2011年7月31日日曜日

成績アップ!

オヤジの事業が絶好調であったのと母親が「教育ママのハシリ」だったので小学校時代から家庭教師がついた。
毎週2回、夜大学生の先生がやってくる。見たいTVもあるのに、勉強させられた。ただ小学校時代から英語を勉強したおかげで、中学になって英語だけは直ぐに馴染めた。
成績がアップしたのはその家庭教師さんのお蔭もあるが、それだけでもないと思う。
中学2年の時、テスト勉強で何を思ったのか「教科書からそのポイントを書きだす」と言うことをした。何故そのようなことをしたかは不明、ただそれで成績は飛躍的にアップした。クラス20番(50人中)から突如4番になった。4番以上になることはなかったが!当時1番は結果的に一橋大・大蔵省へ行ったヤツ、2番も3番も東大・有名企業へ、こりゃ追いつけない。4番キープが関の山だった。
もう一つは前述の英語のアドバンテージ、英語はいつも90点台、それに社会科は元々得意。2教科楽勝なら残りが楽で4番に。担任の先生もビックリ。オフクロさんも喜んでくれた。
以後、成績は上位を占めることが出来た。

2011年7月30日土曜日

「団塊の世代」とはよく言ったものだ!

堺屋太一氏が我々戦後のベビーブーマァーのことを「団塊の世代」と名付けた。
確かに塊だ。現在1年間の出生数は120~130万人位、われわれは250万人もいる。しかも3~4年連続で。1000千万人位のカタマリ、社会も経済もこのカタマリを無視出来ない。今やそのカタマリが老後という世代になった。
このカタマリは我々が生れて死ぬまで続く。
小学校時代は校舎が不足し一部はプレハブ校舎、体育館もプールもなかったから我々の時代に作られた。プールは父兄の労働奉仕で作られたのを覚えている。オヤジ達がグランドの片隅をスコップで掘って作ってくれた。中学では寄付を集めて体育館を作った。でも使ったのは3年の後半だけ。
我々の世代は新しく門戸を開く役割だった。
義務教育が終わると死ぬまで競争だといわれた。高校受験に始まり、大学受験、就職・結婚・最後は墓場まで不足しているからだ。
当時、高校は公立の新設高が何校か作られた。大学も急遽定員が5割位増やされた。就職は丁度高度成長期で割合に楽ではあった。
最後に残された墓場は現在進行形。墓地も増設されているみたいだ。しかし、葬式屋のあては外れるかもしれない。何故なら、もう形式ばった葬儀をする人がすくなくなるようだからだ。私もしないつもりだ。
団塊2世と言うのもいる。我々の子供たちだ。私は結婚が遅かったので息子達は団塊2世からずれているのは幸いだ。
いま、我々団塊世代が定年を迎え超老人世界が始まろうとしている。
どうなることやら!

2011年7月29日金曜日

ボーイスカウト

小学校3年になってボーイスカウトの低学年版カブスカウトへ入隊した(させられた) 
小学校担任の奥田先生がボーイスカウトの隊長だったと思う、その関係からか、クラスの男子が揃って入隊した。最初はイヤだったけれど直ぐに好きになった。
今で言う、ボランティアやアウトドアetc.スカウト活動では学校以外のことを色々と体得したように思う。山で遭難しても生きていけるし帰る術も学んだ。
小学校6年になると正式にボーイスカウトになれる、一人前扱いだ。
そうなると毎週末と言ってよいほど、仲間2~3人で夜間ハイキングに出かけた。池田から箕面・能勢方面の山は歩きつくした。正式には「夜間歩行」軍隊の訓練みたいだ。夜食とシーツ位だけを持って山を走破する。基本的には寝ないが、暗闇で夜露をしのぐ場所を作り仮眠した。目を覚ましたら崖の上ってこともあった。
料理も得意になった。ボーイスカウトで培ったものは大切な宝物だ!

