2011年12月29日木曜日

社長巡回

またまたダイエー時代に戻る。

社長は時間があれば店・現場を巡回する。
創業者にありがちな「会社のものは全てがオレのもの」と言う意識があるからだと思う。
それ自体が悪いことではないが巡回される方は大変。少しでも良く見られたいし、前回の指示事項は改善できていないといけない、ましては注意・指示されても困る。
だからダイエーの特質としてそれぞれの責任者は社長の動向に常に注意をはらっている。

神戸に来られる時は分刻みのスケジュールがわかっている。
社長はスケジュールを知られることを嫌がるが、同行秘書は一人なのでこちらにサポートを頼む為に漏らしてくれる。秘書が手帳をチラッと見せてくれるのを見て覚える。ポイントを把握して対応すべきは対応する。要は巡回先へヒントを漏らす。
一番困るのはアキ時間があること、チョット巡回ということが多々あるので可能性がある時は変な言い方だが「警戒警報」を関係する店・事業所に漏らす。それもハズレが多いとオオカミ少年になるので、ある程度カンも必要。
他社の人には何故同じ社内で?と理解できないだろうが、これが現実。突然の社長巡回でミスが発覚して左遷はおろか解雇もあったのだから。

一番困るのは神戸を出て東京へ戻る道すがらだ。
神戸・伊丹間には店舗も多いし、事業所も沢山ある。飛行機に乗られるまで気が抜けない。本店といえども例外ではない。
ある時帰路の車中からTELがあった、道路沿いに空き地を見つけその情報が欲しいとのこと。東京に着くまでに報告するようにとの指示。
2時間くらいしか猶予はない。走り廻って情報収集。オフィッシャルな情報は任せて、囲む会の情報通に問合せをする。こんな時も囲む会のメンバーやJCメンバーの情報が役に立つ。ウラ情報まで彼らは精通しているからだ。
そして何とかレポートを纏めてFAX.指示を待つ。
社長に報告した内容を関係すると思われる部署にもインフォーマルに流す。でないと該当部署は即対応できないからだ。
このスピードがダイエーを支えていたのだとも思うが、担当部署は大変だった。
その社長もいまや故人、懐かしいと言えば懐かしい。

2011年12月28日水曜日

上海自動車産業視察団  ③

・・・続き。
二日目以降は自動車部品屋さんの工場視察。
今回の旅行はスケジュールが知らされていなかったのでやや不安。

まずは常州市役所を表敬。
市長は不在だったが副市長が出てきてご挨拶。TVニュースなどで見る大きな中国型の応接室、椅子はコの字型に並んでいて向かいの人とは話も出来ないほど遠い。K女史の顔をたてた表敬だった。副市長はK女史を「市の誇り」と褒め称えていたらしい。

その後、自動車工場団地地区へ。
中国は土地所有が認めておらずこのような工業団地を作る場合。地図に自由に線を引いてその中の農民を他の農場へ強制移住させるだけで済む。 風景的には農業地帯に忽然と近代的な工場が現れる異様な風景。
途中の町は西部劇に出てくるように平原にポツンと現れる。これも地方の町はハッキリ言って汚い。雑然。

で、工場視察。
自動車工場と言っても部品屋さんばかり、当社はベンツ社と取引しています。当社はBMWと・・・と言ってもセイザイ車のヘッドライトだけだったり、ドアノブだったりで自動車そのものではない。でも彼らは自動車業界だと言う。
どこへ行っても社員総出で熱烈歓迎。
ある会社などは正門前に社員が整列してお出迎え、ナニ様でもないのに。何か勘違いしていないかフト心配になる。またどこへ行っても例のショックアブソーバーの話はない。歓迎されて悪い気はしないが、大げさすぎてすこし不安になる。
工場のボードに「7%」と書いてあったのでナニの数字かと聞くとロス率とのこと。7%とはなんと信じられないロス率、これでも儲かっているらしいから驚き。

二日目はそう言った視察ばかり4社ほど訪問した。
昼飯は途中のレストランで、外見はみすぼらしい店に案内されるが、店内は素晴らしい装飾。外見もキチンとすれば良いのに。そして昼からフルコース、勿論のこと酒つき。これまた非常に旨い。

夜は夜で上海で一二を争うという料理店へ。
そこにはK女史の同級生だった上海市交通局長が待ち受けていた。
上海市1300万人の交通を抑える大物だ。でもさすが上海、彼はポロシャツ姿でどこにでもいるオッチャン。
はてここは誰の奢りなんだろうか?
果して、宴席に知らない人物が次々にだ入りする。聞くと運輸関係の業者らしい。交通局長が来ていることを聞きつけて差し入れ(大概が酒)を持って局長に挨拶にくる。局長もそれを当然のごとく受ける。そのたびに話が中断する。ゲスト(?)たる我々を無視した行為にチョットがっくり!

