2011年12月29日木曜日

社長巡回

またまたダイエー時代に戻る。

社長は時間があれば店・現場を巡回する。
創業者にありがちな「会社のものは全てがオレのもの」と言う意識があるからだと思う。
それ自体が悪いことではないが巡回される方は大変。少しでも良く見られたいし、前回の指示事項は改善できていないといけない、ましては注意・指示されても困る。
だからダイエーの特質としてそれぞれの責任者は社長の動向に常に注意をはらっている。

神戸に来られる時は分刻みのスケジュールがわかっている。
社長はスケジュールを知られることを嫌がるが、同行秘書は一人なのでこちらにサポートを頼む為に漏らしてくれる。秘書が手帳をチラッと見せてくれるのを見て覚える。ポイントを把握して対応すべきは対応する。要は巡回先へヒントを漏らす。
一番困るのはアキ時間があること、チョット巡回ということが多々あるので可能性がある時は変な言い方だが「警戒警報」を関係する店・事業所に漏らす。それもハズレが多いとオオカミ少年になるので、ある程度カンも必要。
他社の人には何故同じ社内で?と理解できないだろうが、これが現実。突然の社長巡回でミスが発覚して左遷はおろか解雇もあったのだから。

一番困るのは神戸を出て東京へ戻る道すがらだ。
神戸・伊丹間には店舗も多いし、事業所も沢山ある。飛行機に乗られるまで気が抜けない。本店といえども例外ではない。
ある時帰路の車中からTELがあった、道路沿いに空き地を見つけその情報が欲しいとのこと。東京に着くまでに報告するようにとの指示。
2時間くらいしか猶予はない。走り廻って情報収集。オフィッシャルな情報は任せて、囲む会の情報通に問合せをする。こんな時も囲む会のメンバーやJCメンバーの情報が役に立つ。ウラ情報まで彼らは精通しているからだ。
そして何とかレポートを纏めてFAX.指示を待つ。
社長に報告した内容を関係すると思われる部署にもインフォーマルに流す。でないと該当部署は即対応できないからだ。
このスピードがダイエーを支えていたのだとも思うが、担当部署は大変だった。
その社長もいまや故人、懐かしいと言えば懐かしい。

2011年12月28日水曜日

上海自動車産業視察団  ③

・・・続き。
二日目以降は自動車部品屋さんの工場視察。
今回の旅行はスケジュールが知らされていなかったのでやや不安。

まずは常州市役所を表敬。
市長は不在だったが副市長が出てきてご挨拶。TVニュースなどで見る大きな中国型の応接室、椅子はコの字型に並んでいて向かいの人とは話も出来ないほど遠い。K女史の顔をたてた表敬だった。副市長はK女史を「市の誇り」と褒め称えていたらしい。

その後、自動車工場団地地区へ。
中国は土地所有が認めておらずこのような工業団地を作る場合。地図に自由に線を引いてその中の農民を他の農場へ強制移住させるだけで済む。 風景的には農業地帯に忽然と近代的な工場が現れる異様な風景。
途中の町は西部劇に出てくるように平原にポツンと現れる。これも地方の町はハッキリ言って汚い。雑然。

で、工場視察。
自動車工場と言っても部品屋さんばかり、当社はベンツ社と取引しています。当社はBMWと・・・と言ってもセイザイ車のヘッドライトだけだったり、ドアノブだったりで自動車そのものではない。でも彼らは自動車業界だと言う。
どこへ行っても社員総出で熱烈歓迎。
ある会社などは正門前に社員が整列してお出迎え、ナニ様でもないのに。何か勘違いしていないかフト心配になる。またどこへ行っても例のショックアブソーバーの話はない。歓迎されて悪い気はしないが、大げさすぎてすこし不安になる。
工場のボードに「7%」と書いてあったのでナニの数字かと聞くとロス率とのこと。7%とはなんと信じられないロス率、これでも儲かっているらしいから驚き。

二日目はそう言った視察ばかり4社ほど訪問した。
昼飯は途中のレストランで、外見はみすぼらしい店に案内されるが、店内は素晴らしい装飾。外見もキチンとすれば良いのに。そして昼からフルコース、勿論のこと酒つき。これまた非常に旨い。

夜は夜で上海で一二を争うという料理店へ。
そこにはK女史の同級生だった上海市交通局長が待ち受けていた。
上海市1300万人の交通を抑える大物だ。でもさすが上海、彼はポロシャツ姿でどこにでもいるオッチャン。
はてここは誰の奢りなんだろうか?
果して、宴席に知らない人物が次々にだ入りする。聞くと運輸関係の業者らしい。交通局長が来ていることを聞きつけて差し入れ(大概が酒)を持って局長に挨拶にくる。局長もそれを当然のごとく受ける。そのたびに話が中断する。ゲスト(?)たる我々を無視した行為にチョットがっくり!

そして食後、局長曰く「三番目の妻が足指マッサージをしているので行こう」三番目の妻にもビックリだが、公務員がアルバイトしている。 さらにカラオケへ。ここもその三号さんがやっているとか。

そして三日目は観光・ショッピング・・・?
ショックアブソーバーはどくへ行ったんだ!聞くと今夜ミーティングがあるという。
夕食後、やっと商談的な話。
概要は例のショックアブソーバーをコピー生産したいので手を貸して欲しいとのこと。生産と言ってもPatentはどうするのか? ここでビックリ発言「Patent無視して良い」と市の書記から言われているから大丈夫だと言う。
Patentはジープ社か三菱から借りないと生産してはいけないハズ。中国共産党書記がいかに偉いかは知らないが国際条約違反になる。中国側良くても我々は手が後ろへ回る。
話は技術的なことではなくここで暗礁にのりあげた。話はまとまらない。明日は帰国の予定。
こうやって中国と言うのは統治されているのかと実感する。国際的なトラブルが絶えないのが良く分かる。

こうしてタダの上海ツアーは終わった。
ナニの成果もない。K女史に聞くと「彼らは招待した。日本の業界人を知っている」というだけでその目的の半分は達しているとのこと。
最後に重要なのは「礼状」。 形式ばった礼状を書き送る。 肩書きは「神戸商工会議所・会員 K」、エッ会員って肩書きなの? それで中国の田舎はいいらしい。
未だに何がナニだかわからず仕舞い。
料理が旨かっただけ。

2011年12月26日月曜日

上海自動車産業視察団  ②

続き・・・。
食事が終わるとカラオケに招待された。同じホテルに大きなカラオケルームがあった。
日本人のオッサンはカラオケと女好きと思われているらしく、そこには大勢のホステス(?)がいた。
1人に2人の女性がつくいた。殆どが日本語がわからないので話も出来ない。カラオケも日本の歌もあるが、中国語の歌ばかり、それを彼女らがグループを組んで踊り歌う。カラオケというより何かのショーのよう。

食事中は老酒や白酒だったが、ここではウイスキー。
でも乾杯・乾杯でしこたま飲まされた後なので、実のところ早く部屋に帰って寝たかった。
今夜の接待は市の共産党委員会主催のようだ。
例の若い書記さんが張り切っている。しかし楽しんでいるのは彼らだけ。
そのうちK女史の息子が私に耳打ちした「お持ち帰りOKらしいですよ」と。 こちらにはそんな気は無いし、第一パッとしない娘ばかりだ。宿泊はツインだったが、お持ち帰りの場合は特別に部屋を用意するとまで言われる。金は200元(当時のレートで3000円と安い)以上出さないで欲しい・・・彼女らを甘やかすからと、そこまで言うか書記さん!
※実際は200元だすと駄々をこねられて300~500元出したとか!
彼女たちもそれが目的らしく売りこんでくる。
断る中国語もしらないので、冷たくあしらうしか手はない。トイレに行くと彼女らも付いてくる出口でハンカチを持って待っているのには参った。
なんやカンヤで初日は終わった。この調子だと先が思いやられる。
・・・続く。

2011年12月24日土曜日

上海自動車産業視察団 ①

ダイエーも次のイチケンも辞めて遊んでいる時代、友人の紹介である中国人女性実業家の仕事を手伝うことになった。
彼女・K女史のことは既に触れたが、見かけは普通のオバチャン、だけど実際接してみると中々のヤリ手女性。中国人だからというより彼女の持っているパワーにはスゴイものがあった。

軽い気持ちでお手伝いをOKしたが、彼女は分からないことはナニでも相談してくる。彼女には中国から色々と情報が入り、その対応について聞いてくる。こちらもスーパーに勤めていたからってスーパーマンではない。
そんな中、自動車部品を作っている彼女の知人から相談があった。
ビックリするような話。
中国人民解放軍と警察が使っているジープ(アメリカのジープ社製)のショックアブソーバー(車体と車軸を繋ぐ緩衝器部品)を取り換える計画がありそれを中国で作るにはどうすれば良いかと言うこと。
ショックアブソーバーは1本純正部品だと2~3万円はする。1台あたり数万円はする。それがなんと軍で5万台、警察に5万台ある古くなったジープの部品交換をしたいとのこと。1台5万円として10万台で50億円にもなる。なんとビッグな商談。夢のような話。

日本でのライセンスは三菱自動車が持っている。
ライセンスを繋ぐだけでかなりの利益になるし、第一ビッグな商談だけに興味深々、この話に乗ることを彼女にアドバイスした。

そうすると上海から返事「招待するので一度上海へ関係者を連れて視察に来てほしい」とのこと。
上海へいくのは良いが自動車関係者がいない。急きょ各方面に手配、なんとか3名の関係者(自動車部品屋・輸入業者・ディーラー)に声をかけ自称「上海自動車産業視察団」を急造した。
メンバーはK女史を団長に彼女の中華料理店の支配人・友人の神職(?)それに前述の3名と私の7名。
先方の招待と言うのはスゴイ! 3泊4日のツアーにかかった費用は全て負担してくれる。関空から上海のエアー、現地滞在費等一切だから恐縮の限り。しかし招待と言うのだから甘えようと言うことになり上海へ、空港には大型バスが1台用意されておりそれで各地を観光・視察・食事にとフル活用した。
後でわかったのだが、招待してくれたグループは彼女の学生時代の同級生だとか、しかし海のものとも山のものともわからない日本人をよくここまでするとは、何かウラがあるのではと一時不安にもなった。後でわかったのだが、中国では「オレは日本にこんなコネクションがある」というだけでかなりのステータスになるらしい。それ位ならお安い御用だ。

現地でのガイド役兼通訳はK女史の息子と彼女の甥がしてくれたので助かった。
最初、上海から常州という町へ移動、この常州市こそが彼女のルーツ。生まれ育った町、町では彼女は「単身、日本で成功した女性」で英雄扱い。
「常州はすごソコだから」と聞き、バスに乗車、高速道路を100km位で飛ばす。しかし中々常州市には着かない。途中、サービスエリアで休憩するほど遠い。聞くとあと30分位とか? もう1時間半も走ってるのに!!! 中国でチョットは2時間、距離にして200km。 さすが中国、大きいワ!

常州市に着くと直ぐに夕食。
上海から長江沿いに来たかなり内陸の町。ここには日本の企業がかなり進出していた。Canon,富士通といった日本企業の工場を見かけた。途中にはユニクロの工場が畑の真ん中にポツンとあったりもした。

夕食は当地の共産党委員会主催。
我々7名の為に市書記以下20名位の人が迎えてくれた。中国でが行政の長より共産党書記のほうが偉い。党書記といっても30歳過ぎと若い。紹介してもらうまでどの人が書記かわからないほど。しかし、料理は非常に旨かった。川魚中心だが今まで食べたことのない料理。そして乾杯・乾杯の連続、これからの3泊4日全て食事は酒池肉林。※肉林は無かったが!

食事中にタバコが吸いたくなり、タバコを吸っても良いかとたずねた。
即OK,でビックリしたのは私がタバコに火を点けるや否や、同席の半数位の人たちがタバコを吸いだした。彼らはホストだからタバコを遠慮していたのだ。それと中国でのタバコのもつステータスを再認識させられた。タバコにのみ関しては中国は素晴らしい。

・・・長くなるので、後は次回に!

2011年12月23日金曜日

大阪女子マラソン

今年も大阪女子マラソンの季節がやってきた。
毎年、このマラソンが来るとお世話になった酒井 清さんのことを思い出す。
大阪女子マラソンの始まりは昭和50年代の中ごろだったと思う。
いきさつの詳しいいところは知らないが、ダイエーがメインスポンサーで大阪で女性のマラソン大会をするという。 マラソンが今ほど認知されていなかった時代、しかもマラソン大会などしたことのない大阪で、ましてあまり関係のない当社が?

そのプロデュースをしたのが元上司で我々の仲人もお願いした酒井さん。当時は販売促進部長だったが、特命でマラソン大会担当をされていた。 
確かに販売促進の仕事と言えばこんなに大々的なキャンペーンはない。関西の店舗を中心に女子マラソン一色、各メーカーの協賛もあって大々的なチラシ展開、しかも店のある沿道にはノボリ・カンバンで一杯に。その後ダイエー崩壊前まで大阪女子マラソンへの協賛は続いたと思う。
その苦労話は伝え聞いたが、ご本人からは何も聞くことが出来なかった。何故ならその大会が無事終わり暫くしてから彼は突然亡くなったからだ。当時、新聞にも載ったが、中内社長との面談中にクモ膜下出血で倒れ3日後になくなった。まだ40歳代前半だったとおもう。
有能な社員が次々と亡くなっていくダイエーの悲劇の始まりであったとは当時だれも知らなかった。

先日、夫人にお会いしたら「主人が生きていてもダイエーはやはり・・・?」と訊ねられて返答に困った。
酒井さんが生きておられたら、少しは延命できたかもしれない・・・?

2011年12月22日木曜日

定番の仕事

ダイエー本店事務所時代の仕事は色々あったが、定番の仕事だけでもこんなにあった。

民間渉外担当としての業務を整理すると・・・。
神戸商工会議所(神商)関連
商工会議所は日本商工会議所法という法律に基づいた法人。民間企業の集まりではあるが、体制は官公庁型、県や市からの委託事業も多い。
神商の事務局とは常務理事以下担当の部長・課長まで完全にダイエーシンパ、情報は即入手できる体制を作っていた。
神商の業務は殆どが社長の務める副会頭・常議員の代理出席
会議所は会員相互により選ばれる議員によって運営されているが、議員の数は100名を超えるので、日常の意思決定は議員の中から選ばれた20数名の常議員によって運営されている。
神戸では大手(神鋼・川重・川鉄・神戸銀行+当社ダイエー)と地元の有力企業で形成されている。
常議員会で提案され議決されることは毎回多い。重要な案件もあるが、殆ど事務方の手続きレベルの事案ばかり、代理出席者は議決には参加しないのが慣例、しかし意見を求められることもありその時は発言に困った。
この常議員会は毎月第一月曜にあり、社長が出席することは年1回位で通常は代理出席する、大手はだいたいそのスタイルで代理出席の各社担当者の席まで決まっている。
そして会議所には業界毎の部会があり当社は商業関係の小売商業部会に所属。
部会には毎月1回所属する議員の会合がある。これも社長は出ないので代理出席が定番化。昼食を取りながらの和やかな会合だ。
そして年一回の議員総会。殆どが出席して報告するだけ。何故なら重要案件は事前に調整され決まっているからだ。

中内社長を囲む会事務局
不定期だが新年会・納涼会・忘年会・そして研修会・研修会が視察旅行になることもある。だいたい2ヶ月に1回はある。これらは全て事務局業務。
本来、社外の中内シンパの人たちの集まりで会社は関係していないことになっているが、実際は企画・実施・会計まで事務局業務は全てしていた。会費制で年15万円、会員数40名位で年600万円も予算はある。資金は潤沢だし、もしアシが出ても追加会費は即集まる。

神戸日米協会事務局業務
中内が会長を務める任意団体。これも全て事務業務は担当していた。
年一回の総会・米陸軍Bandウエルカムパーティー・神戸まつりパレードへの参加・Golf大会・クリスマスパーティーetc. これも全て事務局として企画・実施・会計を担当。

中内育英会事務長
中内が全額寄付した育英事業目的の財団法人。
基本財産は殆どダイエーの株式なので株価が高騰した時は総資産100億超にもなった。年間事業資金約1億円。殆どが株式配当。なにせ360万株保有の大株主。
一番困ったのは財団法人の事業は単年度制、毎年の収入1億円はその年に使い切ってしまわないといけない。予算残を出すと県から指導が入る。しかし理事長たる中内への決算報告では予算残=剰余金を出さないといけない。剰余金=利益の感覚が理事長にはあるから説明に困った。理事長は決算書の剰余金欄を一番に見て「ヨシ」と赤マルをつける。その剰余金が数千万円になった時、県から指摘されたので新規事業用の積立と逃げたが・・・。
育英会の業務は定番化されていて、四半期ごとの奨学金授与・年一回の理事会・そして育英事業etc.