2011年7月28日木曜日

担任の先生

小中高と担任の先生がいらっしゃる。
母校「関西学院大学」には大学なのに担任の先生がいた。

担任の先生の名前を全て言えるかと言うと「?」。
小学校は1~2年生はお母さんみたいな優しい林先生、3~4年はボーイスカウトでお世話になった奥田先生、5~6年はご夫婦だけで家を建てられたことで有名な中川先生。印象強くみんな覚えている。
それが中学では1年の担任は個性豊かな伊東先生しか覚えていない。
伊東先生は毎日日記を書かせ提出させるのがイヤだったけど、お蔭で文章を書くのが好きになった。伊東先生には感謝!なんと以来、結婚するまで日記は続いた。青春の記録だ。何故か結婚を前に焼却した。大学ノート数十冊はあったと思う。おしいことをしたもんだ!
中学時代の他の先生は思い出せない。
高校へ行くと全く思い出せない。3年生の時が池田先生かな?
先生ごめんなさい。
で、関学時代の担任(ゼミではない)は宇都宮教授、関学はミッションスクールなのでキリスト教学というのがあって、宇都宮先生はその講座(必修)を担当する牧師さん。
いつも言われていたのは「キリスト教でなくてもいいから、信仰を持ちなさい」 結果的にそれを実践はしている。
ゼミの担当教授は簿記史研究の第一人者・小島夫佐男先生。必然的に研究テーマは「イタリアにおける複式簿記の発展史」
各先生ありがとうございました。

2011年7月27日水曜日

”お○○”・・・義妹!

女性のことばかり書いて・・・、蛇足ながらもう1件。
”お○○”が今、唯一のお友達。(名前は伏せておきたい。何故なら現在進行形だから)
彼女はママの友人でママがガンとの遊病生活を送っていた時、真の兄弟以上に面倒をみてくれた。家が近くということもあって、毎朝、毎夕時間があればママの面倒を見てくれた。頭の下がる思いだ。
必然、ボクとも仲良くなり、ママの死後もお付き合いが続いている。
そこで友人以上の関係になったらお互いマズイので「義兄弟」になることを思いつき彼女に話した。彼女にはご主人もお子さんもいるから独身になったボクが万が一「手をだしたら・・・」大変だからだ。もちろん彼女の家庭のこともよく知っているし、何度もご主人とも飲みに行ったりもした。
「優さんの妹みたいやったから、ボクは兄ちゃんやろ!」と言うと彼女も心得ていて、義妹になることを了解した。
それ以来、ボクは妹として「”お○○”」とよび彼女は「兄ちゃん」と呼ぶ。最初はそう呼ぶことに抵抗はあったが、今では人前でもそう呼び合っている。知らない人は本当の兄弟と思っているかも。でもそう呼び合っていると余計に可愛い妹っぽくなってくる。兄弟以上に親しい間柄になった。

2011年7月26日火曜日

オフクロの味   

オフクロの味と言うのが各家庭にあると思う。
わが家にはそれ以外に「味」がある。オヤジが持ち込んだプロの味だ。
鯛メシ、蛸の甘露煮、すき焼きとか酒飲みのオヤジが各料理屋から聞いてきてオフクロに作らせた味だ。ありがたいことにこの味をもママはマスターしてくれた。残念なのは次の代へは引き継ぐ人がいなく途絶えてしまったこと。
オフクロの味は彼女の身についた船場風のものと料理家・土井 勝先生直伝のもの。ほとんどが和風、そこへママの洋風が入って同居時代は料理に文句はなかった。
当時としては当たり前のことだが、正月のおせち料理は1週間位前から準備し、重箱三ツは作っていた。正月はオヤジの会社の社員が年賀(新年会)にやってくるので、その時はオフクロは女子社員を使って20人分位の料理を作っていたのを覚えている。絶頂期の頃の話。
最大の喜びはママがオフクロを全てマスターしそれを越えてくれたこと。
ぼくはラッキーだったが、息子達は不幸かも?

2011年7月25日月曜日

ママとの思い出(その2)・・・「浮気はOK」   

彼女はボクの「女好き」なのは百も承知している。
(誤解のないように女好きと言っても絶対に一線は越えない)
そんなことを知ってか知らずか、ママは「浮気はエーけど、本気はアカン」が口癖。これはすごいプレッシャー。
結婚してからも何故か殆ど常に「親しい女性」はいた。で、今風に言えばほとんどがパワハラ・セクハラ的・・・?  つまりは社内の気にいった女性。ガールフレンドだ。スワちゃん・香代子さん・智也子ちゃん・智子さん・・・etc.
食事に誘ったり、飲みにいったり、ドライブしたり・・・程度のお付き合い。
不思議だが、それがママに全部ばれている。ボクも喋る。バレていても彼女は何も言わない。「浮気はOKなのだ」 逆にバレた娘は家に食事に招待したりもした。結婚するからと言って彼氏と来た娘もいた。どんな関係やったんやろ?
一度、車に高速の領収書が落ちていて見つかった。「あれ、こないだは京都いってたの?」てサラッと言われてドキッ!でもただそれでオシマイ。彼女は見て見ぬふり。
もう一人くらい子供欲しいって言った時、「子供欲しかったら外で作っておいで、認知してあげるから!」って。そんなこと言われたら何も出来ない。極め付きは「××子ちゃんはアカンよキツそうだから」とか「△△子はイマイチ」とかNGをつける。で、お付き合いしていた女性はみんな幸せな結婚し家庭を持っている。
何事もなかってOK!