そして食後、局長曰く「三番目の妻が足指マッサージをしているので行こう」三番目の妻にもビックリだが、公務員がアルバイトしている。 さらにカラオケへ。ここもその三号さんがやっているとか。

そして三日目は観光・ショッピング・・・?
ショックアブソーバーはどくへ行ったんだ!聞くと今夜ミーティングがあるという。
夕食後、やっと商談的な話。
概要は例のショックアブソーバーをコピー生産したいので手を貸して欲しいとのこと。生産と言ってもPatentはどうするのか? ここでビックリ発言「Patent無視して良い」と市の書記から言われているから大丈夫だと言う。
Patentはジープ社か三菱から借りないと生産してはいけないハズ。中国共産党書記がいかに偉いかは知らないが国際条約違反になる。中国側良くても我々は手が後ろへ回る。
話は技術的なことではなくここで暗礁にのりあげた。話はまとまらない。明日は帰国の予定。
こうやって中国と言うのは統治されているのかと実感する。国際的なトラブルが絶えないのが良く分かる。

こうしてタダの上海ツアーは終わった。
ナニの成果もない。K女史に聞くと「彼らは招待した。日本の業界人を知っている」というだけでその目的の半分は達しているとのこと。
最後に重要なのは「礼状」。 形式ばった礼状を書き送る。 肩書きは「神戸商工会議所・会員 K」、エッ会員って肩書きなの? それで中国の田舎はいいらしい。
未だに何がナニだかわからず仕舞い。
料理が旨かっただけ。

2011年12月26日月曜日

上海自動車産業視察団  ②

続き・・・。
食事が終わるとカラオケに招待された。同じホテルに大きなカラオケルームがあった。
日本人のオッサンはカラオケと女好きと思われているらしく、そこには大勢のホステス(?)がいた。
1人に2人の女性がつくいた。殆どが日本語がわからないので話も出来ない。カラオケも日本の歌もあるが、中国語の歌ばかり、それを彼女らがグループを組んで踊り歌う。カラオケというより何かのショーのよう。

食事中は老酒や白酒だったが、ここではウイスキー。
でも乾杯・乾杯でしこたま飲まされた後なので、実のところ早く部屋に帰って寝たかった。
今夜の接待は市の共産党委員会主催のようだ。
例の若い書記さんが張り切っている。しかし楽しんでいるのは彼らだけ。
そのうちK女史の息子が私に耳打ちした「お持ち帰りOKらしいですよ」と。 こちらにはそんな気は無いし、第一パッとしない娘ばかりだ。宿泊はツインだったが、お持ち帰りの場合は特別に部屋を用意するとまで言われる。金は200元(当時のレートで3000円と安い)以上出さないで欲しい・・・彼女らを甘やかすからと、そこまで言うか書記さん!
※実際は200元だすと駄々をこねられて300~500元出したとか!
彼女たちもそれが目的らしく売りこんでくる。
断る中国語もしらないので、冷たくあしらうしか手はない。トイレに行くと彼女らも付いてくる出口でハンカチを持って待っているのには参った。
なんやカンヤで初日は終わった。この調子だと先が思いやられる。
・・・続く。

2011年12月24日土曜日

上海自動車産業視察団 ①

ダイエーも次のイチケンも辞めて遊んでいる時代、友人の紹介である中国人女性実業家の仕事を手伝うことになった。
彼女・K女史のことは既に触れたが、見かけは普通のオバチャン、だけど実際接してみると中々のヤリ手女性。中国人だからというより彼女の持っているパワーにはスゴイものがあった。