その他加盟団体のフォロー
会社が加盟する神戸関連の団体のフォロー、これがこまごまと多数ある。
商業関係の商店街連合会・市場連合会に始まり、神戸ファッション協会や地元ポートアイランドとの付合い。
そして神戸空港建設促進協議会や神戸レジャーワールド協議会等への参加等々。
ざっと見ただけでもこれだけある。

良くやっていたと思う。

2011年12月21日水曜日

Party

ダイエーの神戸本店時代、いくつものPartyを実施したし、招かれて行ったことも多々あった。平均して年30回位は行ったり、実施したりしていたように思う。

神戸本店に行くまではPartyなんて全く知らなかった。
それが突然Partyの事務局をしろと言われウロウロ。 そんな時オリエンタルホテルの総支配人には色々と教えてもいらった。 
そして最終的にはPartyをシステム化するまでベテランになって総支配人からPartyのことは森本に聞けと言われる位に成長した。Partyの企画書・進行表・収支計算表・台本etc.をマニュアルか出来た。
Party事務局をしたのは神戸日米協会(総会&Party,米陸軍軍楽隊歓迎Party,クリスマスParty・・・etc.)中内社長を囲む会(新年会・納涼会・忘年会・その他・・・etc.)神戸Harks後援会(シーズン後1回)等々の定番Partyが年に10回はある。
そして招かれるPartyも月に1~2回はある。
神戸商工会議所関連が多い。会議所の小売商業部会でも旅行もPartyもあり、そして色々な団体・協議会等のParty、政治家のParty等多々あった。
Partyではないが会食のセットも仕事の一つ、これは気を使う。
そして同席はしないが陰で無事終了するのを待っている。やっと終わってお見送りし、社長も帰ってから食事。そんな時、使ったホテルや料亭では後で御馳走してくれた。お客として事務局を大事にすることは次の商売に繋がるからだ。そんな時も料理長や女将さん等から色々教えてもらった。
大きなPartyや重要なPartyには事前に御祝儀を持参して現場の料理長や板長さんに直接手渡す。ほんの少しのご祝儀で出てくるものや材料がちがってくる。これは重要なポイントだ。
Partyは殆どが社長の代理出席。
また社長自身が出席する会合・Partyに同行することもあった。この場合はPartyどころではない。社長の動きを常に注意し何かあったら即対応しなければならない。秘書は着いてくるが、彼らは神戸を知らない。
ある時同僚がある社長に同行したPartyで飲み食いしていると社長から「メシは家に帰ってから食え」と注意されたとか!
社長にすれば仕事で来ているのだから仕事をしろということだ。その後は水割りのグラスだけ持ってそのPartyを過ごしたこともある。見ているとエライさんは殆ど飲まない、食わない。 グラスだけ形として持ってはいるが決して飲まない。挨拶・話ばかりしている。 社長の言う通り渉外はそれが仕事だからそうあるべきで、グラスと名刺片手に仕事をしないと。
服装もキチンとしなければならない。
Partyのレベルによって服装にも気を使う。高価なブランド物は御法度。先方より出しゃばってはいけない、と言ってみすぼらしいカッコも出来ない。
スーツ・ネクタイにかなりの金も使った、全て自前。それを知ってかネクタイ等を囲む会のメンバーからは頂いたりした。そのネクタイは次回会う時には必ず絞めていかないといけない。イロイロ気を使うことは多い。
しかし、行くPartyはまだ楽だ。Party事務局はシンドイ。
それについては後述したい。

2011年12月20日火曜日

隠密剣士参上

ダイエーをクビになり東証一部上場の某中堅建設会社に就職、仕事は社長のスタッフ。
社長スタッフとは聞こえは良いが、社長から指示されたことは「隠密」「御庭番」・・・。

以前にも書いたが、親会社の社長の娘婿で落下傘社長。
しかも性格もイビツ(?)なのか,社員全てを敵のように思っている。頭も悪い(?)し育ちも悪く(旧財閥のオボッチャマ育ち)世間を知らない。 絵にかいたような無能社長。(言いすぎかな?)
最悪なのは奥様とも上手くいっていないとか、自業自得、女遊びもハデなのだ。

今だからここまで書けるが、当時は非常に微妙な立場だった。
私の入社を紹介してくれた人との関係、彼はこの若社長の義父とは非常に懇意、その意をくんで若社長を何とかして立派な社長に育てようと思っている。その一環で私を送り込んだが、そんな簡単なものではないし、私にそんな能力もナイ。

また義父は義父で若社長の能力は見抜いており、また夫婦関係の不和も気づいているが、早く立派な社長になって欲しいと望んでいる。
余談だが、この義父の不幸は跡継ぎが一人も育たなかったこと。息子二人も娘婿も役員も!だから彼の体力と同じで年々衰えて破綻した。
で、私の立場は三すくみ状態。日常はこの若社長の言うことを聞かなければならない。

あそなある日、社長から具体的な指示があった。
神戸の社員が不正をしているらしいからそのウラを取って欲しいとのこと。やはり隠密剣士か御庭番か?
不正は下請け業者とつるんだ贈収賄。
調べるにも難しいが、ある時一部の社員がいつも行っているスナックがありそこが怪しいという情報を得た。
友人を誘ってそのスナックに行ってみたら情報通りある課長とその部下がいる。しかもどんどんその人数が増え10人位になった。客の半数くらいが当社の社員。払いは某業者もちになっているらしい。シッポは掴んだ。私の払いもロハにと言うが立場が違う、自分で払うと言うと何と水割り2杯で3万弱! 情報は掴み報告あとは社長の仕事、その課長とあと二人が異動になった。

このような隠密剣士の仕事を3~4件はやらされた。
あまり気乗りのする仕事ではなかった。第一、社内に私の妙なウワサが立ち出して立場は微妙に。
だから某建設会社では居心地は良くなかった。

2011年12月19日月曜日

パチンコ屋

まさかパチンコ屋までするとは・・・・・?
ダイエーが買収した忠実屋は色々な関連事業を持っていた。その中にパチンコ業もあった。 どこかに売却するものと思っていたら、継続・拡大するという。 

神戸には関係ないと思っていあたら、新規1号店を神戸に作るという。例の新神戸のOPAに空きスペースがあってそこに出店することになり、その調整することになった。 

パチンコ屋は警察の許認可が必要。 
警察は業界団体・遊技場組合のOKをとれと言う。 事務レベルでの調整は順調に進んだが、最後に組合の会長の承認。 ところがその会長に会おうにも会長がつかまらない。会長の店はあるが、会長がどこにいるかわからないという。 理由を聞いてビックリ、その会長は色々と問題がありその筋から狙われているので居場所を一定にしていない、住居もない、連絡は携帯のみ。勿論、携帯の番号は秘密。

社長を囲む会のメンバーに丁度パチンコ業の人がいて何とかコンタクトを取ってもらった。 
会長に出店計画を話すとすんなりOK,素人に何が出来るかといった感じ、ただ、機械の台数を減らせという。神戸の組合の規則では最初は300台以下いう制限を設けているとんこと。何故か計画では310台になっていた。 事務方で何故そんなことを見落としていたのか、社内調整済みで今さら削減は出来ない。 
スーパーで言えば、売場面積の削減、社長が一番嫌がることだ。 パチンコ会社の社長も困ってしまったが、又ここで裏技をつかった。 紹介してくれた囲む会のメンバーに頼み中内に説明してもらうことにしたのだ。 外圧に弱い中内社長にはこの手しかない。 で、アッサリOK.
何とかぎりぎりオープン出来た。
このパチンコ会社には店長のお古で使いものにならない人材がおくりこまれ、オジステ山となった。
これもダイエーの破産でどこかに売却されたと思う。

2011年12月18日日曜日

日米通商交渉

神戸日米協会の事務局長としてアメリカ総領事館との付き合いがあった。お互い上手く利用しあっていた感じだ。
総領事宅に招かれたり、総領事家族とホークス戦を見に行ったりもした。

因みに総領事自身は日本語ペラペラ、日本の風習にも熟知されている。アメリカの駐日外交官は着任1年前に日本に来て横浜の研修所でみっちり日本&日本語について勉強させられ、また総領事に日本をアドバイスする日本人スタッフも常に行動を共にしている。日本人以上に日本の歴史や風習を知っている。

ある時の米総領事の挨拶で面白いことを言われた。
「先ほど『お忙しいところお越し頂きまして・・・』と言われましたが、日本には『貧乏暇なし』という諺があります。私は常に忙しくしてヒマはありませんので『貧乏』なんですね」と。
ある時、総領事館から電話が神戸にあった。
内容は「中内社長の来月アメリカ訪問時に米通商代表がランチを共にしたいと言っている」ついてはスケジュールの調整をしてくれないか?とのこと。
通商代表は日本でいえば通産大臣、単なる昼メシのお誘いではないだろう。
このことは内容的には東京の秘書の仕事「東京へ連絡してくれ」と言うと、東京は東京で大使館が秘書に連絡を取っている、神戸からもプッシュしてほしいとのこと。
念の入ったことで、あらゆるチャネルを活用して動くのがアメリカ政府流らしい。当時、外交問題化していた「米産牛肉の輸入」について、日本の流通業のトップとしての意見を聞きたいのだろう。つまりは当社とアメリカ双方の利害は一致しているからタッグを組もうと言う趣旨。「昼メシでも・・・」と言うのが面白い。

同じようなことが続いてあった。
これも日米の通商問題、「流通業の自由化、大店法の撤廃」について又、日本の流通のトップ企業としての意見を聞きたいとのこと。
これも手が込んでいて、職務のレベル毎に面談をしたいらしい。東京では社長は勿論、開発担当役員・部長クラス、関西では地域の開発責任者といった各レベルでのヒアリングをするという。

関西の開発担当と総領事館へ行き担当領事と面談。
外交のややこしいのは普段は日本語で話す領事が公式な話なので母国語の英語で話す、途中から話に時間がかかるのでこちらの発言(日本語)は領事は理解できるので通訳を飛ばし、彼の発言(英語)のみ日本語に通訳。
領事が確認したかったのは大店法についての考え方、ダイエーとしては大店法撤廃に賛成なのか?ということ。
しかし実は大店法は両刃の刃、当社が出店を規制されるように他社の出店も規制することが出来る。だから、即廃止・自由化されても実際は困るというのが本音。 領事が驚いたのはダイエーは上から下まで統一されたことを言うということ。 当社ほど上意下達の徹底した企業はないのだ。

その後、アメリカの圧力もあって大店法は廃止されたが、アメリカ系のスーパーの出店はない。 あれはナニやったんや!
神戸日米協会という何のメリットもない仲良しクラブが役に立つこともあるもんだ。渉外の仕事というのはこんなものなのだ。









2011年12月17日土曜日

神戸空港問題

神戸に空港を・・・って今さら? 阪神大震災前の話。

神戸は以前、関西国際空港の候補地として99%決まっていた。
神戸に関空があったら、震災時どれだけ便利であったか?  
どれだけ経済貢献していたか? 逆に今の関空が抱える問題も半分以上が解決される。 
神戸の方が旅客の足の便は良いし、既存の交通機関で十分。 
さらに根本的に建設費が半額位で済むかも? つまりは、埋立て費用が水深と岩盤の関係で安上がり、関空の水深は40m,神戸は20m。素人が考えても埋立ての土砂は半分で済む。 実は水深が深いとその土砂に負荷がかかりより以上の土が必要となる。 竣工後の地面沈下リスクも大きい。 関空の施設は全て沈下を前提に設計されているのにはビックリ。それに海底の岩盤が違う。現関空は海底が土砂で緩い。神戸は岩盤で固い。 つまりはクイの長さ強さの点で建設には有利。

当然、関西国際空港は神戸に作るべきだった。
問題は当時の市長、市長自身は空港建設に賛成なのだが、全政党が支持の彼は、共産党一党の反対を重視、それまで全会一致を旨としていた市議会の運営を気にした。ただそれだけで関空誘致条例は流れた。
本人が後に述懐されているように、彼の唯一・最大・最高の汚点。

それ以降、運輸省もカンカン。
それが、関空が出来てから神戸に空港が欲しいと言いだした。
「だれが」と言うことなしに神戸空港計画が進められた。 しかし、問題は政府・運輸省。 当時の運輸省はガンとして動かない。 空港建設の審議会に神戸をかけようともしない。

ダイエーのルートで調整が依頼され色々東京で動いたようだが、上手くいかない。最後には運輸省から「昔Noと言ったヤツの首持ってこい」とまで言われる始末。 この発言は議事録に載っている某局長のビックリ発言。そこまで恨まれているのか!

しかも地元神戸では例によって何でも反対派が反対運動をし始め紛糾。
市長選挙の争点にもなり、市内は賛成派、反対派に分裂ぎみ。
反対派は全国からオルグを送り込み活発に活動している。
賛成派も運動をしなければと会議所等が中心となり活動。空港推進協議会が作られた。
個人的にはあまり賛成できなかったが、会議所活動の一環で動かなければならない。
各所での賛成派会合、ポスター等の告知ツール作り、当然社長は協議会の副会長に祭上げられ、その代行業務もある。市としては中央での社長の発言力にかなり期待していた模様。で、結果は何とか審議会の議案にのせ、OKを取り付けた。 
最終決定のFAXを運輸省から届いた。しかし、そこには神戸の名はない。 隅々まで見直すと、欄外に小さく「神戸空港」と記してある。 地方空港としての認可、国は何もしない。自前で勝手に作って良い。認可だけはするということで、その欄外のリストに名前が載っただけ。
地元ではこれだけ問題になっているのに!

