
大阪にいる秘書も飛んできたが、夕刻にならないとサンドイッチマンは出現しない。
どうしたものか? 取りあえず、広告元を抑えて辞めさせないと。

夕刻になり、秘書もつれて現地へ、いた、いた。
情報通りの看板を持っている。さっそくサンドイッチマンに声をかける。彼は何を間違ったか、客だと思い店へ案内してくれた。近くの雑居ビルの薄暗い階段を上がっていく、いわゆる風俗店なんて初めて、先方は全く客扱い「二名様ご案内・・・!」なんて言われて店内へ。
店長らしき人間が現れた。
こんな時、初めが肝心。大声は出さないまでも一発カマシてから、本題へ。意外と先方は簡単に折れて謝った。ここでダイエーの名前は神戸で変に轟いているので「ここで商売続けたいんやろ・・・」はキク。

だが、ここで大変なことになった。
同行した秘書クンが何を思ったか店内の写真を撮りだしたのだ。これには先方も怒りだした。セッカク話がつきかけていたのに!しかしここで写真を撮ったことを謝ってはいけない。こんな時の手は内輪モメ、相手が口出し出来ないほど、秘書クンをボロクソに長々と叱ることが一番。その強烈さに相手はビビルものだ。「もエーやんか・・・」とまで言わせればOK.

で、写真撮影をうやむやにして。
逆に即刻、看板を廃棄させることに、目の前で潰せとせまる。相手は雇われ店長、彼が困るのは営業停止。それ位は警察・保健所に言うだけで簡単に出来る。
営業停止をチラツカせながら目の前で看板を壊させて一件落着。

この時初めて、風俗店なるものの内側を見学した。
1坪くらいのスペースをカーテンで仕切って中でゴソゴソやっている。狭い店内にそんなスペースが10数室あって半分以上が埋まっているもよう。
効率はよさそう。しかしコンナンを警察や保健所、行政は何故OKしてるんだ! 

こんなことまでする神戸本店はやはり将軍様の「御庭番」か?

芸は身を亡ぼす。

一芸に秀でた人は尊敬に値する。
芸というほどのものではないが、他の人が出来ないことが出来た為にエライ目にあったことがあった。「芸が身を亡ぼした」話。(ダイエー時代のコト)
ワードプロッセサーが開発され出回りだした頃の話。
富士通のOASYS、1台160万円もしたが、さっそく各部に1台導入された。
当時、ワープロは文書を清書する器具のような扱い、だからか導入された時は女子社員やパートさんにのみワープロ講習があった。私は興味があったのでヒマな時に彼女らから手習いを受けマズマズ打てるようになっていた。これが大変なことになるのだ。

改装担当がある店の改装計画をまとめていた。

非常に古い店で商圏が大きく変化し不振店になっていたのを全面改装して出直す計画だった。何度も社長にプレゼンするが中々OKが出ない。
明日が最終プレゼンの日。改装担当はネジリ鉢巻き、しかし終業時間までにプランが固まらなかったようだ。終業時間には女子社員が退社する。まとめて清書する人がいなくなる。
そこで何の気なしに「手伝おうか?」と言ってしまった。多分、社長用の資料をきれいにワープロ化するだけだろうと思ったから。

それが甘かった。

まだ最終案を本部長にみせていなかったとのこと。7時頃になって本部長に見せることに、しかし本部長は中々OKしない。再度、検討に。行きがかり上、中身にまで首を突っ込むハメになる。

改装コンセプト・商圏分析・売場展開方針・売場レイアウト・売上試算・投資回収試算etc.全てを見直した。終わって本部長に見せたのが夜の10時頃だったと思う。ひょっとして徹夜になるかも?と変な予感! 社長プレゼンは明日の朝8時、それまでには絶対完成させなくては! 突然、本部長が本命のA案をやめてB案をメインにしようと言いだした。案はA案・B案・C案と改装計画は3案あった。そんな今頃になって・・・!
各案を並べ替えて整理、試算もやり直し、それを清書しなければならない。試算も変わってくる。私は案の下書きが出来ないとワープロ化出来ない。ようやくその整理が出来て本部長がOKしたのが12時頃だったとい思う。
それから資料の清書、ワープロ化が始まった。そこで気づいたのが数字の誤差、A案とB案を差し替えたので数字が合わないのだ。再度計算し直し。
最終、プレゼン資料が出来たのは3時頃。結局徹夜した型に!
あぁあ、気軽に手伝おうなんて言うんではなかった。
「芸は身を亡ぼす」だ!
そしてオマケがある。
社長にプレゼンした結果、やはりNGに。
そこまでは「まぁ仕方がないか」ですまされるが、同席した改装担当が申し訳なく小声でいった「森本さんが作った資料ですが、社長は見もせずに破って紙吹雪にしちゃったんです」と。
笑うしか手がない・・・!
社長ならやりそうなことだ!

2011年11月25日金曜日

”G-7”

G-7と言えば主要先進国リーダーの会議体。
ここで言う”G-7”は単なるグループの名称、ちょうどG-7が始まったころだったのとメンバーが7名だったことでそう命名した。それが1986年の話、未だに続いている。なんと25年になる。

”G-7”はダイエーのSM(スーパーマーケット)部門の店長の集まり、当時、店長会議が毎週あり、店長グループで課題研究をしていた。そのメンバーが”G-7”なのだ。たまたま気があっただけでなく、当時の本部長から集中攻撃を受けて結束が高まったというのが本音かも?


とに角、毎週の課題について店で検証して発表しなければならない。自店での事例を持ち寄りグループとしてまとめて次回の会議で発表する。それが毎回、本部長より否定されていた。

だから店長会議後、反省会を開いて再検討、オシマイには懇親会に。それが懇親会だけが独立、単なる飲み会になって今でも2~3ヶ月に1回は集まっている。
前述の強盗(殺人)店長もメンバー、面白いのはメンバーの経歴がバラバラなこと。土方あがり、中卒、そして我々のような学卒と多種多様、年齢だけが似通っているか?しかし何故か気が合う。店長という同じ職位にいたことでお互いがお互いを尊重している。中卒の先輩にあたる人は大卒である人を大事にするし、大卒のメンバーは先輩の経験を尊重する。他人にはチョット理解できないグループかもしれない。勿論、激論もする。
今では全員リタイアーして共通の話題も無いはずだが、飲み会は続いている。大事にしなければならないグループではある。

強盗(殺害)事件

親しい先輩店長、かれは型破りな人間。
彼は自店に侵入した強盗犯を捕まえるどころか犯人の拳銃で殺害してしまった。大阪府警本部長から表彰状を貰った。

スーパーを狙うピストル強盗事件が頻発していたが、だれも自店にくるとは考えていない。

ある日、彼の店にその犯人が潜入した。スーパーに詳しい人間らしく、通用口から侵入し売上金を扱う庶務課へ入ってきた。女子社員の悲鳴を聞いて彼は庶務課へ、そこには拳銃(本物)を持った犯人がいたが、だれしも本物の拳銃だとは思わない。なんと彼は横にあったゴミ箱のプラスティック製の蓋を盾に犯人に立ち向かった。そこが彼のスゴイところ、迫力ある声で犯人を圧倒、犯人を庶務課から追い出し階段まで追いつめ、もみ合いに。もみ合いながら階段を転げ落ちた。まるで犯罪ドラマさながらだ。
そして犯人が発砲、彼は足のフクロハギに貫通銃創。そこからは彼の記憶もあいまいだが踊り場で拳銃を取上げようと格闘、その時犯人がまた発砲、その弾はなんと犯人のコメカミにあたり犯人は即死。事件は終結した。
ここで問題は犯人が右手に持った拳銃で左のコメカミを撃っている。
もみ合いの最中とは言えかなり無理のある体制だ。警察の捜査はそこでいきずまった。発砲したのは店長ではないかと? 
しかし府警本部長判断で民間人の犯人逮捕という快挙に敬意を表して不問に。そして表彰に。
府警本部長が表彰するのは年に1度あるかないかでまして民間人を表彰すると言うのは極めてマレなこと。
ダイエーのいはこんな店長もいた。