軽い気持ちでお手伝いをOKしたが、彼女は分からないことはナニでも相談してくる。彼女には中国から色々と情報が入り、その対応について聞いてくる。こちらもスーパーに勤めていたからってスーパーマンではない。
そんな中、自動車部品を作っている彼女の知人から相談があった。
ビックリするような話。
中国人民解放軍と警察が使っているジープ(アメリカのジープ社製)のショックアブソーバー(車体と車軸を繋ぐ緩衝器部品)を取り換える計画がありそれを中国で作るにはどうすれば良いかと言うこと。
ショックアブソーバーは1本純正部品だと2~3万円はする。1台あたり数万円はする。それがなんと軍で5万台、警察に5万台ある古くなったジープの部品交換をしたいとのこと。1台5万円として10万台で50億円にもなる。なんとビッグな商談。夢のような話。

日本でのライセンスは三菱自動車が持っている。
ライセンスを繋ぐだけでかなりの利益になるし、第一ビッグな商談だけに興味深々、この話に乗ることを彼女にアドバイスした。

そうすると上海から返事「招待するので一度上海へ関係者を連れて視察に来てほしい」とのこと。
上海へいくのは良いが自動車関係者がいない。急きょ各方面に手配、なんとか3名の関係者(自動車部品屋・輸入業者・ディーラー)に声をかけ自称「上海自動車産業視察団」を急造した。
メンバーはK女史を団長に彼女の中華料理店の支配人・友人の神職(?)それに前述の3名と私の7名。
先方の招待と言うのはスゴイ! 3泊4日のツアーにかかった費用は全て負担してくれる。関空から上海のエアー、現地滞在費等一切だから恐縮の限り。しかし招待と言うのだから甘えようと言うことになり上海へ、空港には大型バスが1台用意されておりそれで各地を観光・視察・食事にとフル活用した。
後でわかったのだが、招待してくれたグループは彼女の学生時代の同級生だとか、しかし海のものとも山のものともわからない日本人をよくここまでするとは、何かウラがあるのではと一時不安にもなった。後でわかったのだが、中国では「オレは日本にこんなコネクションがある」というだけでかなりのステータスになるらしい。それ位ならお安い御用だ。

現地でのガイド役兼通訳はK女史の息子と彼女の甥がしてくれたので助かった。
最初、上海から常州という町へ移動、この常州市こそが彼女のルーツ。生まれ育った町、町では彼女は「単身、日本で成功した女性」で英雄扱い。
「常州はすごソコだから」と聞き、バスに乗車、高速道路を100km位で飛ばす。しかし中々常州市には着かない。途中、サービスエリアで休憩するほど遠い。聞くとあと30分位とか? もう1時間半も走ってるのに!!! 中国でチョットは2時間、距離にして200km。 さすが中国、大きいワ!

常州市に着くと直ぐに夕食。
上海から長江沿いに来たかなり内陸の町。ここには日本の企業がかなり進出していた。Canon,富士通といった日本企業の工場を見かけた。途中にはユニクロの工場が畑の真ん中にポツンとあったりもした。

夕食は当地の共産党委員会主催。
我々7名の為に市書記以下20名位の人が迎えてくれた。中国でが行政の長より共産党書記のほうが偉い。党書記といっても30歳過ぎと若い。紹介してもらうまでどの人が書記かわからないほど。しかし、料理は非常に旨かった。川魚中心だが今まで食べたことのない料理。そして乾杯・乾杯の連続、これからの3泊4日全て食事は酒池肉林。※肉林は無かったが!

食事中にタバコが吸いたくなり、タバコを吸っても良いかとたずねた。
即OK,でビックリしたのは私がタバコに火を点けるや否や、同席の半数位の人たちがタバコを吸いだした。彼らはホストだからタバコを遠慮していたのだ。それと中国でのタバコのもつステータスを再認識させられた。タバコにのみ関しては中国は素晴らしい。

・・・長くなるので、後は次回に!

2011年12月23日金曜日

大阪女子マラソン

今年も大阪女子マラソンの季節がやってきた。
毎年、このマラソンが来るとお世話になった酒井 清さんのことを思い出す。
大阪女子マラソンの始まりは昭和50年代の中ごろだったと思う。
いきさつの詳しいいところは知らないが、ダイエーがメインスポンサーで大阪で女性のマラソン大会をするという。 マラソンが今ほど認知されていなかった時代、しかもマラソン大会などしたことのない大阪で、ましてあまり関係のない当社が?