認可以降も反対派は執拗に反対運動をした。
争点は収益性、つまり自治体が作り運営する地方空港なので、全てが神戸市負担しなければならない。 かなり無理のある収益計画、しかし仕事としては賛成、後押ししなければならない。 今、各地で問題になっている「ヤラセ」まがいのこともした。
ヤラセと言ってもパブリックコメントや公聴会での発言依頼、内容は任せられているからヤラセとは言えない。 依頼を受けて対応したものだ。

結果的に中途半端な神戸空港が完成した。
今後、関西三空港で上手く運営してほしいものだ。
私見だが、伊丹を廃港にして「第二首都」化、残った土地は民間に売却、その資金は国債償還に使う。そして神戸を国内線中心の空港にする。その為必要なら滑走路増設もしなければならない。
因みに「伊丹」は関西の「普天間」(のような危険空港)であることを忘れてはならない。

2011年12月16日金曜日

昭和天皇崩御の前後。

昭和天皇が体調を崩された時、皇室に関連した仕事をしていた。

中内商店らしい仕事、中内社長の次男、正氏(後の福岡ダイエーホークスのオーナー)の結婚式の準備。
全く会社とは関係がない個人的なこと、それを社内では秘書室を中心に秘密プロジェクトを作り社員を使って進めていた。これも会場その他が神戸であることもあり、メンバーに入れられた。これは公私混同の最たるもの、後に使った経費は中内家に振ったらしいが、人件費は振りようがないし・・・?
私の担当は神戸で行われる結婚式、披露宴の調整、細部の調整に走り回った。

問題は新婦が皇室の遠縁にあたられる女性であったこと。
お相手の母親が常陸宮妃殿下の姉妹に当たる方で披露宴に妃殿下がお越しになるとのことで大変! 1泊2日で神戸に滞在される。その間の接待を全てしなくては! 
それに警備、妃殿下の行動計画を作って警察と警備の調整が必要になる。 しかし、兵庫県警に挨拶に行ったら、今回は妃殿下とはいえ個人的な行事なので警察としては警備はしないとのこと。公務なら警察が警備をする、同じ方なのに何故そんなに違うか? 
但し、警備計画は出せという。公務なら秒単位だが公務ではないので分単位で良いとか。 しかも計画書のひな形があるわけでもない。 言われた通り妃殿下が新神戸駅に到着されてからお帰りになる新幹線の乗られるまでの計画をたてた。 確か1ヶ月位作成に要したと思う。 ようやく県警に持参、結果的には警備課長に褒められた。民間でここまでされる所はないと。

そんな中、天皇陛下が入院されたとの報道。
これで当初の計画は全て見直しに。 世の中自粛ムード! 結婚式自体をするものか否か? これは両家と本人の話。 最終的には式は簡単にするが、披露宴は中止。つまり結婚はするが派手なお披露目はしない。 
実は当時、新神戸に新しくホテルとショッピングセンター・劇場からなる大施設(オリエンタル・パーク・アベニュー=OPA)を作っていて正氏がそこの社長になる予定でこの計画はストップする訳にはいかず、進められた。 正氏の結婚披露宴はこのホテルオープンに合わせて双方のお披露目の意味も持っていたのだ。 
1年前から計画したこのプロジェクト、1ヶ月前の中止は大変、殆ど全てをキャンセル、キャンセル漏れがあっても困るのでシビアーなチェック。実行する方が楽だったかも!

OPOAだけはその秋、オープンしたがセレモニーは最低限に、お祝い事は中止。お祝いを意味するものは全てカット。 これも漏れがあっても大変。OPAは粛々とオープンした。
因みに披露宴はその後落着いてから、東京で行われた由。
昭和天皇は昭和64年1月7日に崩御された。
因みに、1月7日は私の誕生日。
家内が何を思ったかその時だけ、誕生祝いに「祝い鯛」「赤飯」「ケーキ」を準備していた。 不遜にも崩御当日は他に食事の用意もなくそれらを頂いた!!!

2011年12月15日木曜日

Sun-TV

神戸の地方テレビ局「Sun-TV」が労働争議でゴタゴタしていた時、何故かダイエーにその解決が知事から依頼された。
勿論、表向きは経営立て直しの要請。
当時は神戸新聞主導で経営されていたが、当社から社長・常務と言ったクラスを送り込んだ。Sun-TV社長には中内社長の末弟が起用され、常務にはダイエーの労務担当の部長が起用された。
ダイエーは(流通業界は)同盟系のゼンセン、当時の民社党系だが、Sun-TV(放送業界)は総評系そして放送業界の組合の組織力は強い。従って、賃金闘争では高給を常に勝ち取っており、積もり積もってかなりの高給。しかも年功序列の統一給制。だから年齢が同じなら基本給が同じ、常識的には考えられないが同期であれば部長職と事務職の給料が役職手当以外は同じ、実際に聞いた話だがある部長秘書の女性とその部長は同期なので数万円の部長手当以外は同じなのだ。因みに彼女は簡単な事務しかしていないとか!

当時のSun-TVは会社の入口から赤旗がたなびく異様な雰囲気の会社だった。 
派遣された常務はその会社を時間をジックリと時間をかけて手なずけて、彼は数年はかかったがその組合を温和な組合へと変質させた。
表には出ない話だが、Sun-TVが今日あるのは彼の功績と言っても過言ではない。
彼はSun-TV問題を解決した後、また組合問題でモメていた中小スーパーへ乗り込んで、そこの組合と刺違えて(双方身を引く)会社を辞めてしまった。ある意味、プロ中のプロだった。

2011年12月14日水曜日

KG M’s Club

出身の関西学院大学の同窓の集まり「KG M’s Club」
M’s の由来はメンバーが大学時代同じクラスで、クラス別けは50音別で全員がマの行、つまり’M’で始まる人の集まりだったこと。マの松本クンから始まりモの森本で終わるメンバー、約10名。
今はどうなっているか知らないが当時の関学には大学なのにクラスがあった。担任の先生がいてホームルームのような時間があった。そのクラスがマ行(M)で自然と友人になった。
我々の担任の先生は偶々だが宗教学(キリスト教)の先生(牧師)だった。宗教臭さは無かったが先生の温和さが印象的だった。因みに成績表はこの先生にもらいに行く。そして一言コメントを頂く。高校の延長みたいだ。
メンバーは数年前までは仕事の関係で全国各地・海外に住んでいたがリタイアーした今は全員が関西在住。年に2回は集まっている。集まるとそこは同窓「お前、オレ」の世界、年齢を感じさせない。
ここでも話の話題は学生時代のことより「健康・家族・金」の三大話。年寄ると仕方がない話題か?
悠々自適な人から未だ現役の会計士先生そして私のような年金生活者まで多種多様いるが、それでも悩みは病気であり、息子・娘であり老後のお金のこと。仕方がないと言えば仕方がない話題。
いつまでもつきあって行きたいメンバーだ。

2011年12月13日火曜日

`Maples’

Maples、メープルとは楓、箕面のもみじ、ダイエーに入社して初めて箕面店に配属された当時の大卒社員の集まりが`Maples’。
(残念ながら箕面店は不振の為、先年閉鎖された)
もう42年も前のことだ。 配属された総勢9名中、2名は帰幽したが7名がグループを作っている。内6名が関西在住なのでいまだに酒のみを中心によく飲み会をやっている。

箕面店で一緒だったのはほんの1年あまり、それぞれが箕面店を踏み台に昇進転勤していったそれ以降40年、バラバラだったのに仲の良いことだと我ながら感心する。
新入社員で箕面店で食品に配属された者はその後も食品一筋、日用品担当だった者はやはり日用品のバイヤーに庶務課配属の者はその後財務部へ、私のようにラインがない者(店⇒人事⇒店⇒渉外)は珍しい。
集まって昔の話もするが、たいていは年寄りの三大話「健康・家族・金」が多い。 私自身の病気の話に始まり(これは私の独壇場!)、家族、つまりは息子が仕事で大変、娘が結婚しない等。金は年金の話。よく毎回同じテーマでというより、同じ話をするものだ。

仲間はいつまでも大切にしたい。

2011年12月12日月曜日

上ヶ原ラグビークラブ(URFC)

関学時代、ラグビー好きの仲間が集まって同好会「関学ラグビー同好会」(KGRS)を作った。昭和42,3年頃の話。

当時は「ただ単にラグビーをしたい」だけの仲間のクラブだったが、それがなんと40年以上続いいる。40年も続くとは信じられない。後輩に感謝・感謝だ。

そしてなんと去年は全国クラブリーグで優勝までするという快挙!

今年も関西クラブリーグ(大学の体育会、所謂ホンチャン以外のクラブ)で三連覇、全国大会(12月18日・熊谷)へ出場することになった。

本来、大学の同好会と言うのは「勝ことが主たる目的ではなく、好きな仲間の集まり」なのだが、そこはスポーツの同好会やはり勝つことが目標になる。  勝って全国優勝はして欲しいが、同好会の基本である「好きな仲間の集まり」は大切にしてほしいと思う。

Friday ミーティング

ダイエー時代の話。
社内的に神戸が重要視されていたのは言うまでもないが、社長から「神戸の各社責任者を集めて毎週ミーティングする」と言われたのには困った。
各社の報告は適時、社長に報告されていて今さらの感はあったが、各社間の意思疎通の点では今一つ良好ではなかったことは事実。それは神戸本店事務所の力不足かもしれない。
毎週金曜日に開催するので「神戸フライデーミーティング」(KFM)というのが正式名称。
毎週金曜日の早朝、8時からオリエンタルホテルで朝食をとりながらの会議。本社で役員が昼食を集まって食べるのと同じ感じか?
各社の現状を情報交換するのが主な目的。事務局は神戸本店。事務局は当日中に議事録を社長・メンバーに流すのが業務。
メンバーはダイエーの神戸エリアの営業本部長・プランタン神戸支配人・オリエンタルホテル・流通科学大学・Sun-TV・KissFM等々10数社。
朝食をとりながらと言うが皆、社長が来るまでに食事は済ませておきたい。だから7時半位には来て早めに朝食、社長を待つ。社長は社長で経団連がしているスタイルを取りたかったようで、朝食をワイワイ言いながら食べて情報交換するのを望んでいた模様。しかし、ダイエーグループでは無理な話。みんな社長と食事をするなど考えるだけでもゾッとする。
経団連では参加者(大手企業の社長・会長クラス)各自のセルフスタイル、自分でご飯をよそい、味噌汁を入れて食べているらしい。しかし、そうは言ってもKFM会場のオリエンタルとしては何かとサービスしたがる。 おかずは昨日の残り物で良いとは言えそういうわけにもいかない。宿泊客と同じものに、2000円もする朝食だ。ボーイさんもつく、これが社長は気に入らない。放っておけという。何とかホテル側を説得して完全無人化(セルフサービス)・残り物「風」の朝食に。 
しかし、皆が早く朝食をすませて社長を待ち、社長だけが一人朝食を食べるのを待っているというのもケッタイな風景に。

各社の報告事項、社長の指示事項はまとめてその日のうちにFAX。
これが大変、下手すると当日はこの仕事にかかってしまう時もあるほど。
つまり、まとめた内容(下書き)をFAXし各社に内容確認、修正が入ることも多々ある。間違った内容をレポートして後で大問題になったこともあった。
だから、社長の都合で毎週が隔週になった時はホッとした。

また同じ発想で神戸の各社の実務者レベルで月1回「神戸マンスリーミーティング」(KMM)を企画した。
これは月1回の昼食会スタイルのミーティングで各社には喜ばれた。経費をうかして年に何回かはPartyも開催した。このKMMは神戸各社のコミュニケーション作りに非常に役立ったと思う。

2011年12月9日金曜日

FM放送局

当時は今から思うとバブル絶頂期は既に越えていた時期、しかし会社(ダイエー)はまだバンバン! 何にでも手を出していた。

政府がFM放送免許を各府県に1つだけ下ろすことなり、兵庫県内でも各町が手を挙げた。 
最後まで残ったのは神戸のグループと姫路のグループ。 
県が調整に入ったが双方譲らない。県としては何でも神戸市に作るのもマズイと考えたのか両者折衷案をとった。 
つまり本社は姫路におき姫路の顔をたて、放送局は神戸に作るというものだった。 実質、神戸に作る型、ややこしいのは神戸で作った番組を一度姫路に送りそこから電波を出すと言うところ。 技術的には可能かもしれないが、何かとロスが多いのではと危惧した。 名前にも気を使い地名は入れずに「KissFM」とした。
そして、その放送局の実質的経営はと言うと又ややこしいことに。
TVやラジオは放送法という法律があってマスコミの独占支配を排除している。具体的には10%以上の株式取得を禁じている。 
そこでこれもややこしい奇策(マル秘なので触れないが)をとり、実質ダイエーが経営する方法をとった。FM会社の主な出資会社はダイエーシンパの会社で固めてしまい、主導権を握ってしまった。これはそれまでの財界活動の勝利だ。つまりは本店の活動成果。
こうして「Kiss FM」が出来た。 

オモシロイのはダイエーではKissFMはグループ会社だとしているが、
神戸新聞のパンフレットには神戸新聞グループだと書いてある。双方がグループってどういうことか? 同じことがTV局「SunTV」でも起こっていた。
ダイエーが手をひいた今、その問題は無くなったろうが。

2011年12月7日水曜日

J リーグ 進出

Jリーグが創設された時の話。
神戸でもプロサッカーチームを作る話があり、ダイエーはこれにも首を突っ込むことになった。まだ当時はダイエー絶頂期で何にでも首を突っ込む感じの頃だった。 

例によって神戸案件なので、本店内にプロジェクトチームがおかれ、活動が開始された。母体は確か川崎製鉄か川崎重工だったので当社に話があったのか?当時、川崎重工・製鉄とは非常に良好な関係であったから。
こうしてサッカーチーム「ヴィッセル神戸」が生まれた。
今、ヴィッセルは楽天が親会社になっているが、ヴィッセルはヴィッセルのまま。これには次のようなJリーグの方針があったからだ。
いわゆる現場、チームの中身はプロに任せて、会社設立から運営の準備が進められた。
最後までもめたのはチーム名、Jリーグの基本方針はチーム名には都市名を使い企業名はNGであった。 
ダイエーとしてはプロ野球と同じようにダイエーヴィッセルにしたかった。と言うより、社長もプロジェクトチームもそうなると思っていたようだ。だからギリギリ最後まで企業名使用を調整した。どんどん開幕時期が近づいてくる、企業としてはその名前を使うことによって広告効果と費用の広告費扱いにでき非常に有利。しかし、ガンとしてJリーグ側は譲らなかった。これは立派だっただと思う。今のプロ野球のようにいい加減な扱いではない。ユニフォームに企業名が入ってもそれは単なる広告、チームは地元のもの。このことが地域のスポーツ振興にどれだけ役立っているか。野球チームのない地方の都市にとって今やサッカーチーム(J2も含めて)はシンボル的存在だ。

ここで、大問題が起こる。
考えられたことだが、中内社長がチーム名問題で「撤退」を指示。サッカー会社として動き出した頃だったので、大混乱。しかし、社長指示は「即刻、引き揚げろ」で出向していた社長以下が手を引くことに。
サッカー会社社長は「今さら放りだす訳にはいかない。自分はダイエーを辞めてもサッカー会社に残る」と言いだした。 彼の言うのも御尤もだが、サッカー会社に残っても親会社たるダイエーが手を引けば居場所は無くなる。全くイミがない。 しかし、彼はダイエーを退社しサッカー会社に残った。
喧嘩別れの型になったが、暫くしてダイエーへの復社がゆるされグループ関連の会社へ。
ここが中内社長らしいやり方だ。

2011年12月6日火曜日

K女史のこと

ダイエー・イチケンとサラリーマンを辞めて浪人中、ある人の紹介で中国人女性・Kさんの仕事を手伝うことになった。

彼女は神戸・三宮でスナックを経営していたので以前から知っていたが、ここまでヤリ手の女性とは知らなかった。
彼女の家族関係が理解できない。
勿論、結婚していて息子もいる。息子を日本に呼び寄せ日本の大学を卒業させて跡継ぎさせようと育てている。妹家族も日本にやってきている。
姉妹ともご主人を中国に残したままで? チョット理解に苦しむ?

