2011年9月30日金曜日

店長の仕事。

   スーパーの店長の仕事って何なんだろう?
キレイごとは言えるが、ホンマ何なのか未だにわからない。

日本のスーパーマーケットはチェーンストアの形態をとっているのが多い。
つまりは、アメリカで発達した理論の模倣、しかし日本はアメリカと違う点が多い。一番違うのは店舗の型、土地の少ない日本では空いている土地にしか建物は建てられない。大きさ、型、その他規制もある。したがって、一番大事な売場の型が全ての店舗で異なるのが普通、だからマニュアル化は難しいし、そのままオペレーションが出来ない。だから個々の店長の仕事はその店独自のマニュアルを作ること。 代々の店長がマニュアルを書き足すことでより良い手引書が出来る。

 ボクの赴任したのはサカエ吹田店、サカエと言うのは社長の実弟がしているスーパーマーケットチェーン、その店の近くにダイエーが吹田店と言う大型店を出店した。当時、サカエの吹田店はサカエで1,2を争う繁盛店、それがダイエー出店の煽りで超不振店に。その時のグループ調整でサカエ吹田店は出店の責任上ダイエーが運営することに、また地元とはダイエーと競合しないスタイルで営業する(つまりは食品スーパーではなく専門店型に)との申し合わせができた。
その結果、サカエ吹田店はヘルス&ビューティーの専門店に改装して営業していた。しかし、それも失敗してガタガタ、超赤字店。


それを何とかすることと言う指示で店長になった。
本部長曰くは「営業も、企画も、改装も経験している・・・」から任す。身に余るありがたいお言葉だが、どないせー言うんヤ!
店長着任後、通常業務を最低限にして改装計画に着手した。何せ毎月2500万円の赤字、一日も早い改装が期待された。 

約半年でプランをまとめて社長答申、経費は3.6億。1年に3億の赤字店だからそれ位かけねばと思っていたが、社長がバッサリ経費をカット。2.6億でやれと言う。社長の決裁は絶対の会社。でも1億経費削減はどう考えてもムリ、でもしなければならない。そこで思いついたのは業者の再選定・再見積もり、つまり通常使うグループの業者をやめて、オープンにして再入札、コストダウン。
そして一番の決断は監督業者(工事を仕切る)をカットすること。それで何とか2.6億まで経費をダウンしてやっとGo!

現場監督がいない改装工事が始まった。毎日、業者の責任者とミーティングして明日の工事の段取りを決める。何とか工事を進めた。今から思うとよくやったものだ。業者も事情を理解していたのでムリを聞いてくれ、大きなもめごとはなかった。

 何とか改装工事は進んだが、最大の問題は地元商店街との調整。
ダイエーの場合、普通は総務の担当がする業務だが、会社としてはサカエ、サカエは運営委託した店だから動かない。店長がしろと言う、致し方なく商店街の会長と話合うハメに。元の食品をおいたスーパーはしないと言う申し合わせに違反しているのだ。頭を下げて頼みこむしか手はない。最終的には協力金という訳のわからない金での解決になるだろう。でも最初からお互い金の話はしない。交渉は半年以上かかった。改装オープン日も決まった後がない時点で「これがなぁ・・・」と指を丸めてくれた。問題は金額、会長は指3本だした。その間言葉はナシ。「解りました」とは言ってみたものの、3000万なのか300万なのか?
3000万は多すぎる。思いきって300万にした。恥かいたら恥かいたでそのときや!

改装オープンの前日の夜に商店街と合意することになった。一席設けてシャンシャンシャンと行きたい。一杯飲んでも全然まわらない、早く解決して帰りたいのとこの金額でOKなのか色々考えると・・・。
 恐る恐る300万円の封筒をを出すと、チオラッと中を覗いて「領収書はないけど一筆書いたろ」と会長、先方の方が慣れてる。会長は名刺の裏に「今後一切・・・」と書いてくれた。ホッと一息。これで社内的にも決済出来る。 エー経験したけどこれでオープン前日、何のチェックも出来ず仕舞。

 オープン日には社長の巡回がある。
何を聞かれても答えなければならないのに、出たとこ勝負や。でも予想通りの来客数で社長もホクホク、質問もナシ。ラッキー!

・・・と言うことで何とか改装オープンはしたが、チラシ効果のみ売上げが全然伸びない。また不振店へ逆もどり。
赤字額はさすがに減ったが、依然黒字化は見込めない。苦悩の日々が続く。
これが店長の仕事なのか? 

2011年9月29日木曜日

今さら店長なんて・・・!   

 地区長スタッフとして4人の地区長に仕え、バリバリ・ルンルンの時代が続いた。
組織的には店長のボスたる地区長のスタッフ、たいした権限もないのだが、各店長は地区長の代理のように思っていたようだ。側用人のような立場、ホントはまずい。
実際、地区長への色々な取り次ぎは殆どボクを通していたように思う。


 そんな中、店長選抜試験を受けるよう地区長から言われ、一度は断ったがダイエーでは一度は店長をしておかないと将来的にプラスにならない。そのことは判っていたが、今の立場で今さら店長なんてと言う感じだった。
しかも「店長アセスメント」(店長候補選抜試験)は人事時代に問題を作っていた立場だ。何か馬鹿らしい!
アセスメントは状況判断能力検査、答えはないが判断力が試される。

そんなこと毎日地区長の立場でやっている。しかも人事が好む答えも判っている。仕方がなくイヤイヤ参加、2泊3日のアセスは無事終わった。結果は「保留」・・・なんで? 「店長になる意識が少ない」からだって、そらそうだ。イヤイヤなんだから。
と言うことでアセス同期の連中が次々と店長に昇格していくのにお声がかからなかった。忘れかけていた頃、お声がかかった。
 サカエ吹田店へ店長として異動せよとのこと。あの一番の不振店、だれもどうしよも無かった店。 最後にエライ店が残っていたもんだ。
近畿地区の本部長に呼ばれて指示があった。「予算はいくらでも出すのであの店を再建」しろと言う、そう言って頂くのはありがたいが、どうしろって言うんだ!