そのプロデュースをしたのが元上司で我々の仲人もお願いした酒井さん。当時は販売促進部長だったが、特命でマラソン大会担当をされていた。 
確かに販売促進の仕事と言えばこんなに大々的なキャンペーンはない。関西の店舗を中心に女子マラソン一色、各メーカーの協賛もあって大々的なチラシ展開、しかも店のある沿道にはノボリ・カンバンで一杯に。その後ダイエー崩壊前まで大阪女子マラソンへの協賛は続いたと思う。
その苦労話は伝え聞いたが、ご本人からは何も聞くことが出来なかった。何故ならその大会が無事終わり暫くしてから彼は突然亡くなったからだ。当時、新聞にも載ったが、中内社長との面談中にクモ膜下出血で倒れ3日後になくなった。まだ40歳代前半だったとおもう。
有能な社員が次々と亡くなっていくダイエーの悲劇の始まりであったとは当時だれも知らなかった。

先日、夫人にお会いしたら「主人が生きていてもダイエーはやはり・・・?」と訊ねられて返答に困った。
酒井さんが生きておられたら、少しは延命できたかもしれない・・・?

2011年12月22日木曜日

定番の仕事

ダイエー本店事務所時代の仕事は色々あったが、定番の仕事だけでもこんなにあった。

民間渉外担当としての業務を整理すると・・・。
神戸商工会議所(神商)関連
商工会議所は日本商工会議所法という法律に基づいた法人。民間企業の集まりではあるが、体制は官公庁型、県や市からの委託事業も多い。
神商の事務局とは常務理事以下担当の部長・課長まで完全にダイエーシンパ、情報は即入手できる体制を作っていた。
神商の業務は殆どが社長の務める副会頭・常議員の代理出席
会議所は会員相互により選ばれる議員によって運営されているが、議員の数は100名を超えるので、日常の意思決定は議員の中から選ばれた20数名の常議員によって運営されている。
神戸では大手(神鋼・川重・川鉄・神戸銀行+当社ダイエー)と地元の有力企業で形成されている。
常議員会で提案され議決されることは毎回多い。重要な案件もあるが、殆ど事務方の手続きレベルの事案ばかり、代理出席者は議決には参加しないのが慣例、しかし意見を求められることもありその時は発言に困った。
この常議員会は毎月第一月曜にあり、社長が出席することは年1回位で通常は代理出席する、大手はだいたいそのスタイルで代理出席の各社担当者の席まで決まっている。
そして会議所には業界毎の部会があり当社は商業関係の小売商業部会に所属。
部会には毎月1回所属する議員の会合がある。これも社長は出ないので代理出席が定番化。昼食を取りながらの和やかな会合だ。
そして年一回の議員総会。殆どが出席して報告するだけ。何故なら重要案件は事前に調整され決まっているからだ。

中内社長を囲む会事務局
不定期だが新年会・納涼会・忘年会・そして研修会・研修会が視察旅行になることもある。だいたい2ヶ月に1回はある。これらは全て事務局業務。
本来、社外の中内シンパの人たちの集まりで会社は関係していないことになっているが、実際は企画・実施・会計まで事務局業務は全てしていた。会費制で年15万円、会員数40名位で年600万円も予算はある。資金は潤沢だし、もしアシが出ても追加会費は即集まる。

神戸日米協会事務局業務
中内が会長を務める任意団体。これも全て事務業務は担当していた。
年一回の総会・米陸軍Bandウエルカムパーティー・神戸まつりパレードへの参加・Golf大会・クリスマスパーティーetc. これも全て事務局として企画・実施・会計を担当。

中内育英会事務長
中内が全額寄付した育英事業目的の財団法人。
基本財産は殆どダイエーの株式なので株価が高騰した時は総資産100億超にもなった。年間事業資金約1億円。殆どが株式配当。なにせ360万株保有の大株主。
一番困ったのは財団法人の事業は単年度制、毎年の収入1億円はその年に使い切ってしまわないといけない。予算残を出すと県から指導が入る。しかし理事長たる中内への決算報告では予算残=剰余金を出さないといけない。剰余金=利益の感覚が理事長にはあるから説明に困った。理事長は決算書の剰余金欄を一番に見て「ヨシ」と赤マルをつける。その剰余金が数千万円になった時、県から指摘されたので新規事業用の積立と逃げたが・・・。
育英会の業務は定番化されていて、四半期ごとの奨学金授与・年一回の理事会・そして育英事業etc.

