2013年12月24日火曜日

蛍池時代(その7・ガールフレンド)

なかなか小学校を卒業出来ないでいる。
書けば書くほど色々思い出すから仕方がない。
でも、ここらへんで卒業しよう。
最後の話題は女の子のこと。特にマセテいたとは思わないが、6年生の頃はよく女の子達と遊んだ。それもミス蛍池小学校クラスの可愛い子達だ。「達」と言うのは数名のグループでの遊びだったからで、どの子が好きのと言う話ではない。男は決まって二人、ボクと高松クン。 高松クンはなかなかのハンサムボーイだった。女の子の名前で覚えているのは青山さん・木山さん位か? あと二人位いたと思うが覚えていない。
よく青山さん宅で遊んだ。何をしていたかハッキリとは覚えていないが、唯一覚えているのは男女大綱のスモウ。 何故スモウなのかはわからないが、子供ながらによくやったものだと思う。
その後、中学に入ってからは彼女達とも高松クンとも交流はなくなった。
甘酸っぱい思い出ではある。

蛍池時代(その6・クリスマス)

今夜はクリスマスイブ。
小学生時代、ボーイスカウトに入っていたので毎年クリスマスパーティーをしていた。
学校の講堂を借りて、カブスカウト・ボーイスカウト・ガールスカウトと父兄も一緒になって日本的なクリスマスパーティーをやっていた。
毎年、校庭の大きなヒマラヤ杉をクリスマスツリーにして夕刻からスタンツ(寸劇)スカウトソングを各班ごとにする。キャンプファイアーの冬版と思えばいい。
夕飯は名物の闇汁。大きな鍋に色々な物が入っている。わざと下駄型に切った大根。大きなままの豆腐、肉の脂肪の塊・・・等々。味は忘れたがあまりおいしい物ではなかったが、電気を消して暗闇で食べる。だから「闇汁」お椀の中のものは全て平らげないとバツゲームがあった。
当時はまだ日本にクリスマスは定着していない時代だったので、クリスマスってのはこんなもんだとずっと思っていた。
未だに我国のクリスマスはクリスチャンでもないのにプレゼント交換したり、パーティーしたりでおかしなものだ。まだ家庭内でするようになっただけマシか!

蛍池時代(その5・家庭教師)

小学4年か5年の時、家庭教師がついた。先生は小田さんと言う当時、どこかの医大生だった人だ。
週二日位、夜に時間ほど家に先生が来られた。
英語(小学生なのに)が主だった。お陰で中学に入って英語を勉強するようになった時には既に中2の教科書の半分位まで進んでいて、英語が得意科目になっていた。(因みにいまでも英語は好きだ)
確か、中2位まで教えてもらっていたと思う。
毎回、終わりがけに母がオヤツを持ってきてくれる。その時が一番嬉しかった。あぁやっと終わったと。 
大学へ行って自分が家庭教師のバイトをやりだして近所の小学生二人を教え出してもオヤツがやはり楽しみだった。大学生にとって家庭教師は時間的制約はあるもののボロイバイトとではあった。週2回2時間で月8千円、時給が100円位の時代だったので効率的だった。
しかし、小学生時代に家庭教師なんてわが家は裕福だったのか?
しかし、あの小さな(今風に言えば2LDK)家でよくやったものだ。
困ったのはその時間帯のテレビが見れず、翌日友達の輪に入れなかったことか!

2013年12月8日日曜日

蛍池時代(その3・ボーイスカウト)

3年生になって担任の東先生からボーイスカウトへの誘いがあった。多分、態度の悪いボクを矯正させる狙いがあったのかもしれない。
ボーイスカウトは6年生かで3年生のボクは下部組織のカブスカウトに入った。
ボーイスカウトはイギリスの軍人、ベーデン・パウエル卿が提唱した軍隊の幼年学校の在宅版のようなもので、よく考えると「?」なものだ。
しかし、当時はカッコイイものでもあった。週に1回位に集会があって、色々なことを教えてもらった。活動は野外活動が主でよくキャンプをしたものだ。キャンプは最初キライだったが、いつの間にか好きになりボーイスカウトに昇進してからは毎週土曜の午後は夜間ハイクと言った半日キャンプによく出かけた。宝塚や箕面・能勢の山が主たるキャンプ場だった。今では開発されてその殆んどが住宅地になっているが当時が懐かしい。
夜間ハイクは本来、夜間の行動の訓練で通常はテントは持って行かない。食糧とシートのみをかついで歩きまわる。適当な場所を見つけて食事をしシートで雨露をしのぐ寝床を作り仮眠する。朝起きたら滝壺の上で寝ていてビックリなんてこともあった。それがオモシロかった時代であった。