2011年7月24日日曜日

ママとの思い出(その1)・・・「ミスドラ」

ママとの思い出を徒然なるままに・・・。
「ミスドラ」  (ミステリードライブ)
子供が大きくなって親とは付き合わなくなった頃、ママと二人でよくドライブした。 
予定のない休日の午後とか、あり合わせのオヤツを持って、目的地を決めず取り敢えずスタート。家を出て最初の交差点から「右」「左」とかママが言うとおり当てすっぽうに車を走らす。昔、JRがやっていた「ミステリー列車」の車版。
ウロウロしている間に「あっアソコ行こう」となって目的地が決まる。
家の周辺は北摂の山、ドライブにことかかない。何回もそんなことをしているので、周辺の道を全て走りつくしてしまった位。
一番遠いところは「大江山」(もうすぐ日本海)、南は「和歌山マリーナシティー」かな。走っていて「ココ前に来たね」「エッ、こんなとこ来てないよ。誰と来たん?」てなミスもあったりして。
道の駅やドライブイン寄ってイランモン沢山買って帰るのも楽しみ。
あのころが一番よかったんかなぁ・・・?

2011年7月23日土曜日

オフクロさん(お婆さん)のこと   

母、森本一恵(旧姓:寺井)。
大正年10月15日、福井県小浜市の生れ。小浜藩の下級武士の出、戦後は下駄屋を営んでいた。
女学校を卒業後、大阪船場の商家へ女中見習いにで、そこでオヤジと見合いをして結婚した。だから必然的にわが家は船場風。
彼女はイメージとしてウルサイ・キッチリしたオバハンだったと思う。でも、ウルサイだけに何でもできた。料理から裁縫までピカイチだったと思う。それに趣味、茶道・華道・謡曲etc. 覚えているのは料理家の土井 勝先生の孫弟子みたいで、先生のオッカケのようなことをしていた。だから和風料理は土井流の関西味。
PTAの役員やボーイスカウトの世話、それでできたグループのお付き合い等、家にいることも少なかった。
和菓子が好きで、家にはいつも甘いものがあった。で、糖尿病になり大腸がんで76歳でなくなった。
戦前、戦中、戦後、高度経済成長、不況倒産と波乱万丈的ではあった。
優さんとのトラブルもいつしか解消、と言うより非常に仲良しになり不思議・不思議。
天国でも走り回っているんだろう。
オシマイ。

2011年7月22日金曜日

オヤジさん(お爺さん)のこと。(その2)

家族揃って豊中での生活が始まった。
オヤジは「東讃莫大小㈱」の大阪の責任者。 讃岐の東の莫大小(メリヤス)会社。具体的には婦人用手袋の製造輸出。
白鳥はその後「手袋の町」と呼ばれるようになる程、手袋生産が盛んになった。何故、手袋なのかはわからない。手袋生産は全く前時代的だ。家庭の主婦の内職、技術を教え、ミシンを貸し、出来高払い。 白鳥の町はミシンの音がどこへ行ってもしたもんだ。
私が小学校から中学の頃、最盛期だったようだ。輸出先はアメリカ・カナダのタデパート・チェーンストア。 
その後、三井物産の後押しもあって「東亜手袋」と言う会社を作り独立。これは九州の産炭地振興事業で、三井系の炭鉱の町へ工場をたて地元に雇用産む為の国策事業であった。しかしながら、不況が襲い三井の後押しがなくなり即倒産。 
笑ったらダメだけど、私が大学受験に失敗し、涙ながらに家に帰ると母が会社が倒産したという、父・子揃って浪人になった。
それから2
2~3年は「売り食い」の時代が続く。母の道楽が役に立った。母は以前から茶道・華道・謡曲と趣味の世界へかなり金をつぎ込んでおりそれら骨董品等を売ることで食いつないでいたようだ。 
私もその時から親の支援は期待できないので、予備校もやめバイトをして小遣いを稼ぎ、1年後なんとか大学合格をはたした。それでも授業料だけは出してくれた。逆に言うと授業料以外は自分で稼がないといけなかった。家庭教師のバイト、Golf場のキャディ等で何とかなった。不自由はなかったように思う。
父も新しく起業し、家族3名何とか頑張って生活していた。
それがGolf場のキャディーさん用の作業手袋、しかも通販! 昭和40年代に通販とは!宅配便のない時代、クレジットも普及していない。商品は小包で送り、代金は郵便振替で回収した。心配した貸倒もなくこの事業はオヤジが倒れるまで続いた。 オヤジのGolf好きも役に立ったものだ。
(続く・・・)