その他加盟団体のフォロー
会社が加盟する神戸関連の団体のフォロー、これがこまごまと多数ある。
商業関係の商店街連合会・市場連合会に始まり、神戸ファッション協会や地元ポートアイランドとの付合い。
そして神戸空港建設促進協議会や神戸レジャーワールド協議会等への参加等々。
ざっと見ただけでもこれだけある。

良くやっていたと思う。

2011年12月21日水曜日

Party

ダイエーの神戸本店時代、いくつものPartyを実施したし、招かれて行ったことも多々あった。平均して年30回位は行ったり、実施したりしていたように思う。

神戸本店に行くまではPartyなんて全く知らなかった。
それが突然Partyの事務局をしろと言われウロウロ。 そんな時オリエンタルホテルの総支配人には色々と教えてもいらった。 
そして最終的にはPartyをシステム化するまでベテランになって総支配人からPartyのことは森本に聞けと言われる位に成長した。Partyの企画書・進行表・収支計算表・台本etc.をマニュアルか出来た。
Party事務局をしたのは神戸日米協会(総会&Party,米陸軍軍楽隊歓迎Party,クリスマスParty・・・etc.)中内社長を囲む会(新年会・納涼会・忘年会・その他・・・etc.)神戸Harks後援会(シーズン後1回)等々の定番Partyが年に10回はある。
そして招かれるPartyも月に1~2回はある。
神戸商工会議所関連が多い。会議所の小売商業部会でも旅行もPartyもあり、そして色々な団体・協議会等のParty、政治家のParty等多々あった。
Partyではないが会食のセットも仕事の一つ、これは気を使う。
そして同席はしないが陰で無事終了するのを待っている。やっと終わってお見送りし、社長も帰ってから食事。そんな時、使ったホテルや料亭では後で御馳走してくれた。お客として事務局を大事にすることは次の商売に繋がるからだ。そんな時も料理長や女将さん等から色々教えてもらった。
大きなPartyや重要なPartyには事前に御祝儀を持参して現場の料理長や板長さんに直接手渡す。ほんの少しのご祝儀で出てくるものや材料がちがってくる。これは重要なポイントだ。
Partyは殆どが社長の代理出席。
また社長自身が出席する会合・Partyに同行することもあった。この場合はPartyどころではない。社長の動きを常に注意し何かあったら即対応しなければならない。秘書は着いてくるが、彼らは神戸を知らない。
ある時同僚がある社長に同行したPartyで飲み食いしていると社長から「メシは家に帰ってから食え」と注意されたとか!
社長にすれば仕事で来ているのだから仕事をしろということだ。その後は水割りのグラスだけ持ってそのPartyを過ごしたこともある。見ているとエライさんは殆ど飲まない、食わない。 グラスだけ形として持ってはいるが決して飲まない。挨拶・話ばかりしている。 社長の言う通り渉外はそれが仕事だからそうあるべきで、グラスと名刺片手に仕事をしないと。
服装もキチンとしなければならない。
Partyのレベルによって服装にも気を使う。高価なブランド物は御法度。先方より出しゃばってはいけない、と言ってみすぼらしいカッコも出来ない。
スーツ・ネクタイにかなりの金も使った、全て自前。それを知ってかネクタイ等を囲む会のメンバーからは頂いたりした。そのネクタイは次回会う時には必ず絞めていかないといけない。イロイロ気を使うことは多い。
しかし、行くPartyはまだ楽だ。Party事務局はシンドイ。
それについては後述したい。

2011年12月20日火曜日

隠密剣士参上

ダイエーをクビになり東証一部上場の某中堅建設会社に就職、仕事は社長のスタッフ。
社長スタッフとは聞こえは良いが、社長から指示されたことは「隠密」「御庭番」・・・。

以前にも書いたが、親会社の社長の娘婿で落下傘社長。
しかも性格もイビツ(?)なのか,社員全てを敵のように思っている。頭も悪い(?)し育ちも悪く(旧財閥のオボッチャマ育ち)世間を知らない。 絵にかいたような無能社長。(言いすぎかな?)
最悪なのは奥様とも上手くいっていないとか、自業自得、女遊びもハデなのだ。