2011年11月24日木曜日

丑の日は

店の営業次長時代の話。
土用の丑の日、うなぎの厄日。
私は食品出身といっても一般食品という加工食品担当、味噌や醤油といった調味料やお菓子や珈琲・紅茶といった嗜好品の担当。魚屋のことは殆ど知らなかった。

土用の丑の日は年末と並ぶ鮮魚課の一大イベント。
そして鮮魚課にとってはどれだけ売るかが各店間の競争。一位になっても何も賞品はでないのだが、だれしも同じ売るなら社内一位になりたい。社内一位は恐らく日本一だからスゴイ称号になる。驚いたのがこの単位がトン(t)なのだ。

準備は数ヶ月前から始まっている。
当時の主流は白焼きの冷凍を店でタレをつけて再度焼きをいれる方法。だからかなり前から冷凍うなぎを発注しておかないと材料がそろわない。しかも当時は台湾製の輸入なのだ。
店では追加の焼き台を導入、冷凍庫は他の課のものまで借りて店内うなぎだらけ。タレの缶だけでもナマジじゃない。
そして半解凍にしておかないと当日間に合わない。これはかなりの経験が必要な仕事。全く知らない次長としては鮮魚課の主任に全権委任、かなりの無茶をするから責任をとるのが次長の仕事。第一、就業規則や店内規則違反。出勤は朝4時、朝食は持込み、全てがうなぎ中心に!

前日、深夜まで準備して次の日は鮮魚課の男子は4時出勤、直ぐに焼きにかかる。
店内が食欲をそそるうなぎの匂いで充満。解凍の担当、焼く人、冷ます人、パック担当、陳列する人それぞれが一所懸命。その姿は素晴らしい。一応、売場に陳列が完了するのが7時ころ。やっと朝食、まだだれも出勤していないから作業場でうなぎを丸かじり、慣れたものでみんな白メシしか持ってきていない。オカズは焼きたてのうなぎがあるからいらない。こんな時食べるメシが一番うまい!
それから焼き貯め用の焼きにかかる。10時の開店時には予想売れ数の殆どが作業終了、後は様子を見て追加への対応。

因みに同日の売上は上がらない。
何故なら他の食品、魚や肉が売れないから痛し痒しだ。まぁ、一大イベントだと考えないとやっていけない。

オリエンタル ゴルフ クラブ

バブルも終わりかけていた頃、Golf場を作るという話があった。
おかしい!ダイエーはGolfも麻雀も禁止の会社だったのに?
その前にパチンコ屋もやりだしていたが、それは買収した忠実屋の関連会社で継続させただけの話。社長がGolfするって話も聞いたことないし。
どこかは知らないが兵庫県でGolf場を開発していた会社がパンクしてその権利を売りにきたらしい。経緯はs知らないが、兵庫県ではもうこれ以上Golf場の開発許可を出さない最後のGolf場になるだろうと言う情報もあった。兵庫県には全国一のGolf場があるからだ。
そこで、Golf場経営に乗り出すことになった。 
当時、グループ企業のオリエンタル化が進んでいたので「オリエンタル ゴルフクラブ」と名づけられた。
某商社でGolfを専門的にしていた人材もスカウトして話は進んでいった。
オープンになったのはひょんなことから、用地買収にからむ買収資金横領事件が新聞ざたになってダイエーがゴルフ場をと話題になってしまった。大変なことになるかと思いきや、この事件自体はダイエーとは直接関係ない。用地買収を任せていた地元の有力者が本来地主に払うべき協力金(これは合法)を横領したもので、事件はその地元有力者が逮捕されて終了。
当時、Golf場を作るには約200億円かかると言われていた。
上手くいくとその200億円は会員権の販売で回収できる。つまり会員権さえ売れればタダでGolf場がもてるという算段だ。
しかし、造成費等の追加費用が意外とかかったようで前述の開発担当は開場半年前に突然解雇されてしまった。
そこでGolf場の後任責任者に白羽の矢があったのが本店の責任者である私の上司の常務。彼はGolf好きだがそれはプレイすること、元々が財務担当役員。しかし、場所が兵庫県と言うこともあり、本店責任者兼任で任命された。結果、またしても直接は関係ないのにGolf場のお手伝いをさせられるハメに!

まずは経営計画、詰まる所、会員権の販売計画がポイントになる。ここでダイエーの取引先を中心に販売する案が採用され、法人会員専門のGolf場となった。うまくやらないと公取の言う「優越的地位の乱用」になりかねない。また悪いことに福岡のドーム球場の特別室の権利を売りつけて幾らもたっていない。球場の特別室は素晴らしいものだったが高い部屋は3億円。因みにドーム球場の特別室販売(実際は賃貸)で総工費の半分をまかなったのだからスゴイ!全く優越的地位の乱用以外の何物でもない!
Golf会員権は球場特別室ほど高くはないが、数千万はする。
はたして売れるものか? 机上の計算だが3000万円×2名(法人記名式)=6000万円、それを500組売れば300億円。100億円も余る算段、その資金の運用まで考えていたというから「とらぬ狸の・・・」そのもの。
無理があるのは会員数が人数的に1000名になる。これはGolf場としてのキャパギリギリ。通常、1000名以上会員がいるGolf場は敬遠される、込み合ってプレイがゆっくり出来なくなるからだ。
だから表向きは300組・600名限定ということにして募集、実際には商品部を始め各部署にに依頼して押し売り。
神戸の関係先にも販売に行った。神戸の関係先は取引関係のないところが多いので義理で6000万円も出してくれる会社があるのか不安だったが、数組は売れた。売買禁止なのでそのまま資産計上は出来る。しかし6000万円も寝かすのは大変だ。最終的には総工費ギリギリの会員権は販売出来た。
そして次なる問題はその運営。
Golf場の運営なんて誰も知らない。社長(=常務)が先頭にたってネジリ鉢巻き。例によって少しはGolfを知っている私がキャディとか従業員のトレーニングを担当させられた。キャディは全員社員、若い女性を採用した。他のクラブのようなオバチャンキャディはいないのが売り。だからミッチリ教育しないと。私も殆ど入り浸りで現場指導にあたらせられた。お出迎え・受付・スタート・プレイ・レストランetc. まさかダイエーに入ってGolf場をさせられるとは!

プレオープンして実際の現場スタッフのトレーニングもしなければならない。
関係先・知人・友人まで動員して無料でモニタープレイしてもらった。この人集めも大変。大概の人は連絡すると「一緒にプレイしよう」という。それは良いが週に3ラウンドしたこともあり、フラフラ! 
なんだかんだでとにかくGolf場はオープンした。
オープンしてからの問題。
客が来ない。法人専用クラブでビジターは会員同行が決まり。各取引先(大手メーカー・商社etc.)に会員権を販売、記名式なので多くの会社はその会社の社長とか専務クラスが記名の会員。そしてそれらの会員は東京本社が多いので実際はプレイに来にくい。それが客が少ない大きな理由だった。

仕方がなく徐々に会員には内緒で規約を緩めて客を確保する方向に。
会員が知れば怒ってくるかも? 会員同行は有名無実、殆どパブリック状態に!
クレームはなかったが、クラブの雰囲気は最悪!営業の為シャーナイか?
なんやかんやでGolf場はオープン、半年後常務も社長の任を解かれたて、私もフリーに。
オモロイ経験ではあった。

2011年11月23日水曜日

国会議員選挙

神戸のことは何でも対応するのが本店の存在価値。
しかしまさか選挙にまで首を突っ込むとは思わなかった。
ある年の国会議員選挙、ある官僚OBが神戸の選挙区から出馬するので支援することになった。自民党の某超大物からの依頼で社長も断り切れなかったようである。
(後に刑事事件となるので注意して記述する。)
でも結論から言うと「ヒドイ」ものだった。
選挙は地盤・看板・金庫番とか言うがこの候補者は何もナイ。元某省庁の局長さんというだけ。ある意味の天下りだ。落下傘候補そのもの。
地盤は高校時代に神戸にいたということのみ。看板は局長といっても無名。金庫に至っては全くゼロ!
そして人物だが、これも風采の上がらないショボイおっさん。
ホンマに高級官僚か? こんなんが国会議員になるなんてやってられん!
信じられない話二つ。風采以前に服装がヨレヨレのスーツ、ネクタイも安物で見られない。最初にしたことがスーツの新調だったのには唖然とする。また初めて本店に彼が挨拶に来た時、握手を求められた本店の女子社員が手を引込めかけたとか!(仕事と思ってイヤイヤ握手したらしいが)

選挙の組織・体制作りが始まった。
本社から責任者が任命され神戸に着任。最終的に彼が警察に逮捕されるという可哀そうな目にあう。
取りあえずは今までに培った神戸でのダイエーの地盤を使って後援会つくり、それは比較的簡単だったが、会合で彼に時下に会うと、蔭では「アレで大丈夫か?」と言われたりもした。

選挙が始まった。選挙は公職選挙法という法律で縛られているが同法の細かいところまではしらない。危険極まりない話だ。ギリギリの線まではお目こぼしがあるらしいが、結果的には警察にお世話になった。
警察も全候補者を取り締まるのではなく、方針を決めて重点捜査をするらしい。
その捜査候補に上がっているとは誰も知らなかった。後から考えると、ダイエーが後援しているらしい候補者で選挙違反で挙げるには格好のターゲットだったのだ。一罰百戒!