2011年9月28日水曜日

東亜手袋株式会社②

 当時、取引のあった三井物産からオヤジに独立の話があった。
 概要は、産炭地振興事業関連で福岡県の産炭地で事業を起して欲しいと言うもの。
当時、エネルギー政策の転換で石炭事業は廃業に追い込まれていた。三井系の三井炭鉱も福岡県の田川市の炭鉱を廃鉱にしようとしていた。田川市は炭鉱で持っている町、廃鉱で失業者が多数でるのは困る。国も産炭地復興事業を後押ししていた。
そこに白羽の矢が飛んできた。

 三井が全面的にバックアップするので田川市で事業を起して欲しいと言うものだった。
詳細は知らないが、田川市・三井物産がバックアップすると言うからいい話には違いない。オヤジはその話にのり、東亜手袋株式会社と言う会社を起した。
当時 、手袋業界は最盛期から衰退期へ移りつつあったが、それは今だから言える話。ヨシこれで頑張ろうとオヤジも思ったのだろう。
 用地は提供するので工場を建てて社員を多数雇って欲しいと言うのが市と物産の要望。資金の保証もある。オヤジは言われる通り、工場を建設、社員も200名ほど雇って操業した。しかし、従来手袋製造は家内工業的なもの、内職の出来高払い制。だから工場建設コストと社員の給与と言う固定費の負担が厳しかったようだ。でも三井グループあげてのこと、銀行も物産の保証で言うとおり融資してくれたようだ。

 2~3年は上手くいっていたようだ。オヤジは田川市では名士・功労者になるハズだった。そこに、繊維不況がやってきた。
三井物産と言えども事業の再編をせざるを得なくなり、不況の繊維部門は縮小と決まり、オヤジへの支援は打ち切りと決まった。担当役員が謝りにきたと言う話だが、取引は続けるが、それ以外のバックアップは出来ない、つまりは資金援助が出来ないのだ。即資金繰りにいきずまった。 

オヤジは金策に走り回ったようだが、世の中は不況、三井が見はなした(?)企業に融資する銀行も無かった。
ついに、東亜手袋㈱は倒産、それがボクの大学受験失敗と同じタイミングだったのだ。親子揃って浪人生活が始まった。
昭和44年の話。

2011年9月27日火曜日

東亜手袋株式会社 ①   

 どんどん時代はさかのぼる。
オヤジの商売・仕事について書いておかないといけなく思い書きたすことにした。

  戦前からずっとオヤジは大阪・船場で繊維関係、綿布問屋の手代(今なら課長クラスかな?)で出征、戦後は「手袋」を商売としていた。
出身地、香川県白鳥町(現・東かがわ市)は「手袋の町」と呼ばれている。
何故、手袋が主な産業になったのかは不明。今は手袋の町も廃れたが、それは手袋輸出が不振に陥ったから、一つはアメリカの繊維輸入規制による繊維不況。
もう一つ決定的なのはファッションの流れの変化、具体的にはミニスカートの流行によるもの、ミニスカートに手袋は合わず。手袋は不要になったこと。それまでは欧米の中流以上の婦人は「手袋用タンス」をもっていると言われるほど手袋を持っていたらしい。今や、白鳥で手袋屋さんも2~3軒になっている。時代は変わった。

手袋と言うとたいがいは軍手?と言われる。
しかし白鳥で作っていた手袋はファッション用の手袋、しかも輸出が殆ど。ヒジより上まであるイブニングドレス用のものや欧米の婦人が正装時手にするファッション性のあるものだ。「ローマの休日」でのヘップバーンを思い出して頂ければOK,彼女は正装時は勿論、スーツを着ても手袋を手にしていた。手袋はファッションアイテムなのだ。


オヤジの働いていた東讃莫大小株式会社(トウサン・メリヤス)も手袋の製造・輸出を事業としていた。オヤジのポジションは番頭さん(専務or常務)、社長は2代目で全てをオヤジに任せていたようだ。

この手袋は殆ど内職で作られる。 
仕様書と裁断された材料(生地とアクセサリー・ビーズや刺繍)を家庭の主婦に縫製してもらう。町を歩くとどの家庭からもミシンの音がしたものだ。 ミシンは貸与するから工場が要らないしその管理費も不要。縫製の技術指導をして製造委託、出来高払い。注文は商社を通じて欧米の百貨店やチェーンストアから大量にくる。非常に儲かる商売だった。

驚いた話。アメリカのあるチェーンストアのバイヤーが来てサンプルを発注した。その数量たるやその為工場がいるほどももの。
色が5色、サイズが4種類・・・を各店1ダースづつの注文、1店240双(因みに手袋は1ツを1双と呼ぶ)しかし、そのチェーンは全米に1000店もあり受注数は24万双にもなる。オヤジもビックリしてこれで正式注文がきたら大変やと言っていたが、結局サンプルのみ。それでも充分商売になった。(この話を聞いてアメリカのチェーンは凄いなぁと興味を持った)
毎年、アメリカやカナダからバイヤーが夫人同伴でやってくる。その接待で京都や奈良を案内して夜は日本料理で宴会、お土産も用意して大変だった模様。
・・・と言う商売だった。

そこに三井物産からオヤジに独立の話が舞い込んだ。
(続く)

2011年9月26日月曜日

モーリー工業株式会社   

 話は前後するが、オヤジが倒れた時、オヤジは細々と商売をしていた。
前の会社(東亜手袋)が倒産して半年後に自分一人で商売を始めて「モーリー工業」と言う会社を起していた。社長ひとり、社員ナシの全く個人企業。


 思いつたのは、ゴルフ場のキャディーさん用の手袋販売、しかもそれが通販。
昭和42年の話、NETも宅配便もない時代、ようやったと思う。
商品は昔の繋がりで作れる。販路はゴルフ場ガイドで調べれば全国1000余りのゴルグ場がある。郵便で案内しハガキで受注。発送は小包。代金回収は郵便為替。ニッチな事業。一番心配だった代金回収も結果的に貸し倒れが殆どない。

 オヤジのゴルフ好きが活かされた商売だ。キャディーさん仕様の手袋を作ったのが当たった。 そのノウハウは企業秘密。 拡大発展は望めないが家族4人が食べて行くには十分。

 そこにオヤジが倒れた。
一人でしていたから全ての業務はストップ、たまに手伝いに行っていたのでおぼろげながら仕事はわかっていたが、エライコッチャ!
当初、ダイエーの仕事が終わってから夜、大阪の平野町の事務所へ行き発送作業。どうにかしないとこんなこと続けていけない。廃業するにはもったいないし。

そこでオヤジの友人に相談、人を雇うことにした。給料を出すと、利益の半分が飛ぶ勘定だが、定年で遊んでいた人を雇うことにし、事務所も賃料の高い大阪から池田に移した。事務所の引越もトラックを借りて自分でやった。各種手続きも何とかすまし、ホッと一息。この雇った人が非常にマジメでキッチリした方で助かった。もう亡くなったが感謝・感謝。

売上げは増えないまでも順調に営業出来た。
しかし、このことが良かったのか悪かったのか? 