2011年7月21日木曜日

オヤジさん(お爺さん)のこと。(その1)

オヤジさんのこと。
つまりは森本勝治のことについて知る限りを書いてみよう。
これ以前のルーツは調査不足でわかりません。

森本勝治、明治38年11月8日・香川県大川郡白鳥町(現東かがわ市)生まれ、同年は日露戦争で帝国海軍がバルチック艦隊を撃破した年、だからその時生れにには「勝」が多く使われている。因みに私の生まれた昭和23年頃は日本国憲法発布にちなみ「憲」の名前が多い。当時の親は単純やった。
没年:昭和56年11月4日(76歳)脳梗塞で自宅療養中、死去

勝治は森本家の10人(?)兄弟の末っ子。当時(明治中期)のこと当然扶持減らしに奉公に出された。
彼は大阪船場の綿布問屋「井上??」へ丁稚奉公し、戦争に行くまえには手代(課長?)位には出世していたはず。
寺井一恵と昭和11年に結婚。大阪の南久宝寺町に居を構える。
その結婚式の映像、しかもカラーで残っている。8mmが医のう家のボンボンの趣味で映してくれたらしい。当時の商家の様子もわかる歴史的価値がある。以上余談。
兄が生まれ、しばらくして出征した。いわゆる赤紙がきたのが12月7日、真珠湾攻撃の前日、いよいよ戦争かと思ったそうだ。
戦時中、家族は故郷の香川県へ疎開。勝治は海軍で掃海艇に乗ってセレベス(インドネシア)へ、4年間で戦闘は1回と言うから暇な戦場もあったものだ。ただ、その1回の戦闘で足を撃たれ、弾も摘出せず復員した。
22年復員、私は香川県の疎開先で生まれた。
復員後は当然のごとく以前の仕事はなく、色々な仕事に手を出したみたいだ。 その時何故かタイガースに関係していたらしい。疎開先で「貸本屋」をしていたことも、店の前で映した写真が残っている。因みにその時の屋号が「回天堂」。25~6年頃の話。
その後、大阪で仕事をみつけ、家族揃って大阪府豊中市蛍池転居した。
オヤジの仕事は手袋屋だった。
(以降その2へ)

2011年7月20日水曜日

特定疾病

「特定疾病」についてあまり知られていませんが、又、口外して良いものかどうか少しは躊躇しますが悪いことしている訳でもないので、書いてみようと思う。真意は皆さんへの感謝です。
今、慢性腎不全を病み人工血液透析を受けています。
知らなかったのですが、透析患者は身体障害者なのです。よくよく考えると身体の中の臓器が一つないのだから障害者なのか? 外見的には健常者と変わらないのが問題になる時もある。
障害者であると同時に慢性腎不全患者は国から「特定疾病」に指定されており、医療について非常な保護を受けている。
なんと医療費が殆どタダなんです。 特定疾病に指定されると医療費はいくらかかっても月額1万円(残額は健保負担)で良くなります。さらにその1万円を都道府県が殆ど負担してくれるので実質患者負担はゼロに近くなります。(都道府県別に負担額は異なる)
透析患者には非常に助かる制度です。何故なら透析は決まった日に受けないと死にいたる可能性のある病気だからです。
でも、心苦しいのはその金額です。透析には1回あたり3万円もかかります。しかも週3回受けなければならないので(月13回位)その金額は月40万円(薬代含む)にもなります。年額になおすとなんと500万円にもなります。
透析患者1人で健康保険から年に500万円も負担してもらっている。これはかなりのお金持ちでも自己負担出来ない金額です。患者にとってはありがたい限りです。(但し、その意識を持っている人は少ない???)
国(健保)の負担総額は計算するとビックリするような金額になります。何故なら透析患者は約30万人もいるからです。500万円×30万人=?兆円
透析患者にはありがたい話ですが、国(健保)の負担があまりにも大きいのには??? しかも、透析は患者が死ぬまでしなければならないし、慢性腎不全患者は年々増え続けているというから驚くべき負担です。
健保が赤字だから来年から半額負担とか言われると困るというより死んじゃいます。何か良いてだてはないものでしょうか?
取りあえずは「感謝・感謝」で透析をうけています。