その手法が巧妙、選挙事務所近くに張り込みの警官がいつもいた。また事務所で働くパートの女性を脅して(逮捕するかも?)情報提供者にしたて、夜中にゴミを回収して捨てた書類から弁当の中身まで調べていたらしい。だから事務所内の情報はバレバレ!最終的には選挙責任者が逮捕されるハメになった。

彼が偉かった(?)のは何も喋らなかったこと。
つまりは会社に捜査の手が伸びることはなかった。次々と容疑を重ねられ2ヶ月余り留置場暮らし、我々も辛かった。二度と選挙支援なんてゴメンだ!
しかし最終結果は民主主義の勝利。
いかに高級官僚といってもショボイおっさんでは当選しないのだ!

その後のダイエー

1996年2月、阪神淡路大震災1年後26年余り勤めたダイエーを辞めた。
辞めさせられた型ではあるが、会社に対して何の感情もない。そしてその後のダイエーについても何の関心もない。ダイエー時代の話は過去のことになりきっている。

その後ダイエーは震災でガタガタになったと言うかメッキが剥げた型で倒産した。
正確には中内 功氏が作ったダイエーグループという巨大な個人商店は崩壊した。

実際には会社再生法を申請し減資して存続している。
今も店舗はダイエーの名前で営業しているが、個人的にはアレはダイエーではないと思っている。

その後いろいろと批判はあるが、個人的に私は中内社長の作った個人商店の従業員であったことを誇りにさえ思っている。 
実力もないのに大きな仕事をさせて頂き、オモロイ人生であったと感謝さえしている。しかもかなりの高給で! 批判する人に言いたい「その批判、在任中に何故しなかったの?」と。 

ダイエーが亡くなったのは震災後の金融危機の為と思っている。 
金融再編のアオリで借金が多すぎるという理由で潰された。今まで一度も返済が届こうったことも担保不足もなかったのに。
小泉・竹中に潰された。

ダイエーの財務の大方針はメインバンクを作らず数行並列に扱っていたこと。
銀行に口出しさせない経営方針を貫いていた。思いもかけずそれが取引銀行の合併で崩れた。つまりはメインの東海銀行と三和銀行が合併してUFJ銀行になり、融資のバランスが崩れたのだ。合併した銀行のダイエー取引額が異常に大きくなり、しかも不良債権扱いされたから。

そしてグループといった中途半端な概念も邪魔になった。
法的には企業グループの概念はない。資本構成何%以上がグループなのか? 連結対象がグループ会社なのか?
ダイエーでは中内社長に関連した企業をグループと呼んでいたので特にややこしい。しかもそれを知ってか知らずか銀行もその中内商店に融資していた。全くダイエーと資本関係のない中内社長が作った個人会社もグループ扱いしていた。それを合わせると借金は膨大な額になる。
顕著な例がホークス関連の事業。球団・球場・ホテル等で1500億位の融資を受けていたが、アレは実は個人企業。中内社長の次男が社長を務める会社。そして30年融資でも恐らく融資返済には?がつく。貸す時にわかっていて貸したのに急に返せという。銀行の身勝手、実際は黄色信号のついた融資だからだ。

そんなこんなで痛いところを突かれて中内社長は辞任しグループは分解。ダイエーは再生機構入りして減資して再出発。
そしてそれまでに強烈なリストラがあった。
グループ企業の売却・退職勧奨(指名解雇)給料カット(最終的に50%減)去るも地獄、残るも地獄の状況。
しかし一般論としては会社がリストラになっても絶対に辞めるべきではなく会社にシガミツクのがBestだと思う。
個人的にあと1~2年いて辞めれば退職金の増額等があったが、再就職先が即見つかり待遇が全く同じというのは全くラッキーだったと言える。
かくして中内氏が一代で築いたスーパー王国は崩壊した。
しかし、プライドを持って言える。
我々が日本の高度成長を支えたのだと。

2011年11月22日火曜日

昔のダイエーの現場 ②

地区長のスタッフをしていた80年代のこと。
コントローラーという地区の計数管理担当をしていた。
地区長には2名のスタッフ、営業スタッフとコントローラーがついた。他に商品部所属の売場作りを指導するスーパーバイザー(SV)が部門別に地区にはいた。営業スタッフはいわゆるチラシ制作や催事・集客イベント企画等の販促を担当していた。

そして私のようなコントローラーは地区長に売上・経費・利益を管理するための計数担当ということになっていたが、決まった業務は特になく地区別にしていることはバラバラ、地区長次第だった。
上司である私の地区長は私に何も指示しなかった(出来なかった?)ので自分で仕事をすることが出来て自由だった。上司の地区長は創業期からのベテラン店長経験者、下世話に言えば「コマシな店長のお古」だった。技術も学歴も無く経験だけで仕事をしていた。会社はどんどんシステマライズされていく。横文字も多い。彼らにはそれについていく能力もやる気もなかった。 本部からのチョットややこしい指示文書は翻訳してあげないと解らない。そんなこともコントローラーの仕事だった。
地区長は担当地区の店舗を巡回し店舗指導するのが仕事だと思われていたが本部は将来的に店・地区の利益管理をさせようとしていた。売上至上主義から利益重視主義への転換、しかし彼らにはドダイ無理な話。売上を上げれば何とかなるといった経験主義。店巡回して売り場に売れ筋が並んでいるか否かをチェックするくらいしか出来ない。後は店長の愚痴を聞くくらいか?
そんなある日、地区長が店巡回に同行しろと言う。
つまりは車通勤していた私に車で店へ連れて行けというコト。そこに何故か隣の地区の地区長もついてきた。3名で店へ向かう、店の近くになるとある駐車場へ車を入れさせられた。そこはパチンコ屋の駐車場、理由はそこなら駐車料金がパチンコをすれば無料だから。だからか「チョット寄って行こう」という。なんとパチンコ屋で1時間くらい遊んだ。午前中はそれで潰れてしまった。でも上司の指示だからシャーナイ??? 
そして食事をしてやっと店へ。適当に店長と面談、売場にも行かない。これが仕事か???
勿論このようなことばかりではなかったが、酷いものだったことは事実。
これで売上1兆円達成! 
古き良き時代ではあった。

2011年11月21日月曜日

昔のダイエーの現場 ①

今から思えばアンナンでよくやっていたと思う。
時代は遡り70年代、私がダイエーの売場主任をしていた頃の話。
高度成長で行け行けドンドンの時代。今では信じられないが極端な人手不足。
学歴はないし、手に技術もない、たいした経験もないが「ダイエーやったら採ってくれるかも?」って言う感じの人が多く採用されていた。そして終身雇用が当たり前で、一度採用したらクビには出来ない。

部下で一番酷かったのは計算が出来ない人がいた。当時は伝票が手書きで返品する場合は自分で書かないといけないがこれが出来ない。これには参った!そこまではいかないまでも、よくサボル奴、直ぐに女の子に手をだすヤツ、女子社員も男ばかり追いかけている娘etc.色々いた。
そんな中で仕事をしなければならない。