今だからここまで書けるが、当時は非常に微妙な立場だった。
私の入社を紹介してくれた人との関係、彼はこの若社長の義父とは非常に懇意、その意をくんで若社長を何とかして立派な社長に育てようと思っている。その一環で私を送り込んだが、そんな簡単なものではないし、私にそんな能力もナイ。

また義父は義父で若社長の能力は見抜いており、また夫婦関係の不和も気づいているが、早く立派な社長になって欲しいと望んでいる。
余談だが、この義父の不幸は跡継ぎが一人も育たなかったこと。息子二人も娘婿も役員も!だから彼の体力と同じで年々衰えて破綻した。
で、私の立場は三すくみ状態。日常はこの若社長の言うことを聞かなければならない。

あそなある日、社長から具体的な指示があった。
神戸の社員が不正をしているらしいからそのウラを取って欲しいとのこと。やはり隠密剣士か御庭番か?
不正は下請け業者とつるんだ贈収賄。
調べるにも難しいが、ある時一部の社員がいつも行っているスナックがありそこが怪しいという情報を得た。
友人を誘ってそのスナックに行ってみたら情報通りある課長とその部下がいる。しかもどんどんその人数が増え10人位になった。客の半数くらいが当社の社員。払いは某業者もちになっているらしい。シッポは掴んだ。私の払いもロハにと言うが立場が違う、自分で払うと言うと何と水割り2杯で3万弱! 情報は掴み報告あとは社長の仕事、その課長とあと二人が異動になった。

このような隠密剣士の仕事を3~4件はやらされた。
あまり気乗りのする仕事ではなかった。第一、社内に私の妙なウワサが立ち出して立場は微妙に。
だから某建設会社では居心地は良くなかった。

2011年12月19日月曜日

パチンコ屋

まさかパチンコ屋までするとは・・・・・?
ダイエーが買収した忠実屋は色々な関連事業を持っていた。その中にパチンコ業もあった。 どこかに売却するものと思っていたら、継続・拡大するという。 

神戸には関係ないと思っていあたら、新規1号店を神戸に作るという。例の新神戸のOPAに空きスペースがあってそこに出店することになり、その調整することになった。 

パチンコ屋は警察の許認可が必要。 
警察は業界団体・遊技場組合のOKをとれと言う。 事務レベルでの調整は順調に進んだが、最後に組合の会長の承認。 ところがその会長に会おうにも会長がつかまらない。会長の店はあるが、会長がどこにいるかわからないという。 理由を聞いてビックリ、その会長は色々と問題がありその筋から狙われているので居場所を一定にしていない、住居もない、連絡は携帯のみ。勿論、携帯の番号は秘密。

社長を囲む会のメンバーに丁度パチンコ業の人がいて何とかコンタクトを取ってもらった。 
会長に出店計画を話すとすんなりOK,素人に何が出来るかといった感じ、ただ、機械の台数を減らせという。神戸の組合の規則では最初は300台以下いう制限を設けているとんこと。何故か計画では310台になっていた。 事務方で何故そんなことを見落としていたのか、社内調整済みで今さら削減は出来ない。 
スーパーで言えば、売場面積の削減、社長が一番嫌がることだ。 パチンコ会社の社長も困ってしまったが、又ここで裏技をつかった。 紹介してくれた囲む会のメンバーに頼み中内に説明してもらうことにしたのだ。 外圧に弱い中内社長にはこの手しかない。 で、アッサリOK.
何とかぎりぎりオープン出来た。
このパチンコ会社には店長のお古で使いものにならない人材がおくりこまれ、オジステ山となった。
これもダイエーの破産でどこかに売却されたと思う。

2011年12月18日日曜日

日米通商交渉

神戸日米協会の事務局長としてアメリカ総領事館との付き合いがあった。お互い上手く利用しあっていた感じだ。
総領事宅に招かれたり、総領事家族とホークス戦を見に行ったりもした。

因みに総領事自身は日本語ペラペラ、日本の風習にも熟知されている。アメリカの駐日外交官は着任1年前に日本に来て横浜の研修所でみっちり日本&日本語について勉強させられ、また総領事に日本をアドバイスする日本人スタッフも常に行動を共にしている。日本人以上に日本の歴史や風習を知っている。