彼女は現在、中国との貿易業・上海料理店・デパートでの中華惣菜店・スナック・中国人留学生の受入れ学校等を経営している。
元々は中国からの私費留学生、殆ど無一文でやってきてパートを3件掛け持ちして日本の大学を卒業、そのまま日本に居座って上記事業を拡大してきた。

日本語はあまり上手ではないが、仕事へのスタンスはさすが中国人といった感じ。当時は中国との貿易、繊維製品の製造輸入を手掛け拡大しようとしていて、流通に詳しいということで私に手伝って欲しいとの依頼があった。しかし、私は衣料品はあまり知らないし、まして輸出入にはずぶの素人。その点では彼女の期待には答えられなかった。しかし、1年弱の間、彼女の手助けは色々したつもりだ。

中国からの製造輸入は非常に儲かる。
アバウトな話、日本で100円の商品は中国ではだいたい1/3の30円位で出来る。輸送・通関等の諸経費も加算しての価格だ。そして2/3の価格で卸す、当方の利益は1/3の30円位はある。
彼女は自身のネットワークを活かして中国の工場に仕様書発注する。
今のネットワークはスゴイ!彼女は国際携帯で上海の工場へ電話でどなり散らす。(日本人には中国語の会話はそのように聞こえる)こうなると国内も海外もない。
中国との取引きは慣習として発注時に代金の1/3を支払う。商品の完成時に1/3、日本到着時に残りの1/3をはらう。つまり100円の商品は30円で出来るので1/3の10円を最初に工場側に前払い。全くの信用のみの取引、実際ここでトンズラすることもあるらしいから要注意だ。

この方法で前年は1億の売上、つまり純利益は3000万円、非常にオイシイ話。 
それをK女史はもっと拡大しようとしていた。
日本での販売先は中規模の通販会社、しかし販路を拡大するとその先払いの資金がない。当時、日本政府の景気対策で中小企業への無担保融資があり、そこから1000万円借りる交渉をし、1000万円借り3ヶ月後の取引終了後、返済しようとすると銀行は返さなくて良いという、もっと融資しようとも言う。中国貿易の有望さが注目されかけていた時代だ。最終3000万円まで借りたことを覚えている。
その間、オモシロイ話は多々あった。
某焼き肉チェーンが焼き肉用の網を10万枚単位での打診があったり(値段が合わずNG)、自動車部品の話があったり、その為上海まで出張したりして非常に有意義な期間だった。
K女史からは色々と勉強させられた。多謝・多謝!

上海の話は別途書くことにする。

2011年12月5日月曜日

流通科学大学

大学を作る話。
中内社長が私財をなげうって大学を作るということになった。
しかも神戸に、「流通科学大学」だ。(関東にある流通経済大学とは無関係)
ホンネは相続対策だが! 財団法人に寄付したら、その時点でその金は公共のもの。支配は可能だが自分のものではなくなる。そこんとこをダマシタ奴が大学設立を持ちかけ、社長はのった。
多くの新規事業やプロジェクトを始める場合、神戸関連が多い。
従って準備チームは本店内に置かれることも多くなる。その為かどうかは疑問だが、1フロア余分に事務所スペースが空けてある、空いている。

例によって準備チームが本店内におかれ数名の担当が常駐した。学校法人の設立なんて殆どというよりは全くの素人、苦労していたようだ。
この業務は本店(というよりはダイエー)とは無関係の話で首を突っ込むことはなかったが、神戸の人にとってダイエーが作る大学ということでどこへ行っても話題にはされたので、情報だけは知っておかないといけなかった。
私が担当していた中内育英会の関係で流通・商業関係の大学の先生もこの大学設立に関係されていたり、関心を持たれたりしていて色々と聞かれたり情報もあった。だから大学設立チームとの情報交換も大切であった。
文部省への申請や、大学用地を取得するための神戸市(市の開発地を購入)との調整やらチームのメンバーは色々大変だったようだ。

流通科学大学自体はダイエーが作るということで非常な人気だった。
要はこの大学を卒業すればダイエーに就職出来るとのうわさで、初年度の入試応募者は倍率50倍、関西の有名私大・関関同立の次にランクされる位の人気だった。

これが、大変なことになった。
受験者が多いのはありがたいが、実際の入試が大変。1万名を越す受験者の入試をしなければならない。受検会場が足りない。入学試験を管理する先生が足りない。そこで受験会場は近隣の大学や・高校をかりて、受検当日はなんと我々ダイエーの管理職が担当することになった。これは内密の話、民間企業の社員など受検に使うなんて文部省はOKしないだろうから。
で、その理由かは知らないが、当日(日曜日)は無給・交通費も出ない。出たのはヤヤ豪華な弁当だけ! 受験料を何億も稼いでいるのに。 

現場が面白かった。(受験生の皆さんゴメンナサイ)
担当した受検会場は50名位入る小さな教室、そこを二人で担当、お互い取り決めをした。「お互いを先生と呼ぶこと」「必要以外には喋らないこと」「笑わないこと」等々。社内ではあだ名で呼んだり冗談をよく言うが、それはやめようと、受験生に失礼だからの配慮。
しかし、倍率50倍、教室に50名、つまりこの教室で1名しか合格しないのだ。何という厳しさ!

その後、事務長を務める中内育英会の奨学金枠がこの流通科学大学にも割り当てることになり、例の中国人留学生のこともあり大学との関係は深まっていった。
当時、大学へ出向した(させられた)ダイエー社員は「大学へ飛ばされた」という被害者意識を持っていたようだが、ダイエーが崩壊した今となっては大学だけが残り、彼らも残り「ラッキー」そのもの。
人生すべて「塞翁が馬」。

2011年12月2日金曜日

一難去って、また一難。

先々月、足の血管を手術して血流がよくなり歩くのが楽になったのだが、
「一難去って、また一難」
今度は以前からい気になっていた右足の付根が痛み出した。
大腿骨と足の間の軟骨が無くなりかけているのだ。 腰から太ももあたりがピリピリと痛い。

骨そのものではなく周辺の神経が痛む。
それも常時ではなく何かの拍子にピリッとくるから厄介だ。日常生活に支障があるかと問われると「アル」ともいえない。調子の良い時は何もない。

以前の整骨医の診断では「耐えられなく痛くなってから考えよう」といった医師とも思えぬ診断だった。その時がやってきたのか?
最終的には人工軟骨を入れる手術&リハビリで治るらしいが、ついこないだ入院・手術したところなのに、また手術はハッキリ言ってイヤ!
もっと痛くなるまで待ってみようと思う。病気でもないし放置しても本人がイタイだけで構わない。

ため息だけが出る。「一難去ってまた一難」
「人生全て塞翁が馬」かも?

2011年12月1日木曜日

神戸ルミナリエ

今年も神戸でルミナリエが始まった。
震災の年から数えて17回にもなる。当初はここまで続くとは思っていなかった。
このルミナリエは神戸市が開催しているように思われているが(今は神戸市が主催者)実はある神戸の財界の大物の発案。
彼は一人で開催を説いてまわり約数億円かかる費用を寄付金を集めて開催にこぎつけた。それには神戸商工会議所を巻き込んだ全く民間主導のものだった。経済効果は期待できるものの最初はみんな疑心暗鬼。最初は4~500万人もの来場者があるビッグイベントになるとは思わなかった。交通関係のJR・阪急・阪神等のみが収入増が期待でき、多大な寄付をしていた。当然、当社にも寄付依頼があり、他社の動きも調べて動いてはみたが、この寄付に何のメリットもない。社長がOKする可能性は非常に少ない、というより「何でもかんでも持ってくるな!」としかられそうだ。
そんな中、逆にダイエーが動けば他社も仕方がなく動くと言われる次第。

個人的にも何とかしたかったので、禁じ手を使った。

つまり、中内社長が断れない人から頼んでもらうのだ。そこで、その方にそれとなくお願いに、そして上手く二人が会えるようにして頼んでもらった。 即、OK! グループ各社にもお願いしてかなりの額を寄付した。これで他社も出しやすくなり何とか数億円の寄付が集まって開催に至った。

しかし、実施される街は大変。スタート地点の元町の大丸さんなどは、開催待ちのお客さんで売場は混雑するし、またトイレが公衆便所状態、その清掃も大変で多大な迷惑をかけたようだ。 売上増を期待した飲食店もスタート地点の元町周辺はガラガラ、終点地点の三宮周辺だけが賑わったようで、賛否が分かれ翌年には反対運動が起きる。その問題は解決せず今に至っていると思う。


寄付も長くは続かない。

来場者がお賽銭みたいに100円でも入れてくれたらと各地に寄付の箱を用意したがイマイチ。   タダで楽しむな!と言いたい。
最終的には神戸市の外郭団体がルミナリエを受け継いでもうこれはやめられないイベントになった。

確かに止めるには惜しいイベントではある。

新聞記事情報

これは広報の仕事だが、神戸には広報担当が1名なのと我々にとって新聞情報も必要、そこで広報業務の一部を手伝っていた。

単純な新聞の切り抜きを作るだけの仕事だが、担当者任せに出来ない重要な作業なのでシフトを作って一日置きに管理職が担当した。

作業的には毎朝、8時半までに新聞のサマリーを東京の広報へFAXする。9時までには各地の新聞が社長へ届く段取り。
そのためには7時頃には出勤し日経+全国紙+地元紙神戸新聞に目を通し、切り抜きを作る。

この作業は東京・大阪・福岡もやっていた。

当社の発表記事でも各地各紙の扱いがどんなものかの比較にも主要都市の新聞情報は大切と考えられていた。同じ新聞発表でも大阪では1面なのに東京では1面にはのっていないと言ったことはママあった。
流通関係の情報、経済界の情報、それに各地特有の情報は漏らさずピックアップ台紙に張り付けてサマリーを作る。神戸で特に気を使ったのは神戸新聞、地元の情報で神戸にしか載らない記事は多々あるからだ。特に当時神戸新聞とは冷戦状態(当時記事に誤謬があり、広告全面撤退していた)であったので気を使った。
慣れてくると各紙の姿勢がよくわかる。ひどい記事は通信社の記事のまる写しなんてのもある。
こちらが作戦上、ある1紙だけにリークした記事などはその後の各紙の対応も色々あり面白かった。

月曜が大変、何故なら日曜分が追加されるからで月曜は管理職全員で対応した。

当時のダイエーは流通業界のトップだし、中内の動向も注視されていたので広報対応は重要な業務であった。
結果的に新聞情報で知らない記事はなくなり、その後の渉外活動に役にたったことは言うまでもない。

2011年11月30日水曜日

U.S.Army Band

神戸日米協会事務局としての・・・仕事?

神戸日米協会では毎年「神戸まつり」時に米陸軍軍楽隊(厚木基地駐留)を招いてパレードに参加していた。彼らも神戸に来るのを楽しみにしていたようだ。

因みに、このUSArmyBandは兵隊が楽器を演奏しているのではなくミュージシャンが軍服を着ていると言われているほどで彼らは個々には一流のミュージシャンだとのこと。
話はそれるが湾岸戦争が起こった時、彼らにも出撃命令が出て楽器を銃に変えてイラクへ行ったとか「明日、イラクへ出発します」とメッセージをもらった時にはアメリカの厳しさを実感した。

USArmyBandは2泊3日で神戸へやってくる。

細かい話だが、神戸へ来るまでは彼らは出張扱い。神戸で活動中はこちらがその面倒を見ないといけない。それには費用(宿泊・食事・移動etc.)も世話役のスタッフも必要で準備も大変。(費用の捻出も大変だがここではふれない)
パレード前日には歓迎Partyを開催。
これがオモシロイ。彼らはこの出張を神戸で遊ぶことを楽しみにしている。神戸にはミュージシャンの集まる店が数多くあるからだ。 彼らにとってPartyは食事の感覚で、早く終わって街へ繰り出したい。 ところが主催者である我々は彼らとPartyを楽しみたい。彼らをノセテ演奏させ、賑やかなPartyにしたい。彼らはノルとやはりミュージシャン、なんでも演奏してくれる。最後にはみんなでダンス。楽しいPartyではあった。

ここで一番困るのは神戸日米協会々長(=社長)の機嫌。

何か問題があってブスッとされていてはPartyもダイナシ。会長の機嫌取りの対策も必要なのだ。つまりは会長のお相手を招待しておくこと。一番よいのは知事や市長に来てもらうこと。市長は神戸まつり中なので忙しいが顔だけは出してもらう。そういったイラン気遣いもしなければならない。
翌日のパレードには会員とArmyBandが参加。
でも会員が中々集まらない。パレードなんてという年齢の方が多いから仕方がない。勢いJCや関係先の動員も必要になる。Armyの世話役も必要。 当日はバタバタだ! 彼らの中には菜食主義者やブタは食べない人とか、アメリカ人なのにハンバーガーは食べないとか、フライドチキンでも地方によって味が違うので何種類か用意しないといけない。日本人感覚では対応出来ない人もいる。勿論、女性隊員も数名いる。
彼らの演奏とパフォーマンスは毎年市民に大好評。あれだけの迫力のある演奏・パレードは中々見られるものではない。
今、考えてみてヨクあんなことやっていたなとゾッとする。
まだ若かったのか?

2011年11月29日火曜日

米軍 厚木基地見学

米軍関係のことが続く、神戸日米協会事務局の仕事の関係でお付合いがあったからだ。(7これもダイエー社員としての仕事?)

神戸日米協会では毎年、神戸まつりにUSArmyBandを招いてパレードに参加していた。
その関係で彼らの駐留する厚木基地とは関係があった。外交辞令で「一度お越しください」とは言われていたが、協会幹事が本気にするとは思わなかった。そう言っているなら一度行こうということになった。これも全くのアソビ。

そしてどうして知ったのか基地内のGolf場でプレイしたいという。無理なお願い。
でも、先方は全てOK、厚木の司令官スタッフ(軍属)は殆ど日本人なので交渉も簡単だった。しかも司令官秘書役は日本人女性で彼女が色々せわをやいてくれた。
参加者を募集して20名くらいの視察団を作り厚木へ。
厚木基地は在日米陸軍の総司令部があるところ。だからか兵器類はあまり見渡らない。ジープ・トラックが何台か並んでいるだけ、それともどこかに隠してあるのか?

総司令部でレクチャーを受けた。
先方の狙いは良好な日米関係の維持・拡大。日米安全保障条約と在日米軍がどれだけ日本の自由と民主主義に貢献しているかを強調する。彼らは必ず「自由&民主主義」という。自由と民主主義を守る為ならどこへでもなんでもすると言ったスタンス。日本は国民の生命財産を守るのが防衛だと思っていいるきらいがあるのとエライ違いだ。
しかし不遜にも我々の主たる目的はGolf. 
このレクチャーは有意義なものだった。 日米安保の軍事部門の構成が良くわかった。 やや、疑問なのはそこに日本政府、自衛隊があまり出てこなかったこと、米軍中心の話だからか? 
有事の際、情報はまずこの厚木に集められ、ハワイの太平洋軍司令官にそれから本国・大統領へ流され、大統領が命令を下す。海軍との関係を知りたかったが質問は控えた。長引くとその後のGolfに影響する。

ランチョンミーティングだったので食事がでた。
今日はVIP扱いと言うことでホスト役の将校が多数同席、しかし基地一番のメニュウというものの、ペラペラのステーキとジャガイモ・スープの簡単なもの。当時は急激な円高で基地運営も大変だったのでこんなものか! 因みに、基地のアメリカ人はその頃ほとんど基地外(つまり日本側)へは出ないとのこと。日本は物価が高いから、つまり日に日に円高でドルの価値が下がっていくかららしい。

ランチ後、待望のGolf。
基地に隣接するGolf場、到着順にスタート、セルフでカート、このカートがコース内グリーン以外どこを走ってもOKで非常に楽。しかもプレイ料金が700円(当時$120円)くらいでタダ同然。 コースは平地に人工の山・川等を作った簡単なもの。それでも広い。メンテはイマイチだがそれもご愛嬌。周りは英語ばかりで海外でプレイしている感じ。

プレイ後、風呂は無し、シャワーを浴びる。
このシャワールームは何の仕切りもない。隣のデッカイ米兵と一緒にシャワーを浴びる。こんなデッカイ奴と戦争したら負けるのアタリマエや!
厚木で気を良くしたので今度は沖縄でGolfしたいと皆が言いだしたが、沖縄は米兵のみでNG.因みに沖縄のコースは素晴らしいとのこと。
日米協会の事務局長もたいへんだった?