究極の改善策がある。他店へ転勤させるのだ。
まずは人事に「彼は優秀だ」と常に売り込んでおき、欠員の情報があると推薦し異動させる。新店が出来る時などがチャンス。結果的に新店は不要人材のハキダメのようになったりしていた。自店第一、他店のことなどお構いなし。そうして少しでも出来る人材を集めて仕事をしたものだ。

私の入社したのが71年、創業が63年だからまだ8年の若い企業。
少しコマシだと即昇進できた。当時の店長クラスはそんな人が多い。どこかに欠点をもっている。関心するのはそんな人材を上手く使っていた中内社長、人使いの巧さは天下一品だ。中堅以上の管理職は「社長はオレのことを・・・」と思っている。忠誠心は強い。これで当時、三越を抜いて流通業日本一になったのだからスゴイの一語に尽きる。
古き良き時代ではあった。

2011年11月18日金曜日

福岡ダイエーホークス

少しダイエー時代にPlay backする。
福岡プロジェクトの当事者ではないが、中途半端な立場で首を突っ込むことになっていた。
しかし福岡のプロジェクトが具体的に何であるかは知らなかった。
当時の福岡市長が神戸の本店に何度か来られた。大量の福岡銘菓「ひよこ」をお土産に。ちなみに1箱60個入りを最低3箱は持って来られた。1箱は社長に後は女子社員にと気のきいた市長さんだった。でも10人で120個は多すぎる。
社長との面談場所としては本店事務所の社長室は一番よい。
まず人の出入りが少ない。神戸市の貸しビルの1フロアなので不特定多数が出入りするので誰が来たかが判らない。マスコミもノーマーク。

福岡市長は野球チームの誘致と福岡市が開発した埋立地に球場を中心とした施設を誘致しようと必死だったのだ。
福岡市民は西鉄が福岡を去って以来、球団を切望していた。これには全ての政党も一致団結していたようで、その後の市議会での決議をみてもわかる。(因みに当時の市長は社会党市長だった。)

そして中内社長自身も球団を持ちたがっていた。
Tigersファンだと言われていたがそれは疑問? 野球もあまり知らない。
アメリカの名を遂げた人は球団オーナーをしているというので自分もが本音か? ちなみに当時の球界の大物、巨人の渡辺氏・西武の堤氏とは親交があり、いずれはといった話は進んでいたようだ。
とに角、福岡のプロジェクトは進んでいた。
そこへ南海ホークスの身売り話が三和銀行から飛び込んできた。そして即食いついた。そして球団の責任者に前の本店責任者のU氏が指名された。以来、U氏は本店の仕事はそっちのけ、またスタッフが決まるまで私に部下ということで手伝わされたのだ。そのことは後のちプラスにはなったが。つまりは球団の神戸での窓口業務。捌きの仕事。

「ダイエーが球団を」のニュースが流れると関係者のダイエー詣でが始まった。
福岡の話はシークレットなので、神戸市は是非本拠地を神戸にと言って来るし、アシックスや美津濃は是非ユニホームや用具をと言って来る。何も決まっていないとお断りするのも大変だった。
ダイエー球団の後援会まで神戸に出来る始末。
結果的には福岡へ。福岡の巨大プロジェクトが発表されて又大変。
今度は神戸のダイエーが何故福岡なのかといったクレーム。福岡市との密約がまだ公表されておらずこの問題は裁きかねた。
そのうち福岡市議会は全会一致で誘致賛成を決議。それには球場用地の売却(価格も含めて)決議も入っていた。大手を振って福岡へ行ける。
そうして福岡ダイエーホークスが生まれた。
ダイエーにとって球団経営は二の次、開発用地の合法的安値取得が目的であったように思う。

2011年11月17日木曜日

株式会社 イチケン

株式会社 イチケン。
ダイエーグループのゼネコン。東証一部上場企業。売上高1000億円超。従業員1000名。本社は神戸。
昔は第一建設工業といった大阪の住宅建設がメインの会社、ダイエーが買収してグループの建設(主に内装)を担当する会社にし、通称のイチケンを社名に変えた。

ダイエーの店舗建設には必ずと言っていいほど入っている。大手ゼネコンが店舗を作って内装はイチケンというスタイルと店舗の改装工事がメイン。だからダイエーが元気な限り業績は安定、配当もキッチリしている。
通常、社長はダイエーからでていたが、震災後からダイエー社長の娘婿のA氏が社長に! 

業績は安定していたし落下傘社長だからそれなりにしていれば十分であったハズ。しかし彼は自前のスタッフを社外から呼んで取り巻きを作くろうとしていた。私の立場は表向きA社長が採用した彼のスタッフ。しかし、見方にもよるが、中内社長に近い神戸のTさんが推薦した私は彼の行動をチェックしオヤジさんに報告(したことはないが)する「隠密」(?)かも、それをウススウ気づいているA社長は私を完全には信じない。なのに一般社員から私はA社長の隠密と思われても仕方がない。なんと微妙な関係。

案の定、普段は東京にいる社長は「神戸の状況を報告しろ」との指示。
神戸の状況とは疑心暗鬼な彼が好まない役員や管理職に不正がないかのこと。業者との癒着、横領等を調べて欲しいらしいが、中々難しい仕事。
まぁ適当にやるかというスタンス。
普段は決まった仕事がないので営業のお手伝い。
そうすることによって色々な情報を入手したし注文もとった。在籍6年で20億の受注はマズマズの成績だ。 それよりこの営業活動は社内情報収集に役立った。
ビックリしたのは交際費。ダイエーは超ドケチな会社で一般的に交際費はない。その感覚で見ていて驚いた。イチケンでは今年入った新入社員が10万円も仮払いしていく。聞くとお客さんの接待だという。それも真実は解らない。社員同士で飲みに行ってもだれもチェックしない。皆がそうしているので上司もチェックしない。それで儲かっているのだからエー会社や!一般的に交際費とはそうしたものか! 特にゼネコンはハデなのだ。

ちなみに、私の交際費の予算はいくらかと聞いてびっくり、予算はナイという。突き詰めてやっとわかった。組織上所属が社長と同じになっているので社長に交際費予算がないように私にもナイという。
つまりは青天井なのだ。内緒だが、請求書を回すと幾らでもOKだった。1本20万円もするワインをあける社長と同じなのだから多少の交際費はOKなのだ。これはラッキー!調子に乗って給料以上の交際費を使ってしまった月もあったしタクシーチケットも1冊単位で貰えるので乗り放題。飲みすぎて午前様もOK。立場上、出勤時間もエー加減なので、午前様の翌朝は昼ごろ出勤したりもした。
人間、このようになってはダメ人間になる。それ以上に身体がもたない。そこに気づいた時には遅かった。

2011年11月16日水曜日

再就職

  ダイエーを退職して再就職先も決まらずにいたのに何故か焦りはなったように思う。約2カ月の有給休暇中、家内と美術館巡りや近くの思いでの地探索や毎 日のように出かけていた。
ここで又、例の神戸のTさんの世話になる。
彼から連絡があり、仲間で送別会をしてやるという。
ありがたい話だ。当日は神戸JCのOBというか神戸ロータリークラブのメンバーが40~50名も集まって頂きおいしい中華を御馳走になった。それよりも嬉しかったのはその日の参加者が最就職先を探してやるという。これ以上の力強い応援はなかった。挨拶で「これからも神戸で神戸の為に働く」と宣言してしまった。