蛍池時代(その3・疑惑事件)

小学校時代の一大事件のことを忘れていた。
暴行疑惑とも言うもので、6年生の時ボクが担任の中川先生に理科の実験中に何か薬剤をかけたというのだ。これは全く身に覚えのないことで、母が教頭によばれて「こんなことをする生徒は退学だ」と言われて初めて知った。そんな事実はなかったし、中川先生も何も言っておられない。母に詰問されても言うことない。そんなことはない。ボクの言うことを信じて欲しいとしか言いようがなかった。
誰が何の為にこのような話をでっち上げたのか分らないが、丁度その時話が進んでいた「健康優良児」推薦問題にからんでいたのか? この疑惑のお陰で推薦が取り消されたのは事実だ。
教頭が言った退学云々の話はどうなったのか、以後のことは聞いていないし、そのまま学校へは行っていた。 
キツネにつままれたような話ではあったが、その時はどうなることかと気が気ではなかった。
大人への不信感が増大したことは事実。






2013年12月6日金曜日

蛍池時代(その2)

書き出したら止まらない。
まぁ、子供たちの何かの参考になろうから続けよう。

比較的裕福だったと書いた。
いつの頃だったか、母が言った「お父さんの給料が10万円になった」と。当時のボクにはその意味がわからなかったが、今考えるとスゴイ給料だ。当時はアンパンが10円、梅田までの電車賃が30円の時代、今はパンが100円、電車は270円、従って物価は10倍になっている。としたら給料10万円はなんと100万円! 母が自慢たらしく言うはずだ。 昭和30年代、オヤジは四国に本社を置く小さな婦人手袋輸出企業の番頭格。日本が戦後復興を成し遂げようと必死に頑張っていた時代。そんなもんかもしれない。
日米繊維摩擦が起こるまで、繊維産業は日本の花形だった。
で、確かに食べ物も着るものも今から考えると贅沢だったように思う。母はお茶とお花を習い謡曲まで初めていた。ボクの着るものもよく百貨店に買いにいった。

しかし、オヤジの顔を見るのは日曜だけ、朝はすれ違い夜は必ず飲んで帰ってくる。オヤジっと食事を一緒にするのも日曜だけだったように記憶する。オヤジは非常なのん兵衛だった。家にはいつもキリンビールが箱で積んであったし、当時は高かったサントリーオールドが並んでいた。飲んだら怒りっぽくなるのには困った。日曜は昼間から酒を飲んで怒鳴り散らす。母が可哀そうだった。

蛍池には3,4歳から中学2年の秋まで10年位住んでいた。
当時の蛍池は住宅と田畑が混在する地域で小学校の横は田圃だった。飛行場さえなければいい所であった。
学校までは100m位でいつも正門まで行くと遠回りになるので生垣の間から学校へは行っていた。みんなが毎日通るので人一人分の隙間が出来ていたのだ。
小学校時代の成績は覚えていない。良くも悪くもなかったのだろう。しかし、授業態度はあまり良くなかったらしい。教室ではいつも最前列の左端、先生の机の前が指定席だったのを覚えている。それに給食が食べられなかった。不味かったからだ。当時の給食はアメリカの援助物資でバターっけのないコッペパン、クジラ肉のシチュウ、脱脂粉乳の3点セット。パンはパサパサで、クジラ肉は臭いし脱脂粉乳に至っては飲めたもんじゃない。しかもあのアルマイト野食器も味気なかった。給食を食べ終えるまで午後の授業が始まっても給食とよくニラメッコさせられた。机の中には干からびた食べ残しのパンがゴロゴロ、それでよくここまで大きくなれたものだ。
今頃になって給食の味が忘れれられないなんて言う人がいるが信じられない話だ。
取りとめの無い話が続く。一つ思い出したら次々と出てくるものだ。

学校にはプールがなかった。そこでPTAも協力して作ることになった。お父さん連中が休みにスコップを持ってプール作りに駆り出された。今では考えられないことだが父兄の努力で3年生位の時にプールが完成。運動神経の鈍いボクにとって唯一自慢できる運動は水泳だった。だれにも教えてもらわずにスイスイ泳げた。しかも早かった。多分学年1,2を争うスピードだったと思う。
もう夜も遅いので今夜これで止めにする。
書き出したら止まらないので・・・。






