ある時の米総領事の挨拶で面白いことを言われた。
「先ほど『お忙しいところお越し頂きまして・・・』と言われましたが、日本には『貧乏暇なし』という諺があります。私は常に忙しくしてヒマはありませんので『貧乏』なんですね」と。
ある時、総領事館から電話が神戸にあった。
内容は「中内社長の来月アメリカ訪問時に米通商代表がランチを共にしたいと言っている」ついてはスケジュールの調整をしてくれないか?とのこと。
通商代表は日本でいえば通産大臣、単なる昼メシのお誘いではないだろう。
このことは内容的には東京の秘書の仕事「東京へ連絡してくれ」と言うと、東京は東京で大使館が秘書に連絡を取っている、神戸からもプッシュしてほしいとのこと。
念の入ったことで、あらゆるチャネルを活用して動くのがアメリカ政府流らしい。当時、外交問題化していた「米産牛肉の輸入」について、日本の流通業のトップとしての意見を聞きたいのだろう。つまりは当社とアメリカ双方の利害は一致しているからタッグを組もうと言う趣旨。「昼メシでも・・・」と言うのが面白い。

同じようなことが続いてあった。
これも日米の通商問題、「流通業の自由化、大店法の撤廃」について又、日本の流通のトップ企業としての意見を聞きたいとのこと。
これも手が込んでいて、職務のレベル毎に面談をしたいらしい。東京では社長は勿論、開発担当役員・部長クラス、関西では地域の開発責任者といった各レベルでのヒアリングをするという。

関西の開発担当と総領事館へ行き担当領事と面談。
外交のややこしいのは普段は日本語で話す領事が公式な話なので母国語の英語で話す、途中から話に時間がかかるのでこちらの発言(日本語)は領事は理解できるので通訳を飛ばし、彼の発言(英語)のみ日本語に通訳。
領事が確認したかったのは大店法についての考え方、ダイエーとしては大店法撤廃に賛成なのか?ということ。
しかし実は大店法は両刃の刃、当社が出店を規制されるように他社の出店も規制することが出来る。だから、即廃止・自由化されても実際は困るというのが本音。 領事が驚いたのはダイエーは上から下まで統一されたことを言うということ。 当社ほど上意下達の徹底した企業はないのだ。

その後、アメリカの圧力もあって大店法は廃止されたが、アメリカ系のスーパーの出店はない。 あれはナニやったんや!
神戸日米協会という何のメリットもない仲良しクラブが役に立つこともあるもんだ。渉外の仕事というのはこんなものなのだ。









2011年12月17日土曜日

神戸空港問題

神戸に空港を・・・って今さら? 阪神大震災前の話。

神戸は以前、関西国際空港の候補地として99%決まっていた。
神戸に関空があったら、震災時どれだけ便利であったか?  
どれだけ経済貢献していたか? 逆に今の関空が抱える問題も半分以上が解決される。 
神戸の方が旅客の足の便は良いし、既存の交通機関で十分。 
さらに根本的に建設費が半額位で済むかも? つまりは、埋立て費用が水深と岩盤の関係で安上がり、関空の水深は40m,神戸は20m。素人が考えても埋立ての土砂は半分で済む。 実は水深が深いとその土砂に負荷がかかりより以上の土が必要となる。 竣工後の地面沈下リスクも大きい。 関空の施設は全て沈下を前提に設計されているのにはビックリ。それに海底の岩盤が違う。現関空は海底が土砂で緩い。神戸は岩盤で固い。 つまりはクイの長さ強さの点で建設には有利。

当然、関西国際空港は神戸に作るべきだった。
問題は当時の市長、市長自身は空港建設に賛成なのだが、全政党が支持の彼は、共産党一党の反対を重視、それまで全会一致を旨としていた市議会の運営を気にした。ただそれだけで関空誘致条例は流れた。
本人が後に述懐されているように、彼の唯一・最大・最高の汚点。

それ以降、運輸省もカンカン。
それが、関空が出来てから神戸に空港が欲しいと言いだした。
「だれが」と言うことなしに神戸空港計画が進められた。 しかし、問題は政府・運輸省。 当時の運輸省はガンとして動かない。 空港建設の審議会に神戸をかけようともしない。

ダイエーのルートで調整が依頼され色々東京で動いたようだが、上手くいかない。最後には運輸省から「昔Noと言ったヤツの首持ってこい」とまで言われる始末。 この発言は議事録に載っている某局長のビックリ発言。そこまで恨まれているのか!