と言って特に就職活動もせず数日が過ぎた頃、Tさんから電話。
「メシ食おう」といつもの調子。久々に神戸へ。
突然「イチケンの社長が欲しがっているからイチケンへ行け」という。イチケンのA社長はダイエー社長の娘婿で去年ダイエーグループの建設会社イチケンの社長になったばかりの人。一族というだけの落下傘社長であり、気心の知れた部下もいないから自前のスタッフを欲しがっているとか。A社長のことは顔と名前を知っている程度。考える余地もなく「このことは中内さんにも話してある。エーなぁと言ってはった」とウソみたいな話。 
で、断れない状況だし、断る理由もない。
勤務地は神戸で待遇はダイエー時代と同じにするという。よく考えると願ってもない話だ。しかし、即答はさけその日は別れる。
1週間後、また電話。
A社長が神戸に来るので会いたいと言っているという。かれが仕組んだこととは知りながら出かける。世間話をしながら昼食。なかなか本題に入らない。A社長としては判断しかねている模様、Tさんが最後に「それでいつから行ってもらおう?」と言うと「担当者から連絡させる」と煮え切らないがもう採用が決まったような感じ。こんなんでエーんかいな?
しかし連絡を待ったがなかなか連絡はない。
有給休暇も終わりかけの2月になって痺れを切らせて電話。「では来週から来て下さい」と担当者。なんとなく頼りない。
今思うに、今回のことはTさんがかなりごり押しした模様。
でもラッキー、待遇は同じで再就職出来た。しかも全く知らない会社ではない。本社は神戸だし、ダイエーからの出向者も多い。建設業界のことを知らないだけで再就職って感じはしなかった。

問題はA社長とのこと。
ハッキリ言ってあまり好きになれないタイプ。彼は典型的なオボッチャマ。なのに自分はエライと思っている。的外れな指示も多い。 しかも困ったことに親(義父)の七光りで社長にして貰っているのにその謙虚さがない。
Tさんの話ではそんな社長を立派な社長に育てろと言う。真剣に考えるとエライ会社に入ったものだ! しかし、日常の業務は何もナイ。ヒマなのもツライ。営業活動でもするか!

2011年11月15日火曜日

阪神淡路大震災 ③

震災のことはいくら書いても書き足らない。
この項で取りあえずはオシマイにしたい。

この震災の被害は臨時出費レベルで165万円、どこからも何の援助も無かった。(行政からの援助均は所得制限があり、当時はかなりの給料だったのが災いして支援はゼロ)
家の補修(室内の壁紙の補修がメイン、電気関係etc.)に85万円、塀の建て替えに80万円(一部は隣家と折半)で計165万円。
ほとんどが割れた陶器類・食器類の破損は含んでいない。実際には震災後購入した食器類はなく殆どが貰いものですませたからだ。10数年たった今でもその貰いものを使っている。
で、被害は最小レベル。しかし、その後最大の被害がやってくるとは信じられなかった。
勤めていたダイエーは全国チェーンとはいえやはり関西、特に阪神間に店舗が多く、被害は甚大。コンピュータセンター、流通センターも被害を受け震災の損害は500億円と会社は創業以来の大赤字。
そこでいわゆるリストラが始まった。
当時は今のようにリストラ=人員削減ではなく、関連会社を含めて事業を見直すという本当にリストラクチャリングが行われた。結果は同じだが、本体の社員を重点的に関連会社に出向させるということになった。
個人的には前述のKLWが成功していれば将来的にKLWへ出向してもよい、というより出向したいと思っていた。ところが震災で方向は大きく変わった。でも50歳直前、神戸の本店に来て10年あまり、もうそろそろ関連会社へ出向してもよいころかと思っていたし、そのような意志も漏らしていた。
管理職の10%を関連会社へ出向させるとの会社の方針が決まり、私にも出向の内示があった。ところがある関連会社の東京の本社だという。50ツラ下げていまさら東京はナイと、とっさに拒絶。同社には大阪支社もあるので出向はするが大阪にして欲しいと調整したが、管理職は東京と言われ不調。なぜか東京は、単身赴任は絶対にイヤだった。
で即「それなら退職する」と申入れ、スッタモンダしたが、退職は自由。退職願いを書いて提出。
その後、慰留すべく色々と動きはあったが全てお断りした。
実は退職については家内との相談もなく、再就職先の目途もなかった。でも家内は「アナタが好きなようにしたらいい。でも食べさせてね」と一言。
実際、再就職にアテはなかった。有給休暇60日のうちに何とかなるだろうとタカをくくっていた。
震災の最大の被害は会社をクビになったこと。
実際にはリストラではなく自己都合の退職。リストラなら退職金の割増等もなく1年後に始まった早期退職制度とは大違い。
その後のコトを考えればヨシとするか!

2011年11月14日月曜日

「言葉」の使い方

言葉は進化(?)すると考えている。
だからと言って乱れた言語を許容するものではないが、言葉が独り歩きするのは止められない。
NHKの「言葉のおじさん」のファン、彼も使い方の誤りを否定はしない。否定しても大衆の流れに対抗は出来ないからだ。同感!

時には全く逆な使い方になっているものもあり笑うよりほかない。
「凄い」は「スゴイ」になって「非常に」という意味になっている。本来「凄い」は「凄く怖いオバケ」と良くない意味で「スゴイカワイイ娘」と良い意味には使わない。スゴクカワイイって口がどこまで裂けているの?って聞きたくなる。
「御曹司」って昔は「部屋住み」つまり次男以下の食い扶持のない者のさげすんだ言葉のはず。曹司は台所の意味。それが「大企業の御曹司」なんてTVで言っている。本当は跡継ぎ「御嫡子」、御曹司なんて言われると怒らなければ!
以前、勤めていたダイエーは、というかチェーンストアという業界は言葉の使い方がシビアだった。用語集というのもあって覚えたものだ。
入社当時の70年代から今はよく使われるようになった「コンセプト」「ニーズ」「アイテム」etc.等の言葉は定義を決めて厳密に使い別けていた。
コジツケの社内用語もあった新規に店を開店することは「オープン」改装も「改装オープン」で毎日朝10時に店を開けるのは「開店」このように別けると話がスムースに進むのも事実。

「Needs」の反対後に「Wants」というのがあるが、今ニーズと言っているのはウオンツの意味だと思う。
社内ではニーズとウオンツを間違えると叱られたものだが! 
Wantsはお客さまが今欲しいと思っておられるコト(もの)、今はやりの保温性が高く薄い下着はウオンツ商品、下着という範疇の素材を変えただけでありこれはお客さまの保温性と薄さというウオンツには答えてもニーズに答えたことにはならない。
Needsはお客様が今は欲しいとは思っていなくてもこのようなモノがあればよいなぁと思われているコト(もの)。例えば塗るだけで温かい保温性のある化粧品とかタケコプターetc.
だからお客さまのWantsは捉えられても、Needsはよく考えないと解らない。
お客さまのNeedsを捉えるのは難しい。
言葉の使い方の進化(?)にはニガムシを潰している。

2011年11月12日土曜日

阪神淡路大震災 ②

 当時自宅は宝塚市にあった。
震災の殆ど東の端、家内の実家のある箕面市などは殆ど被害無し、聞くと棚の上の花瓶が落ちて割れたとか、そんなん被害言わへん!  

 報道は神戸に集中し宝塚などは殆ど報道されなかったが、実際は100名以上のの方が亡くなられる大災害。全壊・半壊家屋も多数でた。実際、我が家の周辺でも殆ど半壊状態、皆さん近くの小学校へ避難されていた。我が家だけがシャンと建っているのが悪いみたい。ブロック塀だけが根元からグラグラ、そのままでは危険なので無理やり壊す。怖かったのは隣家の屋根から瓦が落ちてくること。建物のそばには行けない。

  ガレージの車が引きずられてタイヤ跡が30cm位残っている。
幸いにもブロック塀の2~3cmのところでギリギリ止まって車は無傷。ラッキーだ!後に京大の地震調査があってこのタイヤ痕をみて震度7の判定があったほど。
震災から4日目、やっと落着いたので出勤。
先にも書いたが交通手段はバイク。電車・バスは依然ストップ、道は瓦礫で一杯なので車は無理、バイクしかナイ。とは言え移動に過酷な状況には変わりない。バイクが通れる裏道を探し探し行く。だから神戸まで2~3時間かかった。しかも激寒、でも気が張っていて寒さもあまり感じなかった。
ダイエーとしては会社をあげて商品供給に全力を集中。
全国から商品を配送し倒壊を免れた店舗やその店頭で食料品を中心に生活必需品を販売していた。総力をあげて震災対応と言えばカッコ良いが、売上第一。従って本店事務所はほったらかし、恐らく各種問合せが入っているハズ、サービス的にはお客様への情報センターの役割が重要だと思って本店の復旧を提案したが、当時は販売最優先とのことで却下された。