2011年11月28日月曜日

U.S.S. ミッドウェー

東京の日米協会、外務省の列記とした外郭団体。
神戸日米協会はその法人会員。

日米協会からは月例の各種会合の案内以外に緊急の案内がある。たいていは米軍がらみの案件。情報が軍事機密なので連絡が直前にならないとできないのだ。

当時、在日米海軍の空母ミッドウェイーが来週、横須賀に入港し米海軍が見学を受け付けるといっているので、申し込んで欲しいとの案内が突然きた。
見学日まで数日しかない。メンバーに連絡して参加を受付ける日には時間がない。でも一度見学してみたかったので、協会役員数人に声をかけた。2人が行くという。こうなれば事務局も同行しなければ、ということにして申し込む。全くのアソビだ。
今日に東京に前泊して、全国から集まった会員約40名と貸切バスで横須賀へ。
横須賀米軍基地、そのゲートから圧倒された。警備兵のデカサ!そして本物のカービン銃と拳銃。ゲートを通過した途端そこはアメリカなのだ。
ミッドウェーはもう旧式、この翌年には退役し代わりに再来年には原子力空母が着任するから見おさめ。
ミッドウェーは通常型空母だが、60000tはある巨艦。
ワクワクして乗船、しかし航空機はゼロ、3000人いる乗組員も殆どが下船し、館内はガラガラ。チョット拍子抜け、それでも300m近くもある飛行甲板はスゴイひろさ、1機だけファントムが展示用にあった。
艦内は一つの町、日常生活に必要な設備は全て整っている。病院・食堂・図書館・体育館etc.次の出向に備えて食料等のつみこみに忙しそうだった。フォークリフトでドサット積み込んでいく。

驚いたのは非番の兵隊、ラフなスタイルで艦内で遊んでいる。隣では何か機器類を真剣な顔をして整備しているのに。
艦橋、艦長席にも座った。艦の端から端まで見渡せる。計器がイヤというほど並んでいる。画面類は全てSONY製。艦長席の計器類がスッキリしていないのは艦が古くなり、装備だけ後付けで追加したからか? 

艦長が強調したのは「横須賀が母港だ」ということ。
母港が海外にあるのはミッドウェーの横須賀だけで、言いたいのは日本と極東の為に駐留しているということ。
だから、士官以上は家族までアメリカから呼んで日本に住んでいるとのこと。 今回の見学会もアメリカとしては日米関係の広報活動なのだ。
ということで、日米協会事務局長のヨロクではあった。

2011年11月27日日曜日

中内 功もビックリ!

神戸時代の話。
こんなことまでやった。

神戸の歓楽街と言えば「東門街」、生田神社の東側の一角に飲食店・バー・スナック等が多数集まっている。
その入口にあたるゲート下に今時珍しいサンドイッチマンがいた。広告看板を肩に担いでうろうろ歩きまわって宣伝する人力移動式広告塔。
そしてあるサンドイッチマンが担いでいた看板が問題になった。
また、それを知らなかったのも問題だった。神戸のことは猫が犬を噛んだことも知っていなければならないのに!

「中内 功もビックリ!」「この低価格、○分○○○円」・・・ヘルスの宣伝。
それまでは織田信長、豊臣秀吉といった歴史上の人物名を使っていたのがいつの日か実在の人名に、しかも中内の名前になっていたのだ。
しかも××ヘルスの宣伝。  ビックリするのはこっちだ!
その事実を社長の耳に入れた人がいた。(いらんことするヤツや!)
即、指示。「何とかシロ」と。

これは急がないといけない。
例え1分でも放っておくと何人かの人が見て笑いものになる。
大阪にいる秘書も飛んできたが、夕刻にならないとサンドイッチマンは出現しない。
どうしたものか? 取りあえず、広告元を抑えて辞めさせないと。

夕刻になり、秘書もつれて現地へ、いた、いた。
情報通りの看板を持っている。さっそくサンドイッチマンに声をかける。彼は何を間違ったか、客だと思い店へ案内してくれた。近くの雑居ビルの薄暗い階段を上がっていく、いわゆる風俗店なんて初めて、先方は全く客扱い「二名様ご案内・・・!」なんて言われて店内へ。
店長らしき人間が現れた。
こんな時、初めが肝心。大声は出さないまでも一発カマシてから、本題へ。意外と先方は簡単に折れて謝った。ここでダイエーの名前は神戸で変に轟いているので「ここで商売続けたいんやろ・・・」はキク。

だが、ここで大変なことになった。
同行した秘書クンが何を思ったか店内の写真を撮りだしたのだ。これには先方も怒りだした。セッカク話がつきかけていたのに!しかしここで写真を撮ったことを謝ってはいけない。こんな時の手は内輪モメ、相手が口出し出来ないほど、秘書クンをボロクソに長々と叱ることが一番。その強烈さに相手はビビルものだ。「もエーやんか・・・」とまで言わせればOK.

で、写真撮影をうやむやにして。
逆に即刻、看板を廃棄させることに、目の前で潰せとせまる。相手は雇われ店長、彼が困るのは営業停止。それ位は警察・保健所に言うだけで簡単に出来る。
営業停止をチラツカせながら目の前で看板を壊させて一件落着。

この時初めて、風俗店なるものの内側を見学した。
1坪くらいのスペースをカーテンで仕切って中でゴソゴソやっている。狭い店内にそんなスペースが10数室あって半分以上が埋まっているもよう。
効率はよさそう。しかしコンナンを警察や保健所、行政は何故OKしてるんだ! 

こんなことまでする神戸本店はやはり将軍様の「御庭番」か?

芸は身を亡ぼす。

一芸に秀でた人は尊敬に値する。
芸というほどのものではないが、他の人が出来ないことが出来た為にエライ目にあったことがあった。「芸が身を亡ぼした」話。(ダイエー時代のコト)
ワードプロッセサーが開発され出回りだした頃の話。
富士通のOASYS、1台160万円もしたが、さっそく各部に1台導入された。
当時、ワープロは文書を清書する器具のような扱い、だからか導入された時は女子社員やパートさんにのみワープロ講習があった。私は興味があったのでヒマな時に彼女らから手習いを受けマズマズ打てるようになっていた。これが大変なことになるのだ。

改装担当がある店の改装計画をまとめていた。

非常に古い店で商圏が大きく変化し不振店になっていたのを全面改装して出直す計画だった。何度も社長にプレゼンするが中々OKが出ない。
明日が最終プレゼンの日。改装担当はネジリ鉢巻き、しかし終業時間までにプランが固まらなかったようだ。終業時間には女子社員が退社する。まとめて清書する人がいなくなる。
そこで何の気なしに「手伝おうか?」と言ってしまった。多分、社長用の資料をきれいにワープロ化するだけだろうと思ったから。

それが甘かった。

まだ最終案を本部長にみせていなかったとのこと。7時頃になって本部長に見せることに、しかし本部長は中々OKしない。再度、検討に。行きがかり上、中身にまで首を突っ込むハメになる。

改装コンセプト・商圏分析・売場展開方針・売場レイアウト・売上試算・投資回収試算etc.全てを見直した。終わって本部長に見せたのが夜の10時頃だったと思う。ひょっとして徹夜になるかも?と変な予感! 社長プレゼンは明日の朝8時、それまでには絶対完成させなくては! 突然、本部長が本命のA案をやめてB案をメインにしようと言いだした。案はA案・B案・C案と改装計画は3案あった。そんな今頃になって・・・!
各案を並べ替えて整理、試算もやり直し、それを清書しなければならない。試算も変わってくる。私は案の下書きが出来ないとワープロ化出来ない。ようやくその整理が出来て本部長がOKしたのが12時頃だったとい思う。
それから資料の清書、ワープロ化が始まった。そこで気づいたのが数字の誤差、A案とB案を差し替えたので数字が合わないのだ。再度計算し直し。
最終、プレゼン資料が出来たのは3時頃。結局徹夜した型に!
あぁあ、気軽に手伝おうなんて言うんではなかった。
「芸は身を亡ぼす」だ!
そしてオマケがある。
社長にプレゼンした結果、やはりNGに。
そこまでは「まぁ仕方がないか」ですまされるが、同席した改装担当が申し訳なく小声でいった「森本さんが作った資料ですが、社長は見もせずに破って紙吹雪にしちゃったんです」と。
笑うしか手がない・・・!
社長ならやりそうなことだ!

2011年11月25日金曜日

”G-7”

G-7と言えば主要先進国リーダーの会議体。
ここで言う”G-7”は単なるグループの名称、ちょうどG-7が始まったころだったのとメンバーが7名だったことでそう命名した。それが1986年の話、未だに続いている。なんと25年になる。

”G-7”はダイエーのSM(スーパーマーケット)部門の店長の集まり、当時、店長会議が毎週あり、店長グループで課題研究をしていた。そのメンバーが”G-7”なのだ。たまたま気があっただけでなく、当時の本部長から集中攻撃を受けて結束が高まったというのが本音かも?


とに角、毎週の課題について店で検証して発表しなければならない。自店での事例を持ち寄りグループとしてまとめて次回の会議で発表する。それが毎回、本部長より否定されていた。

だから店長会議後、反省会を開いて再検討、オシマイには懇親会に。それが懇親会だけが独立、単なる飲み会になって今でも2~3ヶ月に1回は集まっている。
前述の強盗(殺人)店長もメンバー、面白いのはメンバーの経歴がバラバラなこと。土方あがり、中卒、そして我々のような学卒と多種多様、年齢だけが似通っているか?しかし何故か気が合う。店長という同じ職位にいたことでお互いがお互いを尊重している。中卒の先輩にあたる人は大卒である人を大事にするし、大卒のメンバーは先輩の経験を尊重する。他人にはチョット理解できないグループかもしれない。勿論、激論もする。
今では全員リタイアーして共通の話題も無いはずだが、飲み会は続いている。大事にしなければならないグループではある。

強盗(殺害)事件

親しい先輩店長、かれは型破りな人間。
彼は自店に侵入した強盗犯を捕まえるどころか犯人の拳銃で殺害してしまった。大阪府警本部長から表彰状を貰った。

スーパーを狙うピストル強盗事件が頻発していたが、だれも自店にくるとは考えていない。

ある日、彼の店にその犯人が潜入した。スーパーに詳しい人間らしく、通用口から侵入し売上金を扱う庶務課へ入ってきた。女子社員の悲鳴を聞いて彼は庶務課へ、そこには拳銃(本物)を持った犯人がいたが、だれしも本物の拳銃だとは思わない。なんと彼は横にあったゴミ箱のプラスティック製の蓋を盾に犯人に立ち向かった。そこが彼のスゴイところ、迫力ある声で犯人を圧倒、犯人を庶務課から追い出し階段まで追いつめ、もみ合いに。もみ合いながら階段を転げ落ちた。まるで犯罪ドラマさながらだ。
そして犯人が発砲、彼は足のフクロハギに貫通銃創。そこからは彼の記憶もあいまいだが踊り場で拳銃を取上げようと格闘、その時犯人がまた発砲、その弾はなんと犯人のコメカミにあたり犯人は即死。事件は終結した。
ここで問題は犯人が右手に持った拳銃で左のコメカミを撃っている。
もみ合いの最中とは言えかなり無理のある体制だ。警察の捜査はそこでいきずまった。発砲したのは店長ではないかと? 
しかし府警本部長判断で民間人の犯人逮捕という快挙に敬意を表して不問に。そして表彰に。
府警本部長が表彰するのは年に1度あるかないかでまして民間人を表彰すると言うのは極めてマレなこと。
ダイエーのいはこんな店長もいた。

2011年11月24日木曜日

丑の日は

店の営業次長時代の話。
土用の丑の日、うなぎの厄日。
私は食品出身といっても一般食品という加工食品担当、味噌や醤油といった調味料やお菓子や珈琲・紅茶といった嗜好品の担当。魚屋のことは殆ど知らなかった。

土用の丑の日は年末と並ぶ鮮魚課の一大イベント。
そして鮮魚課にとってはどれだけ売るかが各店間の競争。一位になっても何も賞品はでないのだが、だれしも同じ売るなら社内一位になりたい。社内一位は恐らく日本一だからスゴイ称号になる。驚いたのがこの単位がトン(t)なのだ。

準備は数ヶ月前から始まっている。
当時の主流は白焼きの冷凍を店でタレをつけて再度焼きをいれる方法。だからかなり前から冷凍うなぎを発注しておかないと材料がそろわない。しかも当時は台湾製の輸入なのだ。
店では追加の焼き台を導入、冷凍庫は他の課のものまで借りて店内うなぎだらけ。タレの缶だけでもナマジじゃない。
そして半解凍にしておかないと当日間に合わない。これはかなりの経験が必要な仕事。全く知らない次長としては鮮魚課の主任に全権委任、かなりの無茶をするから責任をとるのが次長の仕事。第一、就業規則や店内規則違反。出勤は朝4時、朝食は持込み、全てがうなぎ中心に!

前日、深夜まで準備して次の日は鮮魚課の男子は4時出勤、直ぐに焼きにかかる。
店内が食欲をそそるうなぎの匂いで充満。解凍の担当、焼く人、冷ます人、パック担当、陳列する人それぞれが一所懸命。その姿は素晴らしい。一応、売場に陳列が完了するのが7時ころ。やっと朝食、まだだれも出勤していないから作業場でうなぎを丸かじり、慣れたものでみんな白メシしか持ってきていない。オカズは焼きたてのうなぎがあるからいらない。こんな時食べるメシが一番うまい!
それから焼き貯め用の焼きにかかる。10時の開店時には予想売れ数の殆どが作業終了、後は様子を見て追加への対応。

因みに同日の売上は上がらない。
何故なら他の食品、魚や肉が売れないから痛し痒しだ。まぁ、一大イベントだと考えないとやっていけない。

オリエンタル ゴルフ クラブ

バブルも終わりかけていた頃、Golf場を作るという話があった。
おかしい!ダイエーはGolfも麻雀も禁止の会社だったのに?
その前にパチンコ屋もやりだしていたが、それは買収した忠実屋の関連会社で継続させただけの話。社長がGolfするって話も聞いたことないし。
どこかは知らないが兵庫県でGolf場を開発していた会社がパンクしてその権利を売りにきたらしい。経緯はs知らないが、兵庫県ではもうこれ以上Golf場の開発許可を出さない最後のGolf場になるだろうと言う情報もあった。兵庫県には全国一のGolf場があるからだ。
そこで、Golf場経営に乗り出すことになった。 
当時、グループ企業のオリエンタル化が進んでいたので「オリエンタル ゴルフクラブ」と名づけられた。
某商社でGolfを専門的にしていた人材もスカウトして話は進んでいった。
オープンになったのはひょんなことから、用地買収にからむ買収資金横領事件が新聞ざたになってダイエーがゴルフ場をと話題になってしまった。大変なことになるかと思いきや、この事件自体はダイエーとは直接関係ない。用地買収を任せていた地元の有力者が本来地主に払うべき協力金(これは合法)を横領したもので、事件はその地元有力者が逮捕されて終了。
当時、Golf場を作るには約200億円かかると言われていた。
上手くいくとその200億円は会員権の販売で回収できる。つまり会員権さえ売れればタダでGolf場がもてるという算段だ。
しかし、造成費等の追加費用が意外とかかったようで前述の開発担当は開場半年前に突然解雇されてしまった。
そこでGolf場の後任責任者に白羽の矢があったのが本店の責任者である私の上司の常務。彼はGolf好きだがそれはプレイすること、元々が財務担当役員。しかし、場所が兵庫県と言うこともあり、本店責任者兼任で任命された。結果、またしても直接は関係ないのにGolf場のお手伝いをさせられるハメに!