この事業の儲けはボクの小遣い、交際費やガソリン代等も使える、ダイエーの給料は生活費と言う型が出来てわりと楽な生活。典型的な家内事業のスタイル。
この事業は阪神大震災の翌年まで20年余り続いた。
しかし阪神大震災後の不況で売上げは半減、本当に半分になった。
ゴルフ場が不況で何軒か潰れるくらいレジャー関連は不振を極めた。特に主たる顧客だった関西が酷かった。 回復を待ったが無駄だった。 

  買掛金が払えない状況になり、事業を製造元の会社に売却して廃業した。買掛金と事業全体がチャラ。何も残らなかった。
オヤジさん、ゴメン! 

もう少し商才があれば今はやりの通販会社位に大きく出来たのに、いかんせんサラリーマンとの兼業、時代も熟していなかったのか残念!
 

2011年9月22日木曜日

台風被害!

 台風15号が日本を縦断して多数の被害をだした。被害を受けられた方々の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。

Newsを見ていて子供の頃のコトを思い出した。
浸水した学校で溝にはまり足を骨折、以後障害者になった友人のこと。
台風通過後、子供のことで興味本位で小学校の状況を見に行った。校舎もグランドもいたるる所水びたし、一面茶色いドロ水が子供の膝位まであった。校舎は床下浸水。グランドはプール状態だった。 遊び半分でウロウロしていた時、友人が校舎横の溝にハマった。泥でドコに溝があるか判らなかったのだ、大声をあげたので皆で助け上げ、その時はそれで何もないようだったが、その後彼は入院手術、結果的に膝から下が動かなくなり障害者に。可哀そうにチョッとした不注意が不幸を呼んだ。
それ以来、泥水がこわい。濁った水の下には何がどこにあるか判らないからだ。マンホールの蓋があいている場合もある。これは落ちれば流されて死ぬかもしれない。泥水の中は棒かなにかで手さぐりで歩かないといけない。
要は、用もないのにウロウロすることは厳禁だ。完全に安全が確認されるまで家を出ないに越したことはない。
又、これも小学校の頃の話。
伊勢湾台風の時だったかと思うが、一番仲が良かった友達の家の壁が2階から下までドサッと全部落ちたことがあった。家は映画のセットのような状態、家の中が全て丸見え。その後どうしたかは覚えていないが、当時の家は土壁、湿気るとそうなることも充分ありうるのだ。今の家ではそんなことも無いだろうが、子供ながらに台風の恐ろしさを知った。
お蔭さまで、わが家が直接被害を被ったことはないが、油断大敵ではある。

2011年9月21日水曜日

息子達のこと。   

 息子たちのことについて。
長男、勝也は昭和54年5月14日に生まれた。
丁度、西宮店の次長で超忙しい時代だった。
だから出産には立ち会うどころか顔を見に行ったのも二日後位だった。慣習でママは実家の近くの病院で出産した。予定日を過ぎて4000gもあった元気な男の子。因みにボク自身は3950gだったらしい。優子も大柄な方だし、明らかに我々夫婦の子供だ。双方の両親にとって初孫、大変喜んでくれたし可愛がってくれた。

次男、智也はその4年後昭和58年12月8日に生まれた。
地区スタッフの時代。
智と言う字が好きだったので智也と名付けたが後で仏壇を見てびっくり、オヤジの戒名が「勝智」とあるのだ。
勝也の名はオヤジ・勝治から一字もらったが智也の名はそんな経緯はない。何か不思議、オヤジが二人を守ってくれますように!
二人の間に一度ママは流産した。その子が生まれていれば女の子だったのにと悔やまれる。(確証はナイが)

子供たちに申し訳なかったのは、仕事で遊んだりしてやれなかったことだ。
店勤務では忙しいのと当時まだ週休1日の時代、しかも定休日が水曜日ときたから彼らと休みが合わない。
苦し紛れに言ったのは「日曜日働くのは大事な仕事しているから、電車の運転手さんもお巡りさんも消防のおじさんも休みなく皆のために働いてはるやろ」と。あながちウソでもない話。
夏休みが取れるよう時代になってCampやDrive、旅行には家族で行った。
しかし、子育てと言われることをした記憶がないのはやや後ろめたくはある。

2011年9月20日火曜日

大変だ! 優子が家出。  

 大変なことが突然起こった。
妻・優子が家出! 
彼女は実家が近いこともあり1週間に1回位帰っていた。それを仕事帰りに迎えにいくのが習慣だった。
 ある日、優子はいつもと同じように実家へ。そしてボクは迎えに。
夜遅くなっても彼女は帰ると言わない。帰ろうと声をかけると帰らないと言いだした。突然のことでボクには何のことか判らない。だいぶ駄々をこねた後、義父が言った「オマエは嫁にだしたんやからこの家はお前の家じゃない。早く宝塚へ帰れ」そう一喝されて渋々車にのり帰宅。色々聞くと母と上手くいっていないとか?
 「エッ?何故?」って寝耳に水。それを気付かなかったボクのミスか?
 家に帰ってから母を入れて3人で深夜の家族会議。
お互いの言い分を聞いていても男にとってはたいした話ではない。でも彼女たちにとっては大問題らしい。でも解決策はどこにも見当たらない。息子の立場、夫の立場、どうすれば良いのか?
その夜は時間切れ、持ち越し。


それから、友人や先輩たちの意見を聞き相談した。ポイントは妻・母どちらにつくか?
結論から言うと「絶対に嫁サンにつく」こと。
つまりは、母はどこまでいっても血の繋がった実の母、嫁サンは血のつながりのない他人、でも夫婦は一心同体。実の母とは切っても切れない関係だから放っておいても大丈夫との理屈だ。でも具体的に何をしたら良いのか?苦悩の日が続く。

ところがしばらくして、自然と解決していた。二人が握手して解決ってことでもないし、ボクも何もした覚えがない。どうして解決したのか判らないが、知らない内に二人は仲直りしていたし、以前以上に仲良くなっていた。雨降って地固まるだ!結果よければボクとしてはOK! なんと無責任な夫、エーカゲンナ息子!