2011年7月19日火曜日

ダイエー時代・最後の10年

ダイエーには25年間いた。
ただ、最後の10年間はスーパーのダイエーの仕事とはかけ離れたものだった。
神戸本店室・渉外担当(最終は神戸渉外部長)
神戸は創業者であり会長社長CEOであった中内 功の財界活動の拠点。
財界活動は既に東京で経団連の副会長に就いたので神戸は余分のように思えたがやはり出身地・創業地ということで最後まで神戸への思い入れは大変なものだった。
主たる仕事は神戸商工会議所の会頭に就任させること。
その為、行政との密接な関係保持、会議所始め諸経済団体との良好な関係構築。
具体的には何をすれば良いのか難しい。それに本店を移したことでのいわゆる本店業務、お客様にとっては全ての窓口(クレームetc.)それを責任者の常務と男子4人、女子3人でするのだから大変。
本店業務をしていれば渉外業務が出来ないし、本店業務は待ったなしの事項ばかり。店の未解決クレーム対応から株主(特殊含む)対応、刑事事件(脅迫・事故etc.)対応まで気の安まる時がない。
そんな中で行政以外の渉外を担当した。
小は町内会の寄付対応から大は海外(主に米国)経済問題対応まで。
早朝の新聞各紙チェックから何か事件・事故があれば帰れない場合もあり。10年もよくやっていたと思う。
ポイントとなる人物とは「やぁやぁ」の関係を保つ必要がある。それには夜のお付き合いも必要。元来、酒は好きだし、強いほうだから良かったが、おそらくそれが元で体調を崩したようだ。
思い出してみても色々なことがあり過ぎて・・・!
大きな出来ごとについては又ボチボチ書いてみよう。(続く?)

2011年7月18日月曜日

ママ・優さんのこと(その2)

優さんについて良いことばかり書いたが、こんなこともあった。
結婚した途端、新店の次長に異動して家には寝に帰るだけの状態が1カ月以上続いた。全く新婚生活なんてなかったのが悪かったと思っている。
色々あって結婚1年が過ぎた頃、優さんは良く箕面の実家へ帰っていた。近いこともあり、両家の行き来は頻繁だったからさほど気にもしていなかった。
が、ある日箕面から帰らないと突然言い出した。何故? どうして?
そこで初めてわかったのだが、オフクロと上手くいっていなかったらしい。具体的に何がというのがハッキリしないのが女性同志の問題?
むりやり連れて帰り、3人(オヤジは亡くなっていた)で徹夜で話あったのを覚えている。でも解決しない。どちらの味方をすれば良いのか色々と悩んだし、先輩・友人の意見も聞いてみたりもした。
このような場合、やはり妻の方を持つべきなのだ。オフクロは血のつながった間柄、妻は他人。いくら妻の方を持ってもオフクロとは切っても切れない関係だからOKらしい。・・・という先輩の意見を尊重した。
イツ、どのようにしてかは忘れたが、そんな大事件があってから二人は上手くいっている。だから女はわからない。
「私は従婦やから」と優さんの口ぐせ。主婦はオフクロだという意味。
これで解決したのか?
未だにわからない。
二人は天国で仲良くしているかしら?

2011年7月17日日曜日

阪神タイガース(その2)  

最初に甲子園へ野球を見に行ったのは小学生位か。
球場入口付近で「あれが吉田や」と父に言われみると、小柄なユニフォームを着た選手が身体より大きく見えるバッグを引きずりながら歩いていた。その時から吉田のファンになった。最初にあった選手と言う単純な理由からだ。でも吉田の華麗な守備は魅力的だった。する野球は下手なボクにとってどうしてあんなに踊るようにボールをとれるのか不思議だった。吉田・三宅の三遊間を抜くのは無理な感じ二塁手の鎌田も上手かったので内野ゴロなら完全にアウト。ゲッツーも見ものだった。
毎月1回位のペースで身に行っていたと思う。当時は弱かったからか、いつも(巨人戦以外は)空いていたように思う。
観客もガラが悪く、負け試合になりうと強烈なヤジがとぶし、フェンスを乗り越えてグランドへ乱入する。それも面白かった。
まだ「大阪タイガース」の時代の話だ。(続く?)

2011年7月16日土曜日

妻・優子さんのこと。

妻・家内・嫁ハン・・・etc. 色々呼び方はあるがボクは妻・優子のことをずっと「ママ」と呼んでいた。勿論子供が出来てからだが。
おもしろいことに、子供は「お母さん」と小さい時から呼んでいた???
優さんもボクのことを「パパ」と呼んでおり、外でも「パパ」らしく、彼女の友人までボクのことを「パパさん」って呼んでいた。
で、彼女との出会いはダイエー時代の人事部にもどる。
ボクが人事部・教育担当に異動した時、彼女が人事部の女子社員だった。
その時ボクは傷心で直ぐに次の女性と言う気持ちはなく、1年がすぎた。
1年後、優さんと付き合ってトントン拍子に話が進み結婚することになった。
彼女の家に初めて行った時、ご両親が出てきて「よろしくお願いします」・・・? 何かハメラレタ感じ、でも成り行きに従った。
でも彼女がこんなに良い奥さん・出来た嫁さん・良いお母さんになろうとは思いもせず結婚した。極端に言えば何でも出来たし、したから。ラッキー!
家事全般・父母の介護もちろん育児etc. 全て第1級だった。
一番のラッキーは料理の味、お袋の味を全て習ってくれていた。
唯一の欠点は、最大の欠点でもあるが、彼女がボクを残して死んでしまったことだ! 考えてみたこともなかったが事実。
優さんとの30年は夢のように過ぎ去った。