まずは経営計画、詰まる所、会員権の販売計画がポイントになる。ここでダイエーの取引先を中心に販売する案が採用され、法人会員専門のGolf場となった。うまくやらないと公取の言う「優越的地位の乱用」になりかねない。また悪いことに福岡のドーム球場の特別室の権利を売りつけて幾らもたっていない。球場の特別室は素晴らしいものだったが高い部屋は3億円。因みにドーム球場の特別室販売(実際は賃貸)で総工費の半分をまかなったのだからスゴイ!全く優越的地位の乱用以外の何物でもない!
Golf会員権は球場特別室ほど高くはないが、数千万はする。
はたして売れるものか? 机上の計算だが3000万円×2名(法人記名式)=6000万円、それを500組売れば300億円。100億円も余る算段、その資金の運用まで考えていたというから「とらぬ狸の・・・」そのもの。
無理があるのは会員数が人数的に1000名になる。これはGolf場としてのキャパギリギリ。通常、1000名以上会員がいるGolf場は敬遠される、込み合ってプレイがゆっくり出来なくなるからだ。
だから表向きは300組・600名限定ということにして募集、実際には商品部を始め各部署にに依頼して押し売り。
神戸の関係先にも販売に行った。神戸の関係先は取引関係のないところが多いので義理で6000万円も出してくれる会社があるのか不安だったが、数組は売れた。売買禁止なのでそのまま資産計上は出来る。しかし6000万円も寝かすのは大変だ。最終的には総工費ギリギリの会員権は販売出来た。
そして次なる問題はその運営。
Golf場の運営なんて誰も知らない。社長(=常務)が先頭にたってネジリ鉢巻き。例によって少しはGolfを知っている私がキャディとか従業員のトレーニングを担当させられた。キャディは全員社員、若い女性を採用した。他のクラブのようなオバチャンキャディはいないのが売り。だからミッチリ教育しないと。私も殆ど入り浸りで現場指導にあたらせられた。お出迎え・受付・スタート・プレイ・レストランetc. まさかダイエーに入ってGolf場をさせられるとは!

プレオープンして実際の現場スタッフのトレーニングもしなければならない。
関係先・知人・友人まで動員して無料でモニタープレイしてもらった。この人集めも大変。大概の人は連絡すると「一緒にプレイしよう」という。それは良いが週に3ラウンドしたこともあり、フラフラ! 
なんだかんだでとにかくGolf場はオープンした。
オープンしてからの問題。
客が来ない。法人専用クラブでビジターは会員同行が決まり。各取引先(大手メーカー・商社etc.)に会員権を販売、記名式なので多くの会社はその会社の社長とか専務クラスが記名の会員。そしてそれらの会員は東京本社が多いので実際はプレイに来にくい。それが客が少ない大きな理由だった。

仕方がなく徐々に会員には内緒で規約を緩めて客を確保する方向に。
会員が知れば怒ってくるかも? 会員同行は有名無実、殆どパブリック状態に!
クレームはなかったが、クラブの雰囲気は最悪!営業の為シャーナイか?
なんやかんやでGolf場はオープン、半年後常務も社長の任を解かれたて、私もフリーに。
オモロイ経験ではあった。

2011年11月23日水曜日

国会議員選挙

神戸のことは何でも対応するのが本店の存在価値。
しかしまさか選挙にまで首を突っ込むとは思わなかった。
ある年の国会議員選挙、ある官僚OBが神戸の選挙区から出馬するので支援することになった。自民党の某超大物からの依頼で社長も断り切れなかったようである。
(後に刑事事件となるので注意して記述する。)
でも結論から言うと「ヒドイ」ものだった。
選挙は地盤・看板・金庫番とか言うがこの候補者は何もナイ。元某省庁の局長さんというだけ。ある意味の天下りだ。落下傘候補そのもの。
地盤は高校時代に神戸にいたということのみ。看板は局長といっても無名。金庫に至っては全くゼロ!
そして人物だが、これも風采の上がらないショボイおっさん。
ホンマに高級官僚か? こんなんが国会議員になるなんてやってられん!
信じられない話二つ。風采以前に服装がヨレヨレのスーツ、ネクタイも安物で見られない。最初にしたことがスーツの新調だったのには唖然とする。また初めて本店に彼が挨拶に来た時、握手を求められた本店の女子社員が手を引込めかけたとか!(仕事と思ってイヤイヤ握手したらしいが)

選挙の組織・体制作りが始まった。
本社から責任者が任命され神戸に着任。最終的に彼が警察に逮捕されるという可哀そうな目にあう。
取りあえずは今までに培った神戸でのダイエーの地盤を使って後援会つくり、それは比較的簡単だったが、会合で彼に時下に会うと、蔭では「アレで大丈夫か?」と言われたりもした。

選挙が始まった。選挙は公職選挙法という法律で縛られているが同法の細かいところまではしらない。危険極まりない話だ。ギリギリの線まではお目こぼしがあるらしいが、結果的には警察にお世話になった。
警察も全候補者を取り締まるのではなく、方針を決めて重点捜査をするらしい。
その捜査候補に上がっているとは誰も知らなかった。後から考えると、ダイエーが後援しているらしい候補者で選挙違反で挙げるには格好のターゲットだったのだ。一罰百戒!

その手法が巧妙、選挙事務所近くに張り込みの警官がいつもいた。また事務所で働くパートの女性を脅して(逮捕するかも?)情報提供者にしたて、夜中にゴミを回収して捨てた書類から弁当の中身まで調べていたらしい。だから事務所内の情報はバレバレ!最終的には選挙責任者が逮捕されるハメになった。

彼が偉かった(?)のは何も喋らなかったこと。
つまりは会社に捜査の手が伸びることはなかった。次々と容疑を重ねられ2ヶ月余り留置場暮らし、我々も辛かった。二度と選挙支援なんてゴメンだ!
しかし最終結果は民主主義の勝利。
いかに高級官僚といってもショボイおっさんでは当選しないのだ!

その後のダイエー

1996年2月、阪神淡路大震災1年後26年余り勤めたダイエーを辞めた。
辞めさせられた型ではあるが、会社に対して何の感情もない。そしてその後のダイエーについても何の関心もない。ダイエー時代の話は過去のことになりきっている。

その後ダイエーは震災でガタガタになったと言うかメッキが剥げた型で倒産した。
正確には中内 功氏が作ったダイエーグループという巨大な個人商店は崩壊した。

実際には会社再生法を申請し減資して存続している。
今も店舗はダイエーの名前で営業しているが、個人的にはアレはダイエーではないと思っている。

その後いろいろと批判はあるが、個人的に私は中内社長の作った個人商店の従業員であったことを誇りにさえ思っている。 
実力もないのに大きな仕事をさせて頂き、オモロイ人生であったと感謝さえしている。しかもかなりの高給で! 批判する人に言いたい「その批判、在任中に何故しなかったの?」と。 

ダイエーが亡くなったのは震災後の金融危機の為と思っている。 
金融再編のアオリで借金が多すぎるという理由で潰された。今まで一度も返済が届こうったことも担保不足もなかったのに。
小泉・竹中に潰された。

ダイエーの財務の大方針はメインバンクを作らず数行並列に扱っていたこと。
銀行に口出しさせない経営方針を貫いていた。思いもかけずそれが取引銀行の合併で崩れた。つまりはメインの東海銀行と三和銀行が合併してUFJ銀行になり、融資のバランスが崩れたのだ。合併した銀行のダイエー取引額が異常に大きくなり、しかも不良債権扱いされたから。

そしてグループといった中途半端な概念も邪魔になった。
法的には企業グループの概念はない。資本構成何%以上がグループなのか? 連結対象がグループ会社なのか?
ダイエーでは中内社長に関連した企業をグループと呼んでいたので特にややこしい。しかもそれを知ってか知らずか銀行もその中内商店に融資していた。全くダイエーと資本関係のない中内社長が作った個人会社もグループ扱いしていた。それを合わせると借金は膨大な額になる。
顕著な例がホークス関連の事業。球団・球場・ホテル等で1500億位の融資を受けていたが、アレは実は個人企業。中内社長の次男が社長を務める会社。そして30年融資でも恐らく融資返済には?がつく。貸す時にわかっていて貸したのに急に返せという。銀行の身勝手、実際は黄色信号のついた融資だからだ。

そんなこんなで痛いところを突かれて中内社長は辞任しグループは分解。ダイエーは再生機構入りして減資して再出発。
そしてそれまでに強烈なリストラがあった。
グループ企業の売却・退職勧奨(指名解雇)給料カット(最終的に50%減)去るも地獄、残るも地獄の状況。
しかし一般論としては会社がリストラになっても絶対に辞めるべきではなく会社にシガミツクのがBestだと思う。
個人的にあと1~2年いて辞めれば退職金の増額等があったが、再就職先が即見つかり待遇が全く同じというのは全くラッキーだったと言える。
かくして中内氏が一代で築いたスーパー王国は崩壊した。
しかし、プライドを持って言える。
我々が日本の高度成長を支えたのだと。

2011年11月22日火曜日

昔のダイエーの現場 ②

地区長のスタッフをしていた80年代のこと。
コントローラーという地区の計数管理担当をしていた。
地区長には2名のスタッフ、営業スタッフとコントローラーがついた。他に商品部所属の売場作りを指導するスーパーバイザー(SV)が部門別に地区にはいた。営業スタッフはいわゆるチラシ制作や催事・集客イベント企画等の販促を担当していた。

そして私のようなコントローラーは地区長に売上・経費・利益を管理するための計数担当ということになっていたが、決まった業務は特になく地区別にしていることはバラバラ、地区長次第だった。
上司である私の地区長は私に何も指示しなかった(出来なかった?)ので自分で仕事をすることが出来て自由だった。上司の地区長は創業期からのベテラン店長経験者、下世話に言えば「コマシな店長のお古」だった。技術も学歴も無く経験だけで仕事をしていた。会社はどんどんシステマライズされていく。横文字も多い。彼らにはそれについていく能力もやる気もなかった。 本部からのチョットややこしい指示文書は翻訳してあげないと解らない。そんなこともコントローラーの仕事だった。
地区長は担当地区の店舗を巡回し店舗指導するのが仕事だと思われていたが本部は将来的に店・地区の利益管理をさせようとしていた。売上至上主義から利益重視主義への転換、しかし彼らにはドダイ無理な話。売上を上げれば何とかなるといった経験主義。店巡回して売り場に売れ筋が並んでいるか否かをチェックするくらいしか出来ない。後は店長の愚痴を聞くくらいか?
そんなある日、地区長が店巡回に同行しろと言う。
つまりは車通勤していた私に車で店へ連れて行けというコト。そこに何故か隣の地区の地区長もついてきた。3名で店へ向かう、店の近くになるとある駐車場へ車を入れさせられた。そこはパチンコ屋の駐車場、理由はそこなら駐車料金がパチンコをすれば無料だから。だからか「チョット寄って行こう」という。なんとパチンコ屋で1時間くらい遊んだ。午前中はそれで潰れてしまった。でも上司の指示だからシャーナイ??? 
そして食事をしてやっと店へ。適当に店長と面談、売場にも行かない。これが仕事か???
勿論このようなことばかりではなかったが、酷いものだったことは事実。
これで売上1兆円達成! 
古き良き時代ではあった。

2011年11月21日月曜日

昔のダイエーの現場 ①

今から思えばアンナンでよくやっていたと思う。
時代は遡り70年代、私がダイエーの売場主任をしていた頃の話。
高度成長で行け行けドンドンの時代。今では信じられないが極端な人手不足。
学歴はないし、手に技術もない、たいした経験もないが「ダイエーやったら採ってくれるかも?」って言う感じの人が多く採用されていた。そして終身雇用が当たり前で、一度採用したらクビには出来ない。

部下で一番酷かったのは計算が出来ない人がいた。当時は伝票が手書きで返品する場合は自分で書かないといけないがこれが出来ない。これには参った!そこまではいかないまでも、よくサボル奴、直ぐに女の子に手をだすヤツ、女子社員も男ばかり追いかけている娘etc.色々いた。
そんな中で仕事をしなければならない。

究極の改善策がある。他店へ転勤させるのだ。
まずは人事に「彼は優秀だ」と常に売り込んでおき、欠員の情報があると推薦し異動させる。新店が出来る時などがチャンス。結果的に新店は不要人材のハキダメのようになったりしていた。自店第一、他店のことなどお構いなし。そうして少しでも出来る人材を集めて仕事をしたものだ。

私の入社したのが71年、創業が63年だからまだ8年の若い企業。
少しコマシだと即昇進できた。当時の店長クラスはそんな人が多い。どこかに欠点をもっている。関心するのはそんな人材を上手く使っていた中内社長、人使いの巧さは天下一品だ。中堅以上の管理職は「社長はオレのことを・・・」と思っている。忠誠心は強い。これで当時、三越を抜いて流通業日本一になったのだからスゴイの一語に尽きる。
古き良き時代ではあった。

2011年11月18日金曜日

福岡ダイエーホークス

少しダイエー時代にPlay backする。
福岡プロジェクトの当事者ではないが、中途半端な立場で首を突っ込むことになっていた。
しかし福岡のプロジェクトが具体的に何であるかは知らなかった。
当時の福岡市長が神戸の本店に何度か来られた。大量の福岡銘菓「ひよこ」をお土産に。ちなみに1箱60個入りを最低3箱は持って来られた。1箱は社長に後は女子社員にと気のきいた市長さんだった。でも10人で120個は多すぎる。
社長との面談場所としては本店事務所の社長室は一番よい。
まず人の出入りが少ない。神戸市の貸しビルの1フロアなので不特定多数が出入りするので誰が来たかが判らない。マスコミもノーマーク。

福岡市長は野球チームの誘致と福岡市が開発した埋立地に球場を中心とした施設を誘致しようと必死だったのだ。
福岡市民は西鉄が福岡を去って以来、球団を切望していた。これには全ての政党も一致団結していたようで、その後の市議会での決議をみてもわかる。(因みに当時の市長は社会党市長だった。)

そして中内社長自身も球団を持ちたがっていた。
Tigersファンだと言われていたがそれは疑問? 野球もあまり知らない。
アメリカの名を遂げた人は球団オーナーをしているというので自分もが本音か? ちなみに当時の球界の大物、巨人の渡辺氏・西武の堤氏とは親交があり、いずれはといった話は進んでいたようだ。
とに角、福岡のプロジェクトは進んでいた。
そこへ南海ホークスの身売り話が三和銀行から飛び込んできた。そして即食いついた。そして球団の責任者に前の本店責任者のU氏が指名された。以来、U氏は本店の仕事はそっちのけ、またスタッフが決まるまで私に部下ということで手伝わされたのだ。そのことは後のちプラスにはなったが。つまりは球団の神戸での窓口業務。捌きの仕事。

「ダイエーが球団を」のニュースが流れると関係者のダイエー詣でが始まった。
福岡の話はシークレットなので、神戸市は是非本拠地を神戸にと言って来るし、アシックスや美津濃は是非ユニホームや用具をと言って来る。何も決まっていないとお断りするのも大変だった。
ダイエー球団の後援会まで神戸に出来る始末。
結果的には福岡へ。福岡の巨大プロジェクトが発表されて又大変。
今度は神戸のダイエーが何故福岡なのかといったクレーム。福岡市との密約がまだ公表されておらずこの問題は裁きかねた。
そのうち福岡市議会は全会一致で誘致賛成を決議。それには球場用地の売却(価格も含めて)決議も入っていた。大手を振って福岡へ行ける。
そうして福岡ダイエーホークスが生まれた。
ダイエーにとって球団経営は二の次、開発用地の合法的安値取得が目的であったように思う。

2011年11月17日木曜日

株式会社 イチケン

株式会社 イチケン。
ダイエーグループのゼネコン。東証一部上場企業。売上高1000億円超。従業員1000名。本社は神戸。
昔は第一建設工業といった大阪の住宅建設がメインの会社、ダイエーが買収してグループの建設(主に内装)を担当する会社にし、通称のイチケンを社名に変えた。

ダイエーの店舗建設には必ずと言っていいほど入っている。大手ゼネコンが店舗を作って内装はイチケンというスタイルと店舗の改装工事がメイン。だからダイエーが元気な限り業績は安定、配当もキッチリしている。
通常、社長はダイエーからでていたが、震災後からダイエー社長の娘婿のA氏が社長に! 