それ以降、母はボクのことを彼女に色々はなしたようだ。彼女のボクに対するスタンスも良い方へ変わってきた。

 母が教えたコト。
「食べ物の味とかにうるさいけど、放っておけば何でも食べるから気にしないで」右の耳から左の耳へ「ピッツッピピー」と聞き流すこと。
それらよく彼女は「ピッツピピー」と言う。
子供の頃の話とかも聞いていたみたいだ。

母は色々と料理も教えたようで、オフクロの味が完全に引き継がれた。
母の土井流関西料理。これはボクにとって最高の贈り物だ。

そして、彼女は「私は従婦」と言いだした。
主婦は母だからだ。それに従う従婦!
母が倒れて看病が必要になるまで続いたが、いつか彼女は主婦になっていた。

結果オーライの話(これで良かったのか?君子危うきに近寄らず)

2011年9月19日月曜日

相続税、2題。

 オヤジが亡くなって1年後、ふと相続のことが気になって市役所へ相談に。
今までふれてはいないが、私には10歳年の離れた兄がいる。

彼は家を飛び出して勘当同然になっているが、法的にはなにもしていない。今、どこにいるかも不明。相続権は彼にもある。で、相続するには彼に会って相談もしなければならない。

取り敢えず、市役所へ。
事情を説明すると市役所の方曰く「何もしなくて結構です」とのこと、家と僅かなお金、小さな会社位は相続税がかからないとか? 安心したのと同時に恥をかいたみたい。 早速、全てを私の名義に。(未だに兄は行方不明)

次に家内の実家の場合。 義父が亡くなって半年くらいたった時、税務署から郵便がきた。

相続についてアンケートに答えろとのこと。相続課税の所帯は国税がすでに把握しているのだ。(固定資産から把握されている模様・金融資産は把握されていない)アンケートとは言え内容は課税資産を調査、ウソは書けない。
世話になっている税理士が相続税を試算してくれた。なんと7500万円も払うことになるとか! 実家は大騒ぎ、どうしよう、どいうしよう!
で、いつものようにお鉢は私に廻ってきた。

早速、知人の会計士に相談。
ややこしかったのはingの土地があったこと。額面通り計算すると前記の相続税になる。 所有の農地が住宅公団の開発事業で宅地化の真っ最中なのだ。その評価で国税と見解の相違があった。
簡単に言うと国税は地目が「市街化地域」なので通常の路線価で評価すると言う。その路線価が17万円/㎡、農地の場合は1千円/㎡。何故「市街化」かと言うとこれも法律で公団は市街地以外は手をつけられないから農地のまま便宜上「市街化地域」に市が変更したとか。勝手なもんや!

だが現況はまだブルトーザが稼働中の土地、固定資産税は農地扱い、評価は農地のままが妥当と言うのが当方の主張。その差はなんと4億円にもなる。相続税で7500万円にもなる。 会計士さんお奔走もあって、結局、国が造成中の土地は完成までは元の地目でと言う法の注釈を発見、農地で評価、それでも評価額1億円余。

実家の相続問題は何とか解決した。

 その時、相続税についてかなり勉強した。
相続税はアバウトな話だが、相続財産の評価額に課税されるのだが、評価額に控除がある。

配偶者が5千万円と1千万円×相続人数の控除。実家の場合、9千万円にもなる。これで殆どが消える。
基本的には、相続税額=(評価額-控除額)×税率-配偶者税額控除。
この配偶者の税額控除も大きい。
相続財産が1億未満なら殆ど相続税はかからない仕組みになっている。1億以上の資産を持っている人ってあまり知らない。金持ち優遇や!


以上が相続税の実態。それを実体験した。有意義な勉強だった。


2011年9月17日土曜日

兄のこと。

 兄(森本啓三のことについて触れておこうと思う。
実際、何かの機会がないと兄については完全に忘れてしまっている。忘れようとしているのか?本当に忘れているのか? 理由は?


 彼は昭和13年生まれ、私とは丁度10歳の年齢差がある。丁度、戦争中でオヤジが出征したからだ。
 兄は大阪府立豊中高校から関西学院経済学部へと進み、㈱ダイハツへ入社した。そして見合い結婚、これがいけなかった。
相手は和歌山の本屋の娘、気位の高い女性であったことを覚えている。
結婚し家族と同居、それほど大きくない家に父母と弟(私)がいる。考えて見てもムリがある。

果してある日突然、トラックが来て彼らの荷物を運び出してソレッキリ!両親とは話合っていたみたいだが、私はなにも知らなかったのでビックリ!母から「もう兄とは思わなくていい」とのキツイ宣言を受けて二度ビックリ!
兄の嫁さんが母をイヤがったようだ。そんなこと結婚前にわかっているやろに!

その後、兄から何回か連絡があり、会ったこともあった。転勤先の福山、熊本まで行った。でもそれきり。 

 数年前、兄嫁(名前も忘れた)であろう人から電話「お兄さんが会いたがっています」とのこと何か重病の模様、でも何故か「私には兄はいません」と瞬間的に返事してしまった。兄がいなくなってからの苦労が凝縮されていたのだろう。
今はそれっきりだ!

 驚いたのは、オヤジが倒れても、ボクが結婚しても、オヤジが死んでも・・・、母は兄に連絡しようともそのことを口に出すことも無かったので、どうしようもなかった。
家内にはその事情を話したので彼女も義父母も知ってはいるが触れようとはしない。これでいいのかな?
もう今となっては過去の話となってしまった。

 人生イロイロ、家庭には言いたくない事情もあるものだ。







2011年9月16日金曜日

父、勝治が亡くなる。

 脳溢血で自宅療養中の父が昭和57年11月4日に亡くなった。享年77歳。
倒れてから5年、ヨイヨイながらよく生きたものだ。

医師が「もうそろそろ」とは言っていたが、突然の感があった。
寝た切りの状態であった父とは毎朝「行ってきます」帰宅して「ただいま」と言うのが習慣、逆にそれだけの状態ではあった。

4日の朝、静かなので寝間を覗くと亡くなっていた。穏やかに、安らかに。
一時、いわゆる「痴呆症」で家族を困らせたが、殆ど手を焼かせることはなかった。介護保険などない時代、全て自宅でよくやったとおもう。 

痴呆症の症状はやはり昔のこと、戦争中のこと。
夜中、突然起きて大声で「○○が今セレベスから帰ってきた。玄関開けてやってくれ!」と叫ぶ。今頃、復員する人なんていないし、夜中2時だ。・・・と言う説得はNG.同類項になって「判った。玄関開けてくるわ」と言って「開けたけど誰もいなかった」と言うと「そうか?思い違いか」と納得し寝てしまう。その極意がわかるまでだいぶかかったが。

優子もその時生れていた勝也(長男)もヨイヨイのオヤジしか知らないのは幸いだった。あの超オソロシイ父がいたら大変だったろうに!