仕方がなく、店舗で販売応援。
取引先からタンクローリーで水が来るというのでそれを手伝った。当初はその水を神戸市に供給してもらうハズだだったが、市は殺菌消毒していない水は供給出来ないという。なんと言うお役主的発想!実はその水は「サントリーの○○の水」のブランドで販売している名水。それでは独自に供給しようと店で配りだした。なにせ25トンのタンクローリー、10数センチの口しかなくそこからお客様の容器に配るのはかなり無理がありズブヌレ、寒い・冷たいでよく風邪をひかなかったものだ。

1週間くらいたって一段落したので、指示を無視してポートアイランドにある本店へ。
ポーアイは埋立地なので液状化が激しい。雨が降ればドロだらけ、乾くと砂嵐状態。そして全てが隆起している。見た目は隆起だが実際は1mの陥没。建物にはクイが打ってあり固定、周りの地面から隆起したように見えるが実際は地面が凹んでいるのだ。実験をするとよくわかる。コップに土と水を入れよく振ってみると水が上に浮いてくる。比較的大きな土砂は重さで沈み込み、細かい砂だけが泥水として残る。見た目は隆起だ。この光景も非常に異様なものだった。それに晴れて地面が乾くと砂埃がヒドイ。非常に細かい砂が建物の中にまで入ってくる。
驚いたことに本社のあるビルの正面玄関の階段が目の高さにある。足をかけて這いあがらないとビルには入れない。それだけ隆起、いや地面が陥没している。
やっと事務所にたどりつく、予想はしていたがガチャガチャ。
ドアが開かない。電話交換機が吹っ飛んで唸っている。着信のランプも付きっぱなし。引っ繰り返ったデスクやロッカーは何とかなるが、交換機は配線が複雑で素人では復旧は無理だ。配線を一つづつチェックしながら繋いでみる。2日がかりで何とか復旧。その途端、電話が鳴りっぱなし。一人では対応できない。翌日から店勤務していた担当者を呼び戻す。常務とあと一人は対策本部詰め、後は本店対応。
業務的には良かったが、環境が劣悪。第一事務所のある9Fまでは階段しかない。電気は通っているが水が出ない。トイレも使えない。交通手段もナイ。食事もままならない。飲料水は各自持参。
そんな中、女子社員も頑張ってくれた。ひっきりなしに電話はなる。ありとあらゆる問合せに対応。と言っても電話を担当部署へ振るのが主な作業、これが朝から晩まで続く。前述の砂の被害もヒドイ、日に何回も掃除をしないとそこいら中がザラザラになる。昼食も買い出しにいかないといけない。辛い日々が続いたが皆頑張ってくれた。

1週間くらいたつと全国各地からの支援・ボランティアが続々と届き、依然交通はストップ、道路は極端な渋滞はしているが、街は妙な活気にあふれていた。どこへ行っても「腹へっていないか?」と食料をくれる。街を歩いていてもパンやオニギリを配っている。この支援体制は嬉しかった。
<続く>

2011年11月11日金曜日

阪神淡路大震災 ①


 平成7年1月17日早朝5時46分あの忌わしい阪神淡路大震災が発生した。
 その朝、私は自宅2階で就寝中だった。
激しい揺れに眼が覚めて地震だと気づいてからも未だ揺れは続くのでこの世も終わりかと思った。
 普通は「アッ地震だ」で地震は収まる。
しかしこの地震は眼が覚めてベッドの上で地震だと思ってから横にいる家内とどうしようと会話があった位長く揺れた。家が揺れる音と何かゴーッと異様な音がしていた。数分も揺れていたように感じたが実際は1分位だった。 
 やっと揺れがおさまり、階下の息子たちに声をかけたら大丈夫との返事、家族は全員無事なようだ。落着いて部屋の中を見るとグチャグチャに物が床に散乱、歩くにも歩けないほど。第一足の裏が痛い。ガラス片が散乱していた。靴を探して皆に靴を履かせた。窓から外を見るとそこいらの家が壊れている。明け方の空が異様な色をしていた。しかも物音がしない。すべてがストップしている。電車も車も動いていないのだ。何という静寂、地獄とはこんなものか?とも思った。 家の中を見回ると建物には大きな被害はないものの色々と物が散乱している。特に食器類・ガラスものが割れて床一面に散らばり歩けない。とりあえず居場所を確保し、家族で対応を話し合う。
 一段落して常務に電話(当初は携帯が繋がった)例のKLW問題決定の重要な会合が夕刻市役所である。この状態では行けるかどうかわからない。「宝塚はヒドイ地震」と報告したのを覚えている。停電中でTVも映らず、周りの状況しかわからないのでまさか神戸があんなに酷いことになっているとは知らなかった。
 とにかく家の中を整理しないといけない。
その時、咄嗟に湯船を一杯にした。水道は辛うじてまだ出ていたので、目いっぱい風呂を一杯にしておいた。因みに水道はそのあと直ぐに止まってしまった。この水が後々非常に役立った。
そして全員クツを履いて家の中を掃除、ユックリ見ると電灯は線が根元から千切れているし、あの重いテレビが吹っ飛んでいる。ラッキーだったのは3年前に家をプレハブに建替えていたこと、壁にキレツは走っているがよく見ると壁紙が破れているだけ、鉄骨構造なので枠組はシッカリしている。ただ、ドア類は金具ごと外れていたり壊れていた。引き戸は外れて素っ飛んで角が壁に刺さっている。電機・ガス・水道・電話といったいわゆるインフラは全てNG。食器という食器は粉々に。そして外壁がボロボロに痛んでいた。ブロック塀がグラグラする。しかし倒れてはいない。ちゃんと中に鉄骨が入っている証拠。隣家の塀は完全に崩壊、道をふさいでいる。工事がずさんなのだ。
 家の中の整理が何とか一段落したので、ゴミを出そうと表へ出てビックリ、近所の方々は家の外へ出て呆然とされている。殆どの家が半壊状態なのだ。怖くて家の中に入れないらしい。時折、瓦が滑って落ちてくる。まだ余震も続いている。考えてみると我が家だけが3年前に建替えているが、他の家は昔(20年以上前)ほぼ同時に建ったのにそのままなのだ。我家だけ外観は何事もなく建っているのが悪いみたい。西隣の家は2階から全部壁が落ちて中が見える状況、向かいの家は1階と2階が「くの字」に曲がっている。町内全滅だ。ペチャンコに潰れている家はないが殆どの家が歪んでいる。入れたものじゃない。
 昼前に停電だけは解消された。
TVを見てビックリ、神戸が燃えている。死者2000人とかの報道。エライことになっている。でも身動き取れない。第一交通手段が全てストップ。車で行こうにも道路が瓦礫で通れない。連絡を取ろうにも電話は不通、携帯も繋がらず万事休す。常務には2,3日休むとは伝えてあったがそれっきりだった。当日は家の中を整理・掃除するだけで終わった。当座の食べ物・飲み物は何とかある。未だ正月の残り物があった。一番助かったのはモチがあったことだ。水道とガスだけは不通だが電気は通ったので何とか生活は出来る。余震は続く、その夜は家族抱き合って毛布に包り寝た。
本当に家を建替えて正解だった。ご近所は避難場所の近くの小学校に移っていかれたので、ゴーストタウンに我家と家族だけが残った状態で何か不安もあった。音がしないのは何か恐ろしかった。
 震災4日目、やっと出勤した。交通手段がないのでバイクで神戸まで移動、直線距離は30kmだが道路が寸断されているので六甲の山越え5060km走らないといけないし、第一1月下旬だから非常に寒い、着込んだ上にアノラック・ベンチコート、マフラーに帽子、見られた格好じゃない。バイクは何度もパンクした。路面がガタガタの上に色々な物が落ちていて踏むと直にパンクする。通勤に片道2時間位かかっていた。目に焼き付いているのは道路上に並べられた毛布に包まれた遺体。3体、4体と並べて安置してある。夜間になると灯された蝋燭が異様!
<続く>