業績は安定していたし落下傘社長だからそれなりにしていれば十分であったハズ。しかし彼は自前のスタッフを社外から呼んで取り巻きを作くろうとしていた。私の立場は表向きA社長が採用した彼のスタッフ。しかし、見方にもよるが、中内社長に近い神戸のTさんが推薦した私は彼の行動をチェックしオヤジさんに報告(したことはないが)する「隠密」(?)かも、それをウススウ気づいているA社長は私を完全には信じない。なのに一般社員から私はA社長の隠密と思われても仕方がない。なんと微妙な関係。

案の定、普段は東京にいる社長は「神戸の状況を報告しろ」との指示。
神戸の状況とは疑心暗鬼な彼が好まない役員や管理職に不正がないかのこと。業者との癒着、横領等を調べて欲しいらしいが、中々難しい仕事。
まぁ適当にやるかというスタンス。
普段は決まった仕事がないので営業のお手伝い。
そうすることによって色々な情報を入手したし注文もとった。在籍6年で20億の受注はマズマズの成績だ。 それよりこの営業活動は社内情報収集に役立った。
ビックリしたのは交際費。ダイエーは超ドケチな会社で一般的に交際費はない。その感覚で見ていて驚いた。イチケンでは今年入った新入社員が10万円も仮払いしていく。聞くとお客さんの接待だという。それも真実は解らない。社員同士で飲みに行ってもだれもチェックしない。皆がそうしているので上司もチェックしない。それで儲かっているのだからエー会社や!一般的に交際費とはそうしたものか! 特にゼネコンはハデなのだ。

ちなみに、私の交際費の予算はいくらかと聞いてびっくり、予算はナイという。突き詰めてやっとわかった。組織上所属が社長と同じになっているので社長に交際費予算がないように私にもナイという。
つまりは青天井なのだ。内緒だが、請求書を回すと幾らでもOKだった。1本20万円もするワインをあける社長と同じなのだから多少の交際費はOKなのだ。これはラッキー!調子に乗って給料以上の交際費を使ってしまった月もあったしタクシーチケットも1冊単位で貰えるので乗り放題。飲みすぎて午前様もOK。立場上、出勤時間もエー加減なので、午前様の翌朝は昼ごろ出勤したりもした。
人間、このようになってはダメ人間になる。それ以上に身体がもたない。そこに気づいた時には遅かった。

2011年11月16日水曜日

再就職

  ダイエーを退職して再就職先も決まらずにいたのに何故か焦りはなったように思う。約2カ月の有給休暇中、家内と美術館巡りや近くの思いでの地探索や毎 日のように出かけていた。
ここで又、例の神戸のTさんの世話になる。
彼から連絡があり、仲間で送別会をしてやるという。
ありがたい話だ。当日は神戸JCのOBというか神戸ロータリークラブのメンバーが40~50名も集まって頂きおいしい中華を御馳走になった。それよりも嬉しかったのはその日の参加者が最就職先を探してやるという。これ以上の力強い応援はなかった。挨拶で「これからも神戸で神戸の為に働く」と宣言してしまった。

と言って特に就職活動もせず数日が過ぎた頃、Tさんから電話。
「メシ食おう」といつもの調子。久々に神戸へ。
突然「イチケンの社長が欲しがっているからイチケンへ行け」という。イチケンのA社長はダイエー社長の娘婿で去年ダイエーグループの建設会社イチケンの社長になったばかりの人。一族というだけの落下傘社長であり、気心の知れた部下もいないから自前のスタッフを欲しがっているとか。A社長のことは顔と名前を知っている程度。考える余地もなく「このことは中内さんにも話してある。エーなぁと言ってはった」とウソみたいな話。 
で、断れない状況だし、断る理由もない。
勤務地は神戸で待遇はダイエー時代と同じにするという。よく考えると願ってもない話だ。しかし、即答はさけその日は別れる。
1週間後、また電話。
A社長が神戸に来るので会いたいと言っているという。かれが仕組んだこととは知りながら出かける。世間話をしながら昼食。なかなか本題に入らない。A社長としては判断しかねている模様、Tさんが最後に「それでいつから行ってもらおう?」と言うと「担当者から連絡させる」と煮え切らないがもう採用が決まったような感じ。こんなんでエーんかいな?
しかし連絡を待ったがなかなか連絡はない。
有給休暇も終わりかけの2月になって痺れを切らせて電話。「では来週から来て下さい」と担当者。なんとなく頼りない。
今思うに、今回のことはTさんがかなりごり押しした模様。
でもラッキー、待遇は同じで再就職出来た。しかも全く知らない会社ではない。本社は神戸だし、ダイエーからの出向者も多い。建設業界のことを知らないだけで再就職って感じはしなかった。

問題はA社長とのこと。
ハッキリ言ってあまり好きになれないタイプ。彼は典型的なオボッチャマ。なのに自分はエライと思っている。的外れな指示も多い。 しかも困ったことに親(義父)の七光りで社長にして貰っているのにその謙虚さがない。
Tさんの話ではそんな社長を立派な社長に育てろと言う。真剣に考えるとエライ会社に入ったものだ! しかし、日常の業務は何もナイ。ヒマなのもツライ。営業活動でもするか!

2011年11月15日火曜日

阪神淡路大震災 ③

震災のことはいくら書いても書き足らない。
この項で取りあえずはオシマイにしたい。

この震災の被害は臨時出費レベルで165万円、どこからも何の援助も無かった。(行政からの援助均は所得制限があり、当時はかなりの給料だったのが災いして支援はゼロ)
家の補修(室内の壁紙の補修がメイン、電気関係etc.)に85万円、塀の建て替えに80万円(一部は隣家と折半)で計165万円。
ほとんどが割れた陶器類・食器類の破損は含んでいない。実際には震災後購入した食器類はなく殆どが貰いものですませたからだ。10数年たった今でもその貰いものを使っている。
で、被害は最小レベル。しかし、その後最大の被害がやってくるとは信じられなかった。
勤めていたダイエーは全国チェーンとはいえやはり関西、特に阪神間に店舗が多く、被害は甚大。コンピュータセンター、流通センターも被害を受け震災の損害は500億円と会社は創業以来の大赤字。
そこでいわゆるリストラが始まった。
当時は今のようにリストラ=人員削減ではなく、関連会社を含めて事業を見直すという本当にリストラクチャリングが行われた。結果は同じだが、本体の社員を重点的に関連会社に出向させるということになった。
個人的には前述のKLWが成功していれば将来的にKLWへ出向してもよい、というより出向したいと思っていた。ところが震災で方向は大きく変わった。でも50歳直前、神戸の本店に来て10年あまり、もうそろそろ関連会社へ出向してもよいころかと思っていたし、そのような意志も漏らしていた。
管理職の10%を関連会社へ出向させるとの会社の方針が決まり、私にも出向の内示があった。ところがある関連会社の東京の本社だという。50ツラ下げていまさら東京はナイと、とっさに拒絶。同社には大阪支社もあるので出向はするが大阪にして欲しいと調整したが、管理職は東京と言われ不調。なぜか東京は、単身赴任は絶対にイヤだった。
で即「それなら退職する」と申入れ、スッタモンダしたが、退職は自由。退職願いを書いて提出。
その後、慰留すべく色々と動きはあったが全てお断りした。
実は退職については家内との相談もなく、再就職先の目途もなかった。でも家内は「アナタが好きなようにしたらいい。でも食べさせてね」と一言。
実際、再就職にアテはなかった。有給休暇60日のうちに何とかなるだろうとタカをくくっていた。
震災の最大の被害は会社をクビになったこと。
実際にはリストラではなく自己都合の退職。リストラなら退職金の割増等もなく1年後に始まった早期退職制度とは大違い。
その後のコトを考えればヨシとするか!

2011年11月14日月曜日

「言葉」の使い方

言葉は進化(?)すると考えている。
だからと言って乱れた言語を許容するものではないが、言葉が独り歩きするのは止められない。
NHKの「言葉のおじさん」のファン、彼も使い方の誤りを否定はしない。否定しても大衆の流れに対抗は出来ないからだ。同感!

時には全く逆な使い方になっているものもあり笑うよりほかない。
「凄い」は「スゴイ」になって「非常に」という意味になっている。本来「凄い」は「凄く怖いオバケ」と良くない意味で「スゴイカワイイ娘」と良い意味には使わない。スゴクカワイイって口がどこまで裂けているの?って聞きたくなる。
「御曹司」って昔は「部屋住み」つまり次男以下の食い扶持のない者のさげすんだ言葉のはず。曹司は台所の意味。それが「大企業の御曹司」なんてTVで言っている。本当は跡継ぎ「御嫡子」、御曹司なんて言われると怒らなければ!
以前、勤めていたダイエーは、というかチェーンストアという業界は言葉の使い方がシビアだった。用語集というのもあって覚えたものだ。
入社当時の70年代から今はよく使われるようになった「コンセプト」「ニーズ」「アイテム」etc.等の言葉は定義を決めて厳密に使い別けていた。
コジツケの社内用語もあった新規に店を開店することは「オープン」改装も「改装オープン」で毎日朝10時に店を開けるのは「開店」このように別けると話がスムースに進むのも事実。

「Needs」の反対後に「Wants」というのがあるが、今ニーズと言っているのはウオンツの意味だと思う。
社内ではニーズとウオンツを間違えると叱られたものだが! 
Wantsはお客さまが今欲しいと思っておられるコト(もの)、今はやりの保温性が高く薄い下着はウオンツ商品、下着という範疇の素材を変えただけでありこれはお客さまの保温性と薄さというウオンツには答えてもニーズに答えたことにはならない。
Needsはお客様が今は欲しいとは思っていなくてもこのようなモノがあればよいなぁと思われているコト(もの)。例えば塗るだけで温かい保温性のある化粧品とかタケコプターetc.
だからお客さまのWantsは捉えられても、Needsはよく考えないと解らない。
お客さまのNeedsを捉えるのは難しい。
言葉の使い方の進化(?)にはニガムシを潰している。

2011年11月12日土曜日

阪神淡路大震災 ②

 当時自宅は宝塚市にあった。
震災の殆ど東の端、家内の実家のある箕面市などは殆ど被害無し、聞くと棚の上の花瓶が落ちて割れたとか、そんなん被害言わへん!  

 報道は神戸に集中し宝塚などは殆ど報道されなかったが、実際は100名以上のの方が亡くなられる大災害。全壊・半壊家屋も多数でた。実際、我が家の周辺でも殆ど半壊状態、皆さん近くの小学校へ避難されていた。我が家だけがシャンと建っているのが悪いみたい。ブロック塀だけが根元からグラグラ、そのままでは危険なので無理やり壊す。怖かったのは隣家の屋根から瓦が落ちてくること。建物のそばには行けない。

  ガレージの車が引きずられてタイヤ跡が30cm位残っている。
幸いにもブロック塀の2~3cmのところでギリギリ止まって車は無傷。ラッキーだ!後に京大の地震調査があってこのタイヤ痕をみて震度7の判定があったほど。
震災から4日目、やっと落着いたので出勤。
先にも書いたが交通手段はバイク。電車・バスは依然ストップ、道は瓦礫で一杯なので車は無理、バイクしかナイ。とは言え移動に過酷な状況には変わりない。バイクが通れる裏道を探し探し行く。だから神戸まで2~3時間かかった。しかも激寒、でも気が張っていて寒さもあまり感じなかった。
ダイエーとしては会社をあげて商品供給に全力を集中。
全国から商品を配送し倒壊を免れた店舗やその店頭で食料品を中心に生活必需品を販売していた。総力をあげて震災対応と言えばカッコ良いが、売上第一。従って本店事務所はほったらかし、恐らく各種問合せが入っているハズ、サービス的にはお客様への情報センターの役割が重要だと思って本店の復旧を提案したが、当時は販売最優先とのことで却下された。

仕方がなく、店舗で販売応援。
取引先からタンクローリーで水が来るというのでそれを手伝った。当初はその水を神戸市に供給してもらうハズだだったが、市は殺菌消毒していない水は供給出来ないという。なんと言うお役主的発想!実はその水は「サントリーの○○の水」のブランドで販売している名水。それでは独自に供給しようと店で配りだした。なにせ25トンのタンクローリー、10数センチの口しかなくそこからお客様の容器に配るのはかなり無理がありズブヌレ、寒い・冷たいでよく風邪をひかなかったものだ。

1週間くらいたって一段落したので、指示を無視してポートアイランドにある本店へ。
ポーアイは埋立地なので液状化が激しい。雨が降ればドロだらけ、乾くと砂嵐状態。そして全てが隆起している。見た目は隆起だが実際は1mの陥没。建物にはクイが打ってあり固定、周りの地面から隆起したように見えるが実際は地面が凹んでいるのだ。実験をするとよくわかる。コップに土と水を入れよく振ってみると水が上に浮いてくる。比較的大きな土砂は重さで沈み込み、細かい砂だけが泥水として残る。見た目は隆起だ。この光景も非常に異様なものだった。それに晴れて地面が乾くと砂埃がヒドイ。非常に細かい砂が建物の中にまで入ってくる。
驚いたことに本社のあるビルの正面玄関の階段が目の高さにある。足をかけて這いあがらないとビルには入れない。それだけ隆起、いや地面が陥没している。
やっと事務所にたどりつく、予想はしていたがガチャガチャ。
ドアが開かない。電話交換機が吹っ飛んで唸っている。着信のランプも付きっぱなし。引っ繰り返ったデスクやロッカーは何とかなるが、交換機は配線が複雑で素人では復旧は無理だ。配線を一つづつチェックしながら繋いでみる。2日がかりで何とか復旧。その途端、電話が鳴りっぱなし。一人では対応できない。翌日から店勤務していた担当者を呼び戻す。常務とあと一人は対策本部詰め、後は本店対応。
業務的には良かったが、環境が劣悪。第一事務所のある9Fまでは階段しかない。電気は通っているが水が出ない。トイレも使えない。交通手段もナイ。食事もままならない。飲料水は各自持参。
そんな中、女子社員も頑張ってくれた。ひっきりなしに電話はなる。ありとあらゆる問合せに対応。と言っても電話を担当部署へ振るのが主な作業、これが朝から晩まで続く。前述の砂の被害もヒドイ、日に何回も掃除をしないとそこいら中がザラザラになる。昼食も買い出しにいかないといけない。辛い日々が続いたが皆頑張ってくれた。