2011年9月15日木曜日

地区長スタッフ   

 そして、そのうち店舗を管轄する地区長から声がかかった。
地区長にスタッフがつく組織変更があったので地区長スタッフになれと言う。これも始めての仕事、何にことやらわからない内に地区長スタッフ(コントローラ)になっていた。地区長が必要とされる営業数値を管理する仕事だ。

 これも今みたいにPCのない時代、電卓と鉛筆の世界だ。
でもこの仕事を4年程した。地区には商品の部門を担当するスーパーバイザー(SV)が十数名もいた。彼らの管理も担当した。シンドイのは毎週月曜の営業ミーティング用の資料をつくること、日曜の閉店後各店からの報告をまとめて月曜8時のミーティングに備えるのだ。営業数値、売れ筋情報、サクセスetc.を地区としてまとめ本部に報告する。地区と地区長の評価にかかわるレポートだ。 慣れるまでは夜10時、11時までかかったものだ。
  コントローラの仕事は各店の営業成績、店利益のコントロール。
売上至上の経営から利益重視の経営へ各店の店長の視点を変えていく。当時、店長は売上げのみに目が行き、利益は二の次であった。 第一社長自身が「売上は全てを癒す」と言うのだから・・・? 
人件費・営業経費・施設の管理費等店のP/L(損益計算書)項目に関心を持たすようにする。 人事考課も利益重視スタイルに変わりつつあったからその管理手法には各店々長も興味はあった。 しかし、店にはそれを分析する時間がないし手法も知らない、そこで各店別に解りやすい経費のグラフ化や他店比較等の資料を作成し配った。 
当時、会社の最終利益は売上比1.0%を切っていたから、100円儲けるには1万円の売上げが必要で、1万円の売上げは100円の商品100個分だから、経費削減の方が簡単に利益を上げられる。しかし、縮小均衡は許されない会社だからそのへんの匙加減が難しかった。
地道な資料作成と店への提示、比較が好評だった。でもどれだけ利益貢献したかは不明だ。
そして予算編成が最大の仕事。地区に与えられた利益予算から売上げ・経費を逆算し予算化するのだ。 それを各店に配分、店長を納得させるのがキツイ仕事であった。店長にとって予算は直接評価を左右する重要項目、ボーナスが倍近く違ってくるのだから真剣だ。 大声を張り上げて激論は何度もあった。最終的には店長をおだてて予算案を納得させる。これしかなかった。
このコントローラ時代は比較的時間があった。
忙しいようだが勤務時間は比較的自由、店巡回用に車通勤も黙認されていた。特に我々は西宮店に駐在していたので家からも近く楽であった。休みもキッチリとれた。SV連中とよくGolfにも行った。飲みにもショッチュウ行った。思い起こせばダイエー時代の一番ヨイ時代だったと言える。

2011年9月14日水曜日

J.C.Pennyの実験。

 着任した西宮店は実験店、アメリカのJ.C.Pennnyの店舗運営の実用化実験。
だから人事経験者が店の次長として異動したらしい。本部スタッフとの調整役もきたいされていたらしい。
Pointは
①単品管理(コンピュータ全盛の今となっては手作業での単品管理なんてと        思うが当時は画期的)
②作業の縦割りから横割りへ(業務別組織化)
③パート比率の向上。
私のメイン業務は勿論パート比率を40%から60%まで引上げる実験。(今では60%は当たり前だが)実際は採用試験ばかりしていた。応募者にとっては今までのスーパー勤務より難しいことを言うから離職率が高かった。だからその穴埋めに奔走した。バカみたいだ。

結論から言うと実験は失敗した。

理由は西宮店が予想以上に売れたこと、そしてやはりダイエーの体質的なこと、簡単にいうと男性的なイケイケどんどんな会社に細かい数字による管理は向かない。社員が店長以下馴染まないのだ。

通常業務(営業)と実験の両立は難しいということだけを学んだ。

実験は自然消滅、私も人事担当から営業(食品)担当の次長へと横滑り、食品全般の責任者になった。これは面白い仕事だった。一般食品しか知らなかったので肉、魚、野菜果物の生鮮三品について勉強出来た。
「疑わしきは売るな!」を衛生管理の基本方針とした。これは正解だった。パートさんが売場でこの商品は(?)と思った商品は下げて廃棄と言うのだが、少しでもオカシイ商品は直ぐ廃棄に回るので売場主任は大変、自らが衛生管理をするようになった。意識が非常に改善された。
イベントも面白かった。季節季節の企画や行事に合わせて売場を作る。花見に始まり土曜の丑、キャンプ・バーベキュウ、運動会、クリスマスetc.
この間も忙しくて家庭を顧みなかったように思う。
長男は生まれたが。可愛がるヒマもなかった。

2011年9月13日火曜日

オレの方向かせろ!

 前後するが、社員教育の話。
 企業の社員教育には定番はない。
知識・技術教育は必要だがそれよりも大事なのはロイヤリティー、今では死語化しつつあるが、所属する企業への帰属意識が重要視されていた。特にダイエーでは先年の労働争議以降、喫緊の課題だった。

新入社員時代から帰属意識、もっと砕いて言えば会社の方を向いているか?が要求された。社長曰くは「オレの方向かせろ」だ。
 それも時間がない。毎年4月には何百人もの新入社員が入社してくる。
色々専門書も読んだし各企業の事例も研究した。でもダイエーのような企業は日本には存在しなかった。つまりは大規模なチェーン経営、しかもサービス業、そして創業間もない企業。社員数15000人、組織も軟弱。営業所が多い(当時店舗数150店)一人社長だけがカリスマ性で会社を引っ張っている超急成長な企業。


しかもお客様の要求もだんだん高くなってくるのに知識・技能がそれに追いついていない。せめて将来を担う新人だけでもキチンと教育しなければ。
そこで傾斜的な手法に走った。つまりは技術・知識教育は放棄。情意(=やる気)にポイントを置いた。社長指示である「オレの方・・・」教育だ。
よくよく考えると、200人の新入社員は150店舗に配属されるが、彼らにとって新入社員はボク一人の状態、1店あたり1人しか配属されないからだ。同期といったヨコのつながりが全くない。

 これでは帰属云々以前の話。そこで企画したのがどこかのメーカーが採用していた「グループ制教育」。
先輩のソコソコ優秀な社員をリーダーにして近隣数店舗をグループ化、数名の新人を先輩が管理するやり方だ。先輩社員への意識つけも重要、事前にリーダー教育も実施した。人事部とリーダー選びから始めた。2年先輩のリーダー20名位を選出、合宿でリーダー教育から始めた。最初は各店からクレームが来た。教育期間中人手をとられるからだ。しかしその後リーダーに選ばれることが昇進への近道と噂されるくらいになり、教育への味方が変わってきた。
 新人は就業後や定休日にリーダーの元に集まり悩みを相談、情報交換する。
その時の費用くらい出してやりたかったが敢えて経費はゼロ。それでも彼らには感謝されたし、社内の新しいインフォーマル組織が出来上がった。自分自身でグループの研究テーマを決めて合宿研修時に発表することのみが制約条件、事務局としては特にすることがない。社員→新入社員→リーダー→人事と言う情報ルートも自然と出来あがった。社内的には「これで教育?」「教育部は何してる?」と批判も出たが、無視した。いまに解るよ。
 そして年2回、全新入社員を集めた合宿を富士山のふもと御殿場の「国立青年の家」で実施、研究テーマの発表会だ。勿論、社長も参加。「これでオレの方・・・」の実践だ。新入社員にとって社長は雲の上の人、合宿で24時間共同生活をすることで当時既に神格化されていた社長の実像に触れることが出来た。中内さんも普通のオッサンや!大成功の企画だった。
 