2013年12月5日木曜日

蛍池時代。

音対策で二重窓だったのを覚えている。学校の端の一部は飛行場に隣接している程近かったからだ。飛行場は鉄条網で囲まれ、犬を連れた兵隊
物心ついた時には豊中市蛍池にいた。
生まれたのは四国・香川県大川郡白鳥町松原133(今は香川県東香川市白鳥町)蛍池も移った頃は麻田と言った。 旧麻田藩の領地だったからだろう。 麻田藩は城も無い陣屋だけの極小大名、今はどうなっているかは知らないが、昔は駅の近くに旧麻田藩の大きな石碑があった。
蛍池って池もどこかにあったのだろうが、当時はため池が多くありわが家の横にも名前は忘れたが池があった。
わが家は坂の横に建つ一軒家、小さいながらも庭もあり、大きな柿の木もあった。富有柿で1年おきではあるが大量の実をつける木だった。
実はダイエーを辞めて有休の時にママと二人で蛍池を探検したことがあり、家の場所は確認できた。
6畳・4.5畳・3畳に台所・風呂もあった。そこに両親と兄の4人で暮らしていた。今から思うと狭い家ではあるが、当時はそんなこと何も考えたことがなかったし、高台にあったので見晴らしは良かった。
兄は4.5畳の部屋を独占していた。丁度、兄は高校受験だったからだと思う。ボクは縁側に学習机を置いてもらいそこが我城だった。勉強なんてしなかったし、出来る環境でもなかった。
その頃、オヤジは東讃莫大小(莫大小:メリヤスと読む。メリヤスは布の種類でわかりやすく言えば肌着の布と思えばよい)と言う会社の役員一歩手前で、ある日オフクロさんが「お父ちゃん取締役になった。これで定年もないし、あんしん」と言っていたのを覚えている。
そんな状況なので多分、他の家庭よりは裕福であったと思う。
電話は町内初だったし、TVも一番に買ったとおもう。勿論白黒の14型。
場所は蛍池小学校の近く、もっとわかりやすく言えば伊丹の飛行場(今の大阪空港)の近く。当時はまだ米軍がいた。しょっちゅう戦闘機が飛んでいたし、夜中はエンジン整備の音がうるさかった。当時は珍しく小学校が防が警備していた。まだ、日本に進駐軍がいた時代だった。
今日はここでオシマイ。続きがあれば又加筆しよう。





2013年1月16日水曜日

阪神淡路大震災・18年

17日は阪神淡路大震災被災18周年。
一昨年の東日本大震災で阪神大震災のカゲは薄くなったようだが、
我々被災者にとってはやはりあの震災抜きには考えられない。

1995年(平成7年)1月17日
個人的に言えばあの日から人生は大きくウネリ出したと思う。
大震災がなかったら、例のKLWにGoサインだでて(17日に神戸市と関係企業の最終合意会議がある予定だった)それから紆余曲折はあったにしても上手くいけば、KLWへ出向して、上手く行けば役員にでもなって・・・、定年までゆっくり出来たかも!
何せ、KLWワーキンググループのダイエーサイドのメンバーだったのだから!
でも、KLWはディズニーとUSJに完敗していたかも???
「・・・鱈の話はアリューシャン」 

マジな話。
今問題になっている東日本大震災の復興が遅れている問題。
比較すると・・・・・。
阪神は地震・火事で焼失、東日本は津波で流出
阪神は都市直下、東日本は地方の海岸沿いで面積が広い。
それに原発事故まで含まれているのだから大変の域を超える。

阪神が3~5年で復旧したのは都市のパワー。
壊れた建物は殆んど企業が復旧した。
東日本は津波で土地までえぐられて地面(土)の復旧までは国がしてくれない。
何故なら土地は個人資産であり「公」が手をつけるには特別な立法措置が必要になるからだ。
それに津波の被害を100年で3回(明治・チリ津波・今回)も受けている土地に再度家屋や工場をたてるのか否かの合意も中々出来ていない。
阪神の時でも壊れたマンションを建て替えるのに住民の合意が中々まとまらなかった。
東日本の場合、町全体を高台に移すか元の場所に再建するか?というのだから合意するのは至難の技。
最終的には行政が国民の合意を得て、再建に資金を出さざるを得ないだろう。
しかし、震災だけ優遇するのはムリがあるかもしれない。
例えば、他の災害や火事で損害を被っても何の支援もないのに・・・・。
政府の強力なリーダーシップが必要になる。

それに福島原発の問題もある・・・・・!

・・・・オシマイ・・・・