1週間くらいたつと全国各地からの支援・ボランティアが続々と届き、依然交通はストップ、道路は極端な渋滞はしているが、街は妙な活気にあふれていた。どこへ行っても「腹へっていないか?」と食料をくれる。街を歩いていてもパンやオニギリを配っている。この支援体制は嬉しかった。
<続く>

2011年11月11日金曜日

阪神淡路大震災 ①


 平成7年1月17日早朝5時46分あの忌わしい阪神淡路大震災が発生した。
 その朝、私は自宅2階で就寝中だった。
激しい揺れに眼が覚めて地震だと気づいてからも未だ揺れは続くのでこの世も終わりかと思った。
 普通は「アッ地震だ」で地震は収まる。
しかしこの地震は眼が覚めてベッドの上で地震だと思ってから横にいる家内とどうしようと会話があった位長く揺れた。家が揺れる音と何かゴーッと異様な音がしていた。数分も揺れていたように感じたが実際は1分位だった。 
 やっと揺れがおさまり、階下の息子たちに声をかけたら大丈夫との返事、家族は全員無事なようだ。落着いて部屋の中を見るとグチャグチャに物が床に散乱、歩くにも歩けないほど。第一足の裏が痛い。ガラス片が散乱していた。靴を探して皆に靴を履かせた。窓から外を見るとそこいらの家が壊れている。明け方の空が異様な色をしていた。しかも物音がしない。すべてがストップしている。電車も車も動いていないのだ。何という静寂、地獄とはこんなものか?とも思った。 家の中を見回ると建物には大きな被害はないものの色々と物が散乱している。特に食器類・ガラスものが割れて床一面に散らばり歩けない。とりあえず居場所を確保し、家族で対応を話し合う。
 一段落して常務に電話(当初は携帯が繋がった)例のKLW問題決定の重要な会合が夕刻市役所である。この状態では行けるかどうかわからない。「宝塚はヒドイ地震」と報告したのを覚えている。停電中でTVも映らず、周りの状況しかわからないのでまさか神戸があんなに酷いことになっているとは知らなかった。
 とにかく家の中を整理しないといけない。
その時、咄嗟に湯船を一杯にした。水道は辛うじてまだ出ていたので、目いっぱい風呂を一杯にしておいた。因みに水道はそのあと直ぐに止まってしまった。この水が後々非常に役立った。
そして全員クツを履いて家の中を掃除、ユックリ見ると電灯は線が根元から千切れているし、あの重いテレビが吹っ飛んでいる。ラッキーだったのは3年前に家をプレハブに建替えていたこと、壁にキレツは走っているがよく見ると壁紙が破れているだけ、鉄骨構造なので枠組はシッカリしている。ただ、ドア類は金具ごと外れていたり壊れていた。引き戸は外れて素っ飛んで角が壁に刺さっている。電機・ガス・水道・電話といったいわゆるインフラは全てNG。食器という食器は粉々に。そして外壁がボロボロに痛んでいた。ブロック塀がグラグラする。しかし倒れてはいない。ちゃんと中に鉄骨が入っている証拠。隣家の塀は完全に崩壊、道をふさいでいる。工事がずさんなのだ。
 家の中の整理が何とか一段落したので、ゴミを出そうと表へ出てビックリ、近所の方々は家の外へ出て呆然とされている。殆どの家が半壊状態なのだ。怖くて家の中に入れないらしい。時折、瓦が滑って落ちてくる。まだ余震も続いている。考えてみると我が家だけが3年前に建替えているが、他の家は昔(20年以上前)ほぼ同時に建ったのにそのままなのだ。我家だけ外観は何事もなく建っているのが悪いみたい。西隣の家は2階から全部壁が落ちて中が見える状況、向かいの家は1階と2階が「くの字」に曲がっている。町内全滅だ。ペチャンコに潰れている家はないが殆どの家が歪んでいる。入れたものじゃない。
 昼前に停電だけは解消された。
TVを見てビックリ、神戸が燃えている。死者2000人とかの報道。エライことになっている。でも身動き取れない。第一交通手段が全てストップ。車で行こうにも道路が瓦礫で通れない。連絡を取ろうにも電話は不通、携帯も繋がらず万事休す。常務には2,3日休むとは伝えてあったがそれっきりだった。当日は家の中を整理・掃除するだけで終わった。当座の食べ物・飲み物は何とかある。未だ正月の残り物があった。一番助かったのはモチがあったことだ。水道とガスだけは不通だが電気は通ったので何とか生活は出来る。余震は続く、その夜は家族抱き合って毛布に包り寝た。
本当に家を建替えて正解だった。ご近所は避難場所の近くの小学校に移っていかれたので、ゴーストタウンに我家と家族だけが残った状態で何か不安もあった。音がしないのは何か恐ろしかった。
 震災4日目、やっと出勤した。交通手段がないのでバイクで神戸まで移動、直線距離は30kmだが道路が寸断されているので六甲の山越え5060km走らないといけないし、第一1月下旬だから非常に寒い、着込んだ上にアノラック・ベンチコート、マフラーに帽子、見られた格好じゃない。バイクは何度もパンクした。路面がガタガタの上に色々な物が落ちていて踏むと直にパンクする。通勤に片道2時間位かかっていた。目に焼き付いているのは道路上に並べられた毛布に包まれた遺体。3体、4体と並べて安置してある。夜間になると灯された蝋燭が異様!
<続く>














2011年11月10日木曜日

レジャーワールド構想   


 神戸にレジャー施設を作ろうという企画が1985年頃に持ち上がった。

 重厚長大と言われた工業中心の時代が終わり、これからは軽薄短小の時代、ソフトの時代と言われかけた頃、神戸の基幹産業であった製鉄業が終焉を迎えようとしていた。川崎製鉄の工場閉鎖、神戸製鋼所の高炉縮小があり、具体的には海岸の工業地帯がポッカリと空いてしまうことになった。神戸市として基幹産業の縮小は人口の縮小に繋がり、ひいては街の衰退に繋がる大問題だ。

 そこで提案されたのが新しい産業としての「レジャーワールド構想」、東京ディズニーランドの成功により全国各地にいわゆるテーマパークが多数建設されかけていたので神戸でも集客施設として作ろうという気運が盛り上りかけていた。

 最初は神戸商工会議所が中心となって研究会ができ、関係各社の共同出資で企画開発会社に移行して研究企画が進んでいた。
神戸レジャーワールド開発㈱(略:KLW)がそれだ。 神戸の主要企業が出資し社員も出したが、どこもメインのスポンサーになろうとはしない。事業への不安と未経験が先に立ち、最終的には1000億単位の膨大な投資がネックになった。TDLの場合、広大な敷地がありTDL周辺土地を売却することで開発費がねん出できた経緯があるが、こちらはゼロからの出発、何千億という投資をする企業はなかった。

 紆余曲折があり神戸市が開発したポートアイランド二期工事の用地に建設するという事業計画案も完成、模型まで作られていたのに頓挫した。(このあたりの経緯の記憶がアイマイになっているが)
結論から言うと当社の対応が事実上この計画を頓挫させたのは事実。商工会議所の次期会頭問題との絡みで、KLW企画会社に参加していたが出資は残したものの同社役員は退任、社員も引き上げた。

 当時のKLW最大の問題は神戸市が用地提供をスンナリOKしないこと、勿論埋立地の用途変更申請が必要で国との厄介な問題はあったが、主たる問題は事業の成功性、だれもが未経験ゾーン、そんな中一番理解があるとされていた当社が事実上の撤退したのだからお先真っ暗になった。KLWの会社は休眠状態になり一時レジャーワールド構想は完全に頓挫した。財界・神戸市の関係もギクシャクしかけた。

 KLWの会社が頓挫して直ぐに今度は神戸市が中心となって計画を進めるという。その為の協議会を作るので入って欲しいとの依頼があった。しかも型としては非公開、市が主導権をとるが民間の協議会に行政も参加する型をとる。従って、経費も会員企業の均等負担、協議会の会費という型で集めて全ての運営費にあてる。だから会費というには余りにも高すぎる会費。コンサル会社のコンサル料も入っているらしく、何か神戸市にハメラレタ感じ。どうして市がやる気になったのかも不明。参加企業はKLW会社の中心メンバーにイコールで、これもおかしな話、正規会員は各社のNo2(企業として決断出来る人)ということになり、実務はワーキンググループ(WG)を作り、各企業からの参加、市職員、コンサル会社で進めるということになった。WGには私が入った、WGは隔週に開催されたので割と忙しい作業ではあった。KLWの作った企画を尊重というかそれしかないのでそれをベースに主には事業計画の収支試算の検討から入った。要は事業を進めていくについての損益・継続性がポイントだった。TDLと異なるのは関東と関西のマーケットの差、ディズニーという世界ブランドとノーブランド、資金の無さ等々、問題点を挙げると成功は覚束ない。
 ただ、ポーアイにテーマパークを作るという結論は決まっていたようにも思う。行政として神戸市が入りやすくする為のストーリー作りであり、国との調整(埋立地の用途変更)へのバックアップのようなものにも思えた。企画がまとまりプロジェクトは最終段階に、要は実行レベルでの参加、出資と債務保証、最後の踏み絵みたいなものだ。ここは神戸市の根回しは巧妙で不参加のメンバーはなかった。ただ、出資、債務保証で渋る企業が多かった。金額が大きすぎる。1社当たり計250億円、参加8社で2000億円、今までにない金額だ。 
 どこかが先頭を切れば話は早い、そんな意思はなかったのだが、当社の決済の速さで社長のOKを即とって市の事務局へ参加する旨報告、これがひき水となり全社参加へ。

 
 この間の動きで当社に対するシンパシーがハッキリした。
各社にインフォーマルに調整していくと・・・。某製鉄会社や重工業会社、総合商社の当社寄りはそのように明言する会社があるほど明確になった。元々当社サイドにあった食品会社を入れると過半数の企業が当社シンパとなった。「ダイエーさんの後をついて行くのが当社の方針です」と言い切る企業まで現れた。
 個人的なことを言えば、これで確実な出向先が確保されたようなもの、定年してからKLWの部長くらいにはなれるかも? 何か官僚が天下り先の財団を作ったような感じがしないでもない。

 最終的には次回(これがあの平成7117日)の協議会で全メンバーが集まり、正式決定ということでスケジュールが決まった。
そして、運命の117日を迎える。あの阪神淡路大震災のあった日だ。
 震災で神戸市は非常事態。
レジャーワールドどころではない。取りあえず当日の協議会は無期延期、無期延期ということは計画自体も無期延期、無期延期は中止に近い。半年後、正式に中止が決まり当然のことだったがこれで皆が助かった。
 神戸市も各参加企業も成功が疑問視される事業、しかも250億もの出資が助かった。





2011年11月9日水曜日

留学生の受入れ   




 社長が政府の臨時教育審議会のメンバーになっていた。中曽根内閣の時代だ。
 政府の各種委員の人選はどうやら多額納税者(社)から選んでいるようだ、つまりは沢山税金を納めている人(会社)への配慮みたいなもの。
 臨教審の中身はよくは知らないが、そこで我が国の受入れている留学生が先進諸国に比べて少なく、今後は留学生を多数受入れるべきとの方針が決まった。そこで委員の一人であった社長は自身が実践しようと当時設立まじかであった流通科学大学と中内育英会に「中国人留学生を受入れる」よう指示があった。
いつもそうであるように指示は至極簡単なもので具体化は我々事務方がしないといけない。具体的には中国人・流通科学大学しか決まっていない。何人か? 費用は? 方法は? 全て決めなければならない。
 大学に留学生枠を設けるだけなら簡単だが、どうやら費用を全額負担する腹のようで、採用人数と費用とのバランスがポイント、費用は育英会からだすことになりそうで、といっても育英会も潤沢に資金があるわけでもなく、またしてもエライコッチャ!
 入学までは大学が費用面では育英会がもつことで、まずは費用を試算、学費は大学側が負担、その他の就学費用と生活費(住居・食事・その他)を育英会が負担するとして試算、概算で1人につき毎年200万円もいる。学部入学として2年間で1400万円と試算しところへ中国での選考は都市別に振られ計6名と決められた。つまりは年間2400万円
 要は当社と密接な関係のある都市の幹部にそれだけの権益を与えたことになる。結果的に選ばれた留学生は必ずしも成績優秀者ではなくその地方の有力者のお声かかりの人の色合いが強く、主旨と現実のギャップは大きなものがあった。
 育英会事務局としては資金手配をしなけれなならない。
半永久的に続く事業としてこれは増資をして(財団なので基本財産の増加)その利益(株の配当)で賄わなければならない。増資といっても元々社長が個人的に全額出して作った財団法人、いまさら他人さまに声はかけられないし、だれもこんな話にのってはこないだろう。社長に追加の出資をお願いするしかない。
 金額を株式に逆算(配当は1株15円だった)するとなんと300万株以上になる。当時、株価は2000円位していたので総額は60億円!
 問題は誰が社長に説明してその株式をもらってくるか? 事務方としては常務理事にお願いするしかない。誰も気の進まない仕事だが、無理やり常務理事に行ってもらった。「君は社長のポケットに手を突っ込めというのか!」と常務には嫌味をいわれたが、イヤならオレが行くといったハラはくくっていた。
 すごい話だが、社長は二つ返事でOK。当時の中内社長にとって60億円は庶民の6万円位の感覚か?
 ただし、税金がかからないようにとの指示、我が国では寄付をしても下手をすると課税されかねないのだ。
 方向性は出たので事業としてはGoしたが、あとに残された問題はこの税金問題。 
税務なんて全く知らないし、公益法人のことも日常業務以外は全くの素人に近い。
ラッキーだったのは社長顧問に以前某立大学の専務理事をされ、公益法人には非常に詳しい方がいてその方の指導を受けることが出来たことだ。毎度のことだが何か問題が起こるとどこからか救世主が現れて助けてくれる。ラッキーそのものだ。

 また、社長の個人資産管理会社も全面的に協力してくれた。
しかし、作業は事務長たる私ひとり。シンドイことに変わりはなかった。
 監督官庁たる兵庫県教育委員会や大阪国税局との調整が主な仕事、最終的には「試験研究法人の基本財産増額」は無税扱いになるのでその手続きを実行した。今までの事業内容に始まり、今の事業、今後しようといる事業それぞれの内容を明記、中には関係者の署名・捺印がいるものもあり、非常に作業は煩雑ではあった。
しかもその申請書たるや同じものを手書きで3部提出しなければならない。申請書は厚さ2cmもあるしろもので3部作成はきつかった。勿論、年度内申請の期限もある。やっと何とか作成し提出。
ホットしていたら東京の国税庁から電話があり話を聞きたいという。このときのことは今でも覚えている。担当官いわく「今度、何かの用事で東京へ来られる機会がありましたら、国税庁へお立ち寄り願えませんか」と至極丁寧な言い回し、この電話で「では次の機会に・・」という訳にはいかない、「早速伺います」いうことで、翌日朝一番に上京、国税庁へ。 
 エリート中のエリート官庁、大蔵省の一部だから石造りの古いビル、エレベータの床がすり減っている。廊下は薄暗い。驚いたのはエアコンがない、夏の暑い日なのに扇風機しかない。税金を集める方だから無駄には使わないという姿勢のようだ。
 担当官と面談したが、内容的には書類の確認程度、つまりは書いた事務方の人間を確認したかっただけの模様。しかし、これで何か問題があればいつでも国税に連絡するルートも出来た。先方もそれが狙いのようだった。
 色々あったが、何とか基本財産増額問題は完了した。
お世話になった方々に感謝! 感謝!