 何回目かの御殿場での研修時、西日本は大豪雨に見舞われ交通は至る所で遮断。研修の中止も考えたが、そのまま実施、酒井部長の「こんな時、どうするかリーダーの判断のテストや?」と言う考えで。
結果、送れて来たグループはあったが、全員集合。鹿児島から飛行機で来たグループや在来線を乗り継いで来たグループ、色々あったが、良い研修になった。

 因みに事務局の私は愛車に道具類を満載して豪雨の中、高速を急いだが大垣で名神が冠水通行止め、一般国道をひた走り何とか御殿場着、次の日には澄まして新入社員を向かえたものだ。

 数年後、西宮店次長時代に案内が来た。
リーダーの同窓会をするので参加して欲しいとのこと。全員で懐かしい御殿場の国立青年の家に集まり、富士登山をしようと言うのだ。嬉しかった。 
社長にも招待状を送ったら参加すると言う。社長も嬉しかったのだろう。 
 残念なのはこの企画をケンケンガクガク練った酒井さんが亡くなっていることだった。 酒井さん「社長の方向かせた」結果ですよ。



2011年9月12日月曜日

新婚生活って???

 11月12日に結婚式を挙げて、30日が西宮店のオープン、バタバタの毎日が続いた
。それに西宮店は周囲に大型店(当時3000坪は大きい)が無いためか非常に売れる店だった。お蔭で例の実験は棚上げ。売場作り、商品手配、従業員手配に忙しい毎日を送った。

やっと年末も何とか乗り切り、正月、当時はまだ正月4日間は休みの時代、少しはゆっくりしたかな?(記憶にないが) 
 そこにマタマタ大事件発生、母が突然倒れたのだ。
池田の市民病院に即入院。「腸閉塞」との診断、早急に閉塞部分を除去、つまり手術ということになった。困ったのは当時の病院は完全看護ではない、誰かが付き添いしなければならないのだ。しかも例によってオヤジは「ヨイヨイ」のまま、今でいう痴呆症。母の付き添いは雇ったが誰かが毎日病院へ顔を出さないと母は不安がるし、誰か家にいないとオヤジは何をしだすかわからないし、どうすりゃいいんだ!!!
ボクが出勤時か帰宅時に西宮から池田を経由して母の様子を見ることにした。家内はオヤジの世話。

仕事は相変わらず忙しい。新婚生活なんてどっか行ってしまった。

母は開腹手術、付き添ったが午後から半日かかる大手術。終わったら夜だった。大腸を10cm切除、腸閉塞には違いないが「大腸ガン」だった。当時はまだ「ガン=死」の時代、医師は気を使いそう言ったみたいだ。手術後1カ月で母は退院。

両親が寝ている家庭って悲惨を通りこしている。でも今思うに優子はシッカリしていた。どんな環境にも順応、対応出来る女性だった。しかもグチ一つ言わない。

 その後、この両親を最後までこの家で看取るわけだが、彼女が明るいので気が楽ではあった。優子さんに感謝!

2011年9月10日土曜日

上司:酒井教育部長   ?

  始めての本部勤務は人事・教育部。
上司は酒井 清氏、一言でいえばダイエーらしからぬシビアな人物。
 当時のダイエーはイケイケどんどんで粗雑な男性企業、そんな感じの社員が多かった。しかも創業期から成長期に突入、人材不足で他社から人材を多数取っていた時代、酒井部長も船場の衣料品現金問屋からの途中入社。
 彼は掛け売り中心の問屋にコンピュータを導入(今のPOS)1枚からでも現金で買えるスーパー方式の問屋(大西衣料)を作った人。非常な勉強家、躾もウルサイ。因みに彼は当時有名になった「おたべ」と言う京都の菓子屋の次男、その会社の常務も兼ねていた。だから経済的にも有福、着るもの、持ち物から違っていた。そこもダイエーでは異質。そして何故か中内社長に非常に近い。商業コンサルとの繋がりもあった。
 そこへ「オレは池田店の主任や」と言う意識で行った。ハッキリ言ってその時がサラリーマンの始まりなのに。
ある日、酒井部長が呼んだ「キミは日に何本タバコ吸うんや?」と聞く、後ろから見て勘定してるんかいな?(当時はデスクで吸えた)
また、「キミは何本ネクタイ持ってる?」「ネクタイは毎日変えた方が良いよ」・・・ウルサイオッサンや!

 強烈だったのは「森本クン、君もう字は書かんでエーわ!」 エッ何のことや? 字を書くなとは部外への文書は清書してもらってから出せとのこと。もともと字が上手でないことは自覚していたが、あらためて言われると強烈。 その時の清書役が家内・優子。彼女も字は上手ではないが、一字、一字、丁寧に決まった書体で漬けペンで書く、それが教育部の文書だった。

当時、ダイエーは組織はあったが殆ど組織的な運営がなされていなかった。つまり本来なら担当者・課長・部長・本部長(役員)・社長を言うラインで運営される。しかし、担当者たる私の上には教育部長たる酒井さんしかいなかった。つまりは新入社員教育は私と酒井部長の二人で立案、即社長決裁、GO! と言う非常に簡略化されたやりかた。創業者社長がいる企業そのもの。考えようではオモシロイ会社だった。
そんな中で酒井さんは社長に非常に気に入られていたので、部下たる私は非常に仕事が楽であった。


残念なのは、その酒井部長が42歳で急逝されたこと。
当時、新聞にも「企業戦士壮烈な・・・」と載ったが、社長プレゼン中に倒れたのだ。蜘膜下出血だった。アッという間に亡くなってしまった。

先日、奥様にお会いした時、その後のダイエーについて「主人が生きていても同じことしてたのでしょうかねぇ?」と聞かれ答えに窮した。 それほど中内さんに近い人であった。ご冥福をお祈り致します。




2011年9月9日金曜日

結婚はしたけれど・・・!