2011年11月10日木曜日

レジャーワールド構想   


 神戸にレジャー施設を作ろうという企画が1985年頃に持ち上がった。

 重厚長大と言われた工業中心の時代が終わり、これからは軽薄短小の時代、ソフトの時代と言われかけた頃、神戸の基幹産業であった製鉄業が終焉を迎えようとしていた。川崎製鉄の工場閉鎖、神戸製鋼所の高炉縮小があり、具体的には海岸の工業地帯がポッカリと空いてしまうことになった。神戸市として基幹産業の縮小は人口の縮小に繋がり、ひいては街の衰退に繋がる大問題だ。

 そこで提案されたのが新しい産業としての「レジャーワールド構想」、東京ディズニーランドの成功により全国各地にいわゆるテーマパークが多数建設されかけていたので神戸でも集客施設として作ろうという気運が盛り上りかけていた。

 最初は神戸商工会議所が中心となって研究会ができ、関係各社の共同出資で企画開発会社に移行して研究企画が進んでいた。
神戸レジャーワールド開発㈱(略:KLW)がそれだ。 神戸の主要企業が出資し社員も出したが、どこもメインのスポンサーになろうとはしない。事業への不安と未経験が先に立ち、最終的には1000億単位の膨大な投資がネックになった。TDLの場合、広大な敷地がありTDL周辺土地を売却することで開発費がねん出できた経緯があるが、こちらはゼロからの出発、何千億という投資をする企業はなかった。

 紆余曲折があり神戸市が開発したポートアイランド二期工事の用地に建設するという事業計画案も完成、模型まで作られていたのに頓挫した。(このあたりの経緯の記憶がアイマイになっているが)
結論から言うと当社の対応が事実上この計画を頓挫させたのは事実。商工会議所の次期会頭問題との絡みで、KLW企画会社に参加していたが出資は残したものの同社役員は退任、社員も引き上げた。

 当時のKLW最大の問題は神戸市が用地提供をスンナリOKしないこと、勿論埋立地の用途変更申請が必要で国との厄介な問題はあったが、主たる問題は事業の成功性、だれもが未経験ゾーン、そんな中一番理解があるとされていた当社が事実上の撤退したのだからお先真っ暗になった。KLWの会社は休眠状態になり一時レジャーワールド構想は完全に頓挫した。財界・神戸市の関係もギクシャクしかけた。

 KLWの会社が頓挫して直ぐに今度は神戸市が中心となって計画を進めるという。その為の協議会を作るので入って欲しいとの依頼があった。しかも型としては非公開、市が主導権をとるが民間の協議会に行政も参加する型をとる。従って、経費も会員企業の均等負担、協議会の会費という型で集めて全ての運営費にあてる。だから会費というには余りにも高すぎる会費。コンサル会社のコンサル料も入っているらしく、何か神戸市にハメラレタ感じ。どうして市がやる気になったのかも不明。参加企業はKLW会社の中心メンバーにイコールで、これもおかしな話、正規会員は各社のNo2(企業として決断出来る人)ということになり、実務はワーキンググループ(WG)を作り、各企業からの参加、市職員、コンサル会社で進めるということになった。WGには私が入った、WGは隔週に開催されたので割と忙しい作業ではあった。KLWの作った企画を尊重というかそれしかないのでそれをベースに主には事業計画の収支試算の検討から入った。要は事業を進めていくについての損益・継続性がポイントだった。TDLと異なるのは関東と関西のマーケットの差、ディズニーという世界ブランドとノーブランド、資金の無さ等々、問題点を挙げると成功は覚束ない。
 ただ、ポーアイにテーマパークを作るという結論は決まっていたようにも思う。行政として神戸市が入りやすくする為のストーリー作りであり、国との調整(埋立地の用途変更)へのバックアップのようなものにも思えた。企画がまとまりプロジェクトは最終段階に、要は実行レベルでの参加、出資と債務保証、最後の踏み絵みたいなものだ。ここは神戸市の根回しは巧妙で不参加のメンバーはなかった。ただ、出資、債務保証で渋る企業が多かった。金額が大きすぎる。1社当たり計250億円、参加8社で2000億円、今までにない金額だ。 
 どこかが先頭を切れば話は早い、そんな意思はなかったのだが、当社の決済の速さで社長のOKを即とって市の事務局へ参加する旨報告、これがひき水となり全社参加へ。

 
 この間の動きで当社に対するシンパシーがハッキリした。
各社にインフォーマルに調整していくと・・・。某製鉄会社や重工業会社、総合商社の当社寄りはそのように明言する会社があるほど明確になった。元々当社サイドにあった食品会社を入れると過半数の企業が当社シンパとなった。「ダイエーさんの後をついて行くのが当社の方針です」と言い切る企業まで現れた。
 個人的なことを言えば、これで確実な出向先が確保されたようなもの、定年してからKLWの部長くらいにはなれるかも? 何か官僚が天下り先の財団を作ったような感じがしないでもない。

 最終的には次回(これがあの平成7117日)の協議会で全メンバーが集まり、正式決定ということでスケジュールが決まった。
そして、運命の117日を迎える。あの阪神淡路大震災のあった日だ。
 震災で神戸市は非常事態。
レジャーワールドどころではない。取りあえず当日の協議会は無期延期、無期延期ということは計画自体も無期延期、無期延期は中止に近い。半年後、正式に中止が決まり当然のことだったがこれで皆が助かった。
 神戸市も各参加企業も成功が疑問視される事業、しかも250億もの出資が助かった。





2011年11月9日水曜日

留学生の受入れ   




 社長が政府の臨時教育審議会のメンバーになっていた。中曽根内閣の時代だ。
 政府の各種委員の人選はどうやら多額納税者(社)から選んでいるようだ、つまりは沢山税金を納めている人(会社)への配慮みたいなもの。
 臨教審の中身はよくは知らないが、そこで我が国の受入れている留学生が先進諸国に比べて少なく、今後は留学生を多数受入れるべきとの方針が決まった。そこで委員の一人であった社長は自身が実践しようと当時設立まじかであった流通科学大学と中内育英会に「中国人留学生を受入れる」よう指示があった。
いつもそうであるように指示は至極簡単なもので具体化は我々事務方がしないといけない。具体的には中国人・流通科学大学しか決まっていない。何人か? 費用は? 方法は? 全て決めなければならない。
 大学に留学生枠を設けるだけなら簡単だが、どうやら費用を全額負担する腹のようで、採用人数と費用とのバランスがポイント、費用は育英会からだすことになりそうで、といっても育英会も潤沢に資金があるわけでもなく、またしてもエライコッチャ!
 入学までは大学が費用面では育英会がもつことで、まずは費用を試算、学費は大学側が負担、その他の就学費用と生活費(住居・食事・その他)を育英会が負担するとして試算、概算で1人につき毎年200万円もいる。学部入学として2年間で1400万円と試算しところへ中国での選考は都市別に振られ計6名と決められた。つまりは年間2400万円
 要は当社と密接な関係のある都市の幹部にそれだけの権益を与えたことになる。結果的に選ばれた留学生は必ずしも成績優秀者ではなくその地方の有力者のお声かかりの人の色合いが強く、主旨と現実のギャップは大きなものがあった。
 育英会事務局としては資金手配をしなけれなならない。
半永久的に続く事業としてこれは増資をして(財団なので基本財産の増加)その利益(株の配当)で賄わなければならない。増資といっても元々社長が個人的に全額出して作った財団法人、いまさら他人さまに声はかけられないし、だれもこんな話にのってはこないだろう。社長に追加の出資をお願いするしかない。
 金額を株式に逆算(配当は1株15円だった)するとなんと300万株以上になる。当時、株価は2000円位していたので総額は60億円!
 問題は誰が社長に説明してその株式をもらってくるか? 事務方としては常務理事にお願いするしかない。誰も気の進まない仕事だが、無理やり常務理事に行ってもらった。「君は社長のポケットに手を突っ込めというのか!」と常務には嫌味をいわれたが、イヤならオレが行くといったハラはくくっていた。
 すごい話だが、社長は二つ返事でOK。当時の中内社長にとって60億円は庶民の6万円位の感覚か?
 ただし、税金がかからないようにとの指示、我が国では寄付をしても下手をすると課税されかねないのだ。
 方向性は出たので事業としてはGoしたが、あとに残された問題はこの税金問題。 
税務なんて全く知らないし、公益法人のことも日常業務以外は全くの素人に近い。
ラッキーだったのは社長顧問に以前某立大学の専務理事をされ、公益法人には非常に詳しい方がいてその方の指導を受けることが出来たことだ。毎度のことだが何か問題が起こるとどこからか救世主が現れて助けてくれる。ラッキーそのものだ。

 また、社長の個人資産管理会社も全面的に協力してくれた。
しかし、作業は事務長たる私ひとり。シンドイことに変わりはなかった。
 監督官庁たる兵庫県教育委員会や大阪国税局との調整が主な仕事、最終的には「試験研究法人の基本財産増額」は無税扱いになるのでその手続きを実行した。今までの事業内容に始まり、今の事業、今後しようといる事業それぞれの内容を明記、中には関係者の署名・捺印がいるものもあり、非常に作業は煩雑ではあった。
しかもその申請書たるや同じものを手書きで3部提出しなければならない。申請書は厚さ2cmもあるしろもので3部作成はきつかった。勿論、年度内申請の期限もある。やっと何とか作成し提出。
ホットしていたら東京の国税庁から電話があり話を聞きたいという。このときのことは今でも覚えている。担当官いわく「今度、何かの用事で東京へ来られる機会がありましたら、国税庁へお立ち寄り願えませんか」と至極丁寧な言い回し、この電話で「では次の機会に・・」という訳にはいかない、「早速伺います」いうことで、翌日朝一番に上京、国税庁へ。 
 エリート中のエリート官庁、大蔵省の一部だから石造りの古いビル、エレベータの床がすり減っている。廊下は薄暗い。驚いたのはエアコンがない、夏の暑い日なのに扇風機しかない。税金を集める方だから無駄には使わないという姿勢のようだ。
 担当官と面談したが、内容的には書類の確認程度、つまりは書いた事務方の人間を確認したかっただけの模様。しかし、これで何か問題があればいつでも国税に連絡するルートも出来た。先方もそれが狙いのようだった。
 色々あったが、何とか基本財産増額問題は完了した。
お世話になった方々に感謝! 感謝!












2011年11月8日火曜日

JC世界大会   


JC,青年会議所の世界大会が神戸であった。

 神戸JCとしては二度とないと思われるビッグイベント。
日本で開催されるのが何年かに1回なのにそれが神戸にまわってくる機会はもうないかもしれない。

 世界大会は毎年1回、世界のJC幹部がある都市に集まり色々な活動の発表や今後についての会議・ミーティングを開くもの。参加者は全体で延べ2万人(海外1万・国内1万)1週間位の日程であったと記憶しているが、その前後1週間位は観光も兼ねてこの世界大会を目指してメンバーが集結する。経済効果もハンパじゃない。宿泊者だけでも毎日2000名を下らない。そしてメンバーは言い方は悪いがお金持ちの2世クラス、いわゆる「金に糸目はつけない」連中が多いのだ。ただし、発展途上国からの参加者もあり、すべてがハイクラスというわけでもないらしいが。

 神戸JCの入れ込みようは大変なものがあった。
大会自体の運営はともかく周辺の行事の企画、それに使う資金の手配も重要だ。運営費用はメンバーの参加費と寄付金で賄われる。彼らにとってスポンサー集めが最重要課題でもあった。

 そのJC世界大会のスポンサー依頼が当社にもきた。
しかも殆どメインスポンサーに近い以来内容だった。寄付金ではなく期間中の食事一切を提供してほしいというもので、現物供与になる。しかし会場のセッティングからサービスまで一切込。会場での広告その他は自由だから費用は広告費で落とすことは出来るが、総費用は勿論、食事の内容、その運営が可能か否かがポイントだった。その前に社長がOKするか? 神戸での名声アップには格好の機会ではあるが、社長も「金持ちのボンボンの・・・?」と思っているはず。

 内容的に昼食1000円、夕食2000円程度のものをMax2000食、1日600万円分、1週間で4200万円もかかる。現物供与なので原価ベースで2000万円位か? 
質を落とせばもっと安価に出来るだろうが、会場セッティング費用も人材も必要だ。総経費がいくらで、その効果はどのようなものか?雲をつかむような話でエイヤァーでせざるを得ない。
どのような社長への申請文を書いたか忘れてしまったが、とにかく社長のOKをとりつけ後はグループ内の飲食部門との調整だ。短期のイベントは儲からないのが定説、嫌がる連中を「社長命令」で乗り切った。多分かなりの赤字になったのではなかろうか? 

 神戸市の見本市会場を食堂にセッティング、厨房を作り、ブッフェスタイルで食事を提供する。
セルフとはいえサービス要員もいる。しかも相手の半数は外国人。 前代未聞の展開だった。一番困ったのは参加者は参加申込すれば食事券が付いてくる。食べるか否かは彼らの勝手、作りすぎても困るが、不足はもっと困る。この食数の読みが難しいというか最後まで出来なかった。午前中のイベントのメイン会場が食堂の近くだとお昼にはドッと押し寄せる。人気のないイベントしかない時は食堂はガラガラ。締めてみれば毎日1000食位しかでていなかった。だから最終的には2000万円以内で収まったはず。

しかし、この1週間は生きた心地がしなかった。ヒヤヒヤの連続だったように思う。
  終わってみれば、神戸での当社のポゾションは確実に上がっていたように思う。
会う人、会う人に「大変でしたね」「よくあそこまで・・・」と関心されたものだ。

金を出すときは出すダイエーといった良いイメージが植え付けられた。






2011年11月7日月曜日

M & A

 M&Aと言えば今は一般的になってきているが当時はその言葉が経済紙にのる程度で実際にはどのようなものか余り知れ渡っていなかったと思う。
 M&Aは企業買収の手法だから財務の問題、本店には関係ないと思っていたら実際は主たる事務所たる本店が担当すべき問題とのこと。主たる事務所と法律上の本店のギャップがまた出た。

 常務に呼ばれてM&Aの担当を突然命じられた。
関係先の窓口になれという。つまり、例のごとく名目上の本店だから問い合わせがないとも限らない。業務としては詳しいことは担当部署にと振るだけのことだが、ある程度は知識がないといけない。付け焼刃で勉強した。何せ、話を聞いてから実行まで1週間もないのだ。M&Aとはそんなものらしい。そして実行までは極秘扱い。例によって家族にも話すなだ。 これはインサイダー取引になるから法律違反なのだ。 

 具体的には当時問題になっていた㈱秀和の忠実屋株の買い占め問題、なぜ秀和がスーパーの忠実屋の株式を買い占めたのかは未だに不明だが、とにかく秀和は買い占めたものの処分出来ず困っていたと思われる。その株式を全て(総額2000億だったと思う)引き取ろうというのがM&Aの目的、市場外でオープンな型で株を取得するには最適の手法だ。後から聞くと、秀和に資金提供していたのはアメリカの金融機関で秀和がパンクするとその会社も危なくなり、ひいては日米関係にというレベルの話だったとか!

 M&Aは株式を取得したい会社の株主に対して価格を決めて公表、一括購入する。
ここで問題はその計画全体と購入価格、これらの情報がもれて株の売買に使われたら大問題、しかもそれが内部の人間であればインサイダー取引になり御用となる。だから、秘密は絶対守らねばならない。誰にも言うなと言われて守るのは意外とツライものがあった。その間1週間ほどニュースは秀和のことを取り上げているし、と言って話題にも出来ない。実行日まで株価の変動がないことを祈った。

 結局は株価は落ち着いたままで問合せもなく、実行日がきて期間内に秀和からも応募があり、一件落着。しかも秀和からしか応募がなく、何のためのM&Aなのか、公示費用(新聞全紙に全国全面広告した)がかかっただけのような感じ。
オープンにして忠実屋の株式を入手しただけの話。

 こうして忠実屋はダイエーグループの企業になり、最終的には合併した。
当社としては忠実屋が地盤とする関東圏に店舗が確保されたことになっているが、実際は不振店舗が多く、最終的にはお荷物となったようだ。
パチンコ事業や印刷業等の関連会社もついてきてつぶすわけにもいかず、パチンコ屋まですることになった。これが後々厄介なことになるとは!