2011年7月14日木曜日

ダイエー時代

大学を卒業してスーパーのダイエーに入社した。
なんでダイエー?
単純な理由、昇進が早い。入社2年目で主任と言う売場責任者になれる。その後の昇進も実力次第。それに関西の会社だから。
さらに言うと簡単に入れたから。(当時、各企業は大学時代の「優」の数を受験資格にしていたが、なんと「優」が一桁しかなかった)
予想通り、入社2年目には売場(食品部門)主任に、3年目には池田店(大阪府)という超売れる店の主任になった。部下12名・パートさん25名、年商10億。月商1億を目標にしたが出来なかったのが残念。
その後、人事部に異動、社員教育を3年担当した。妻・優子とは人事部で出合い、結婚した。結婚と同時に西宮の新店の店次長に転勤した。
店次長を3年勤め、地区長(数店舗を管理)のスタッフに迎えられ営業企画の仕事をした。この間は勤務もフリーで楽だった。
ダイエーではどこの部署にいくにしても店長を経験していないとバカにされる傾向にある。その為でもないが小さな店の店長を3年経験した。
朝7時出勤・夜は9時頃まで仕事、家には寝に帰るだけ、休みは水曜日1回のみ、子供と遊んでいる時間もなかった。
そして、その後10年余りは新しく出来た神戸での渉外の仕事をした。社長の財界活動のスタッフで何をするにも目新しいことばかりで非常にタイトだった。
行政・商工会議所・各種団体etc.との良好な関係を常に保たなければならないセクション。ダイエーの商売とは異質すぎる仕事だった。
その仕事は阪神淡路大震災で大きく変わった。会社が被災し赤字転落、リストラになったからだ。
その後、関連会社の役員ポストへの移動が内示されたが、勤務地が東京であることがイヤで退職した。
以上がダイエー時代の概略。

人工血液透析

だれも自分の将来はおろか明日、今日の午後のことさえ分からない。
だから人生はオモシロイのかも?
まさか自分が腎臓を病み透析を受けるハメになるとは思ってもいなかった。
ある日、身体が全く動かなくなり(Bedから起きることさえ出来ない)たまらず病院へ。
担当医から「慢性腎不全・透析」と言われ人生もこれまでか! 
透析=不自由=オシマイと言った図式が頭をよぎる。
腎臓がそれまでの暴飲暴食で経年劣化したのか? 後悔先に立たず!
それから毎週3回(月・水・金)1回5時間の透析を受けている。
要は、腎臓が完全に機能せず(慢性腎不全)体内の排斥物が体外へ出ない(小便がでない)そのままだと体内は水分と老廃物で一杯になり臓器に負担をかけ死に至る。
私の場合、以前に一度その水が肺に溜まり、息が出来なくなって救急で運ばれたことがある。その時は1カ月の入院で治ったが、その後の不養生が今日に至った。身から出たサビだ。
透析治療自体は時間的に拘束される以外どういうことはない。
ダイヤライザーと言う人工的に腎臓の働きをする機械に血液を透すだけ。
ダイヤライザーは血液から不純物と不要な水分を除去してくれ、キレイになった血液を体内に戻す。腕に2か所(出と入り)針を刺すのが痛いだけ。
苦痛と言えばじっとベッドに寝ていなければならないだけ。針を刺した腕さえ動かさなければOK.ベッドにはTVもあるし、極端に言えば食事しても構わない。一度食事をしてみたがあまりにも味気ない(実際旨くない)のでやめた。
「大変ですね」と言われるが、確かに大変は大変だが、考え方次第。
病院へ行かなければと言う拘束じみた考えから病院へ行って休養しようと言った前向きな生活へ。実際透析5時間中3時間以上は寝ている。だから、家では3~4時間寝るだけになった。拘束問題は解決、夜遅くなっても明日病院で寝られるからと思えばラッキー。それに殆ど同時に仕事をリタイアーしたのも幸運だった。
とりあえづココマデ。
腎臓・透析・病院etc.について書きたいことは沢山あるが、後日に回します。

2011年7月12日火曜日

字をかくこと  

元々、字を書くことは下手だが、最近特に下手になって来ているのは私だけではないだろう。又、字をかくのが億劫になりより字がきたなくなりつつある。
PCのせいだ。
つい最近まで文字は紙に筆で書くものが近代になり色々な筆記具ができ、我々の時代は万年筆・ボールペン・鉛筆。 最近の世代は鉛筆と機能は同じだが削る必要のないシャープペンシルになり、ナイフを使うのが下手になっているとか。
時代だと言えばそれまでだが、このBlogもペンで書けと言われれば書いていないと思う。
PCの良い(悪いかも?)ところは漢字を変換してくれるところだ。だからかなり難しい漢字でも書ける。困るのは誤変換、色々な誤変換が笑いを招くまでは良いが違う意味になったりしては大変だ。必ず読み直しをしなければマズイことになる。
時代の変化ではあるが、字は上手に書きたい。時代だからこそきれいに書きたい。字を書かなければならない時に慌てないように!
そこで習字をはじめようと思いやりかけたが、これも三日坊主以前で終わった。
いやはや悩みはつきない。

2011年7月11日月曜日

ママと乳がん

妻・優子は乳がんが元でで亡くなった。
あんなに元気そのものの彼女が!
最近、乳がんにかかる人が多いように思うが、乳がんでは死なない。
がんで死ぬのはがん細胞が臓器を犯すからで、乳は臓器ではない。(子宮も同様かもしれない)しかし女性にとって育児に必要なものではあるし、女性をシンボライズするものでもあることも事実で重要な肉体の一部ではある。だから女性にとっては非常に大切なものであることは間違いない。
そのことを知ってか妻が乳がんと診察された時、彼女は乳がどうなっても良いかと私にたずねた。彼女は乳がんに正面から立ち向かおうとした。信仰的な理由もあって彼女は乳がんの手術や抗ガン治療を拒み、乳がんと一生付き合うことにした。他の臓器に転移しなければ生きられる、乳がんと共に生きる。非常な覚悟だったと思う。
乳がんは勿論、女性特有なガンだ。だから女性ホルモンのバランスを変える(つまりは男性化する)と乳がんは治まる(小さくなる)これで彼女は12年生きた。医者も「学会で発表したい」と言うほど驚いていた。(学会で発表には初期の写真等がなく出来なかったが)
転移を抑えることは出来ないが、小まめな診断で転移の早期発見は可能で、月1回の診察でそれを乗り越えた。10年以上、毎月病院へ行き二人で医師の診断結果を聞き対応するのが習慣だった。
彼女はよく頑張った。「頑張る」と言う言葉と「闘病」と言う言葉が嫌いだったが。自身「遊病」と呼んでいたほどだ。
しかし図らずもガンは脊椎に転移して歩けなくなり、寝た切りになっても彼女は気丈だったし明るかった。
遊病生活が幸せだとさえ言うので看病する側も気が楽になった。そんな彼女を看ていると看病も楽しく(?)毎日が充実していたように思う。(看病は1年半続いた。医師は余後3カ月と言ったが)
でも、もう少し生きていて欲しかったなぁ。ずっと看病生活でもいいから続いて欲しかった。
最終的には脳にガンが転移し、4年前の朝アッと言う間に彼女は眠るように息を引き取ってしまった。何も言わずに・・・。
ボクが愛した、愛してくれた優さんは天国に行った。
今、思うにボクにとって過ぎた伴侶だった。

2011年7月10日日曜日

年 金 

60歳になって年金受給者になった。
ここのところ65歳受給に向かって毎年受給年齢が繰下げられているが、そのギリギリ年齢だったので60歳から貰えた。
色々と問題を抱える年金、今は驚くほど応対がいい。
今まではどうやったんやろ?と思う。 銀行みたいだ。 受付に案内のオッサン(これが女性なら)がいて案内してくれる。銀行みたいに番号札をとって待つ。
※初めて行く人はありとあらゆる年金書類+印鑑+住民票位は必須持参物。事前にTELして聞くのがBest.(居住地の年金機構事務所)
窓口では懇切丁寧に調べ教えてくれる。(だから時間がかかる)
問題は転職して記録が散逸している人や未納期間がある人。私の場合、転職は1回でそれもキチンと記録があったので全く問題がなかった。
とにかく60歳までに手続きをお勧めします。何故なら申請から受給まで2~3カ月かかるから。
サラリーマンの場合、国民年金と厚生年金の合計が支払われる。
まずは国民年金の手続きをして、厚生年金の手続きをする。
厚生年金は国民年金(国)がOKしないと手続きを始めてくれない。
国民年金がOKすれば厚生年金はノーチェック。
支給額は個人別に異なるが、私の場合月15万円位。偶数月毎に2か月分が支払われる。それも1日は国民年金、15日は厚生年金と別れて支給される。年末には確定申告用の資料も送ってきてくれる。
私の場合、60歳前後から大きく人生が変わった。妻の死亡・年金生活・透析患者に・・・これだけ変われば別人だ。
色々問題がある年金制度だが、私の場合、年金があって助かっている。勤めていた会社が知らない間に積み立てておいてくれたおかげで、老後に余裕ができた。年金さまさまではある。

阪神タイガース①

関西ではタイガースファンでなければ生きていけない。
生まれながらの生粋のタイガースファンで良かった。
結婚する時、ママが唯一聞いたことは「タイガースファン?」って。
オヤジさんがガチガチのファンだからボクがジャイアンツファンだったりしたら結婚もままならなかったらしい。
実は、ウチのオヤジさんもガチガチのタイガースファン。
いつの頃からかはしらないが、戦後、復員して仕事がなかった頃、当時の若林監督と親交があったらしいし、ベースボールマガジン社にも携わっていたこともあるとか。
もう一つ、甲子園の球場入口付近にある屋台の権利を入手しようとしていたとか? ボクもひょっとしたら今頃、跡を継いで甲子園で弁当やおでんを売っていたかもしれなかった。
又、オヤジさんの仕事が絶好調だったボクの小学生の頃、一塁側ベンチ近くにBOX席を会社で買っていた。ダッグアウトの横で選手の息遣いまで聞える位の場所だ。当時のBOX席は6席1組で鉄柵で囲ってあり会社名のプレートがついていた。イツ行っても試合を観ることが出来たし、6席を3人位でゆったり観戦出来た。 但し、当時は弱小チーム、観客も少なく、今とは全く違う。ただ前過ぎて3塁手の足がマウンドで隠れて見えなかったのを覚えている。
だから、ボクがタイガースファンになったのは必然的で野球は甲子園だった。(続く)

2011年7月9日土曜日

上ヶ原ラグビークラブ   

大学1年の秋、高校時代に進学を理由にクラブを辞めさせられたラグビーをしたくなった。
ただ、本チャンは無理だし適当なクラブを探していたところ、誰からか教えてもらったのが今の上ヶ原ラグビークラブ(URFC)、当時のバッチーズだ。 波壁、原田、隅田等がいた。
チームと言っても15人もいない零細なものだ。同好会なのでどこからも資金的な援助もなく、全くメンバーの手作りのチームだった。練習場も武庫川の河原、宝塚と転々とした。
試合は大阪協会で相手を探してするのだが、いつもメンバーが15人揃わない。関学以外から助っ人を頼んだりして試合したものだ。だから全員がレギュラー、大阪城のラグビー場がメイングランドだった。他にリーグ3~4部クラスの大学チームとも戦い成績は勝ったり負けたりでそこそこのもんだった。
翌年、同じ同好会のイーグルスと合併、「上ヶ原」(関西学院の所在地)を名乗った。しかし合併してもメンバー不足は解消せず。シンドイもんだった。でも新人を募集して何とかカッコがついた。その当時はその場しのぎが精いっぱいで、このクラブがなんと40年も続くとは、続けようとは全く考えていなかった。もうすぐ40年ですといった案内が着た時、驚いた。
後輩に感謝だ!
そしてさらに昨年は全国クラブチーム選手権(日本協会の公式戦)で優勝したのだ!!! 驚き異常(←これで正しい)だった。
後輩に感謝・感謝!
※Facebookに「上ヶ原ラグビークラブOBOG会」でグループを作っています。

2011年7月7日木曜日

「回天堂」

「回天堂おぼえ書き」・・・と言う名前のBlogを始めます。
Blogと言うよりタイトル通り「おぼえ書き」です。
つまりは、二人の息子へのオヤジの生きざまを書いておこうと思ったからです。ですから公開はしますが他人さまを意識は(?)していません。
日記でもありません。毎日も書きません。
Facebookには載せようと思っています(?)
「回天堂」については私のオヤジが使っていた雅号「回天」を頂きました。回天堂2世ですね。
オヤジが何故「回天」を名乗ったかは「?」です。
回天の意味は陽明学からきたものか?
陽明学徒であった記録はありません。
また帝国海軍の人間魚雷「回天」からきたものか? 不明です。
確かにオヤジさんは海軍だったけど回天とは無縁。セレベスで掃海艇にのっていて戦闘には参加していなかったらしいしし・・・?
いずれにせよ「回天」を頂きました。
「回天堂おぼえ書き」をスタートします。