 予定通り結婚式は挙げたというか挙げられた。
全く「挙げた」だけ、2泊3日の沖縄への新婚旅行、帰ってきたら即仕事。しかも新店オープンへ向けて分刻みの業務、備品が入り、商品が入荷、パート・アルバイトも採用・教育etc.  毎日、朝8時の幹部ミーティングから夜9時のミーティングまで休憩も殆ど取れないくらい忙しい。勿論、休みナシ。家に帰ったっらバタンキュー! 
家内とは同じ会社の出身だが彼女の知っているダイエーはスタッフ部門、現場は殆ど知らない。だから、彼女の描いていた結婚生活とは大きく異なっていたと思う。結婚後数カ月、彼女のことを気遣ってやることも出来なかった。

11月30日、西宮店はオープン。
無事オープンと書きたいが無事ではない非常に売れた。オープン日の売上は1億5000万円、新記録。そして、その後もその調子は続いた。
即12月、オープン景気から年末商戦に突入。商品も人も足らない。実験なんて一時棚上げ。ボクは人事担当だからアルバイトの採用に奔走。学生アルバイトだけで200名以上を採用した。月末のアルバイト給与だけで2000万円を越えた。その支払いも大変、なにせバイトは現金払い。銀行のズタ袋2袋、重くて一人では持てない位。
とにかくオープンから年末を乗り切った。
ところが、年明け大事件が発生。
(続く)

2011年9月8日木曜日

結婚式

 結婚式は家の近くの「陵楓閣」と言う料理旅館であげた。(今は、マンションになっている)
そこは明治の元勲・松方正義侯爵の別荘であったところで、立派な日本庭園があり、その離れが三方お庭で素晴らしい建物があった。オヤジが脳溢血で倒れたままなので家から近くが望ましく、陵楓閣は打ってつけであった。
式・披露宴の前の色々と細かい打合せが必要な時期、西宮店もオープン準備で忙しかった。朝8時から夜は9時頃まで休みなしでオープン準備作業。非常に良い経験だが、シンドイ作業の連続だった。結婚式の準備などしている暇はない。馬鹿な店長はこの忙しい時に結婚するなんてと言う。オイオイ結婚式は人事異動の前、春から決まっていたんだぞ!そのくせ、店長は式には出ると言う。まぁ、直接上司だし招待者にははいってなかったけど入れざるを得なかった。スピーチも!
ホントに式のことは彼女が一人ですべて段取りしてくれた。式の日までボクには休みもないのだからしかたがない。

結婚式は無事終了。
披露宴も届こうりなく終わろうとしていた。その時、事件が起こった。オヤジが宴席で倒れたのだ。最後のセレモニー、両親への花束贈呈の直前。 親戚一同、これは明日は葬式やと思ったとか。
3月に脳溢血で倒れ寝たきりだったのが結婚式と言うことで出席、披露宴では各種アルコールが出る。それを次から次へと飲んでいたのだ。グラスが空になるとボーイさんがすぐに満たしてくれる。又飲み干す。その繰り返し。倒れてアタリマエだ!
参列者への挨拶もソコソコに家に帰る。その頃までにはオヤジの意識は回復していた。たいしたことなさそうだ。でも、予定では即空港へだったがそういう訳にもいかない。旅行は取りやめか、でもオヤジは大丈夫だから行って来いと言う。飛行機の時間は来るし、ギリギリ決断して旅行に出発した。旅行中、心配し続けたことは言うまでも無い。
前途多難な門出だった。

2011年9月7日水曜日

結婚まで・・・!

  恋愛結婚のPointは双方の親の説得だろうと思う。
付き合って暫くして彼女が親に会ってくれと言いだした。
軽い気持ちで「いいよ」って言い、ある日彼女の家にデートの帰り立ち寄った。ボクのエーカゲンな所は彼女の家が農家であることをその時初めて知ったこと。デッカイ農家の家の座敷に通されて固辞するまでも上座に座らされた。両親が来られてご丁寧なご挨拶、そしてオヤジさん曰く「よろしくお願いします。」
ハメラレタとその時初めて気づくエーカゲンさ!
「ハイ」と答えてしまったと言うかそう言わざるを得ない。
  次はウチの両親に彼女と彼女の両親を紹介しなければ、そこで一席セットすることを思いついた。
当時、まだあった宝塚温泉の料理旅館で会食、よく覚えてはいないけれどシャンシャンシャンで終わったと記憶している。
 そこまでは良かった。
そこに前述の事件(オヤジが倒れる)が起こった。
結婚の合意はできていたが、日程が未定だった。
 普通は様子をみるべく延期と言うとこだろう。ところが、彼女の親は違っていた。「お父さんが倒れられて大変でしょうから、早く結婚して同居し看病させます」と言う。ありがたい話ではあった。不通は考えられない。ご両親の決断に感謝。
式は11月12日ということで日程が決まりバタバタとその他の日程も決まっていった。

そこで問題は仲人さん、二人の上司である部長に頼むのが筋だろう。彼女の退職のこともある。社内ではマル秘扱いで部長はおろかだれも二人のことを知らない。それもマズイので徐々に情報を漏らしていったが、誰も信じてくれない。それほど秘密裏に進行していたのだ。
部長もビックリしたようだが、喜んでくれ仲人をOKしてくれた。
そこにもう一つ問題発生。人事異動があった。ボクは今度また店勤務(西宮の新店の次長)になった。しかも式の前、9月に着任。新店の準備は大変なこと、オープン日も11月30日と決まっていたからそこから逆算してスケジュールはきめられる。お蔭で新婚旅行は? 何とか3日だけ休暇をもらって2泊3日、残りは翌年の夏休みまでオアズケ。
このことは上司であり、仲人であった部長の画策、ハッキリは聞かなかったが「キミのためや!」と多分言うだろう。
何やかんやあったがとにかく、11月12日に結婚式を挙げた。

しかし、式でマタマタ事件が発生した。
(続く)

2011年9月6日火曜日

新入社員アメリカ研修  

 ダイエーでは入社内定者に対してスーパーの本場、アメリカでの研修を実施していた。
と言えば、カッコいいですが、内情は系列の旅行会社の営業。現地の社員にコーディヘネートさせてボロ儲け。

従来、これは新入社員教育担当の仕事であり、ヨロクでもあった。
例年通り企画して上司に持っていくと何故かNG。
旅行会社の営業ではなくて教育見地から見直せとの指示。そしてローコストの為、随行員ナシ、言われることは判るが、どうせーって言うんや!
後述するがこの上司:酒井部長は当時のダイエーでは異質な方でシビアそのもの。
何故実施するのか?実施の可否からの見直し。
まずは過去の参加者のフォロー。アメリカ研修は意義があったか否か?系列外の旅行社の企画内容チェック。費用の再試算。勿論、系列会社との比較。その前にアメリカ流通業の現状確認。何が最新型か? どのスーパーが伸びているか? フードビジネスは?等々。
助かったのはロスに調査・研究専任の調査員がおかれたこと。
彼にコンタクトして情報収集した。しかし、今と違うのはe-mailがある訳でも電話はあるものの高額。勢い手紙のやり取り。時間がかかる。今の時代が羨ましいい。
彼には本当に世話(随行・レクチャーetc.)になった。現地でも彼の自宅・兼オフィスまで伺ったりもした。途中のフリーウエイをポンティアックで都はるみ聞きながら時速100マイルで飛ばしたのは爽快だった。

とにかく、何とか新しい企画書が出来た。
結論から言えば元のプランとほぼ同じ。 1カ月かけたのは何? 
酒井部長曰く「エー勉強になったやろ。これで社長にプレゼンしても恥ずかしくない」 と。
確かにエー勉強になりました。随行員・現地案内人ナシ、それで浮いた経費で事務局の費用をねん出。会社の費用は雑費のみ。また近ツリや日本旅行へウソついてダミー見積もりまで出させたんやから。

結局、24名が応募し3月上旬に実施、団長は人事課長、サブは地域の人事課長・実際の事務局はボク一人のみ、勿論通訳なんかナシ。なんとこの団長さん何もしない全くお客さん、余計に手間がかかる。

ロス、シスコ・ホノルルとツアーは何とか無事に終わったが、帰国したら大変なことになっていた。
帰国し羽田から家へ電話したら「昨日、お父さんが倒れた。即帰って来い」と母。
羽田での1泊が長かった。

2011年9月5日月曜日

新入社員教育担当-2

 勿論、メインの仕事は定期入社の高卒・大卒者の受け入れ教育。
当時のダイエーは年間出店20~25店と言う破竹の勢い。
1店あたり社員は100名位いるので毎年の採用数は高卒2000~3000名、大卒はオイルショック後やや減って200名前後、それでも多い。

彼らを人事部が採用し教育部が受け入れ教育をする。
最大の目標は内定後の落ちこぼれを無くすこと。その為内定後のコンタクトが大切になる。大卒の場合、毎月1回、教育名目で資料を送る。それを先輩1名と手分けしてやった。2年目からは一人でやった。今から考えると背筋がゾッとする。内容と物量には半端なものではなかった。

夏ごろ、入社内定、通信教育、入社式、入社合宿教育、フォローアップの教育(2回)・・・。それが終わればもう秋、次の採用が進んでいる。
入社式も気を使う儀式だ。
新入社員にとっては一生に一度の晴れの舞台。こちらは全役員出席だから気を使いっぱなし。 よくやったと思う。
自慢たらしくなるが、それを殆ど一人でする。企画して、会場手配やら事務作業。式のシナリオ作り、新入社員の輸送計画、予算管理。それを大阪と東京・福岡と三会場でする。条件は三会場とも同じであること。会場が違うのに同じようにするのは無理があるが、極力同様にする。一番困ったのは各地域の本部にも人事部があり、どうしても独自性を出したがる。そこを頼みこんで共通にさせる。何せ昼の弁当の中身まで一緒でないといけないのだから。ビデオやPCのない時代、写真と録音テープで対応した。
これを入社4年目の若造に任している、任されている。スゴイ会社だ。当時のダイエーにはそんなバイタリティーがあった。

オモシロイと言えばオモロイ仕事だった。
そんな中、入社前の内定者を連れてアメリカ研修へ行けと言う。アメリカなんて行ったことないし、英語も出来ないのに。(続く)

2011年9月3日土曜日

新入社員教育担当-1

 人事の教育部では新入社員教育担当。
 メインの仕事は定期入社の高卒・大卒の受け入れ教育。
社員数の多さと各地域の本部の指導とかでそれはそれで大変だったが、それ以外にもう一つ重要な仕事があった。新入社員担当とは新しく当社へ入ってくる人を受け入れる作業全て、だから新人全員が対象。

当時はまだ中途入社が盛んだったし、特に中堅社員も多かった。
しかも中堅社員には役員候補クラスの方もおられた。これには参った。教育担当だった3年余りで入社後役員になられた方を数名は受け入れた。
各種手続きから社史・業務内容・社内規則等の研修、役員候補の方には現職役員との面談セット、各種全国の施設案内。それに現場(店)実習。1人入社されると1カ月位振り廻された。一番困るのは彼らの社長あての研修レポート(週刊)。それにどのような感想を書かれるかで結果はNG。ヒヤヒヤもんだった。
しかし、そのことが後々の仕事に非常にプラスになった。半数以上の役員が教え子、顔が効く、仕事がスムーズに進んで楽勝だった。今でも「森本先生」なんて冗談半分で呼ぶ役員もいる。

当時はどこから探してくるのか大手・中堅企業の名の知れた人材がドンドン入社した。ユニチカ・三越・丸紅・伊藤忠etc.
創業間もないダイエーを支えた人々だ。中には?な人もいたが。





2011年9月2日金曜日

労働争議!

 ダイエーで労働争議が起こるとは全く考えてもいなかった。
それに巻き込まれるとは・・・?

当時のダイエーはイケイケどんどん。

業績は目を見張る高成長。仕事はシンドイものだったが、給与はソコソコ。組合はあったが、ユニオンショップ制のお抱え組合。
なのにスト直前の争議がおこった。


 あとから判ったのだが、その筋の団体から狙い撃ちにされオルグを送り込まれてガタガタ寸前にされたのだ。
そしてそのターゲットが池田店だった。なにも知らない私は店の組合支部役員(書記)をしていた。それは大学卒の主任に与えられるお決まりのポジションだったからで他意はない。 そのことが、その後の私の進路に多大な影響を及ぼすとは夢にも思わなかった。
 当時はオイルショックで超インフレ。 
物価上昇に給与が追い付いていない。社内的には腱鞘炎問題etc.をかかえていた。でもストをして要求を貫徹しようなんて誰が思っていたのだろう。
毎年、組合が要求したベースアップを殆ど会社側は飲んでシャンシャンシャンだったように思うが、この年は違った。組合が非常に高い要求を出し、業界の牽引車、全国労組のモデルケースとなろうとしたのだ。 

 上部団体(全繊同盟)以外のオルグが入り、拠点店舗でスト権投票という戦術にでた。組合本部が牛耳られていたので支部としては従わざるを得ない。スト権投票まえには組合と会社の熾烈な社員の抱え込みがあった。支部役員としては本部の指示通りには動くが、何とか穏便に済ませようと動いた。スト、休業のイメージダウンは会社にとって多大な損失だからだ。

 結局、なんとか調整がつきスト権投票は阻止できたが、そのシコリは長く続いた。賃上げが決まって、しばらくして人事異動があった。会社側の言わば粛清だ。組合支部役員には白黒ハッキリした異動があった。私には以外にも「人事」への異動が言い渡された。 会社側と判断されたのか? そんな意識は全くなかったのに。 やや後ろめたさはあったが人事・教育部へ異動した。
 やはり、裏はあったようで、教育部での担当は「新入社員教育」。
でその目的はしばらくしてわかった。新しく策定した新入社員教育計画を見た社長曰く「これをしたら皆、オレの方を向くんやな」。
争議後の社員の方向付けを任されたようなもの。コリャ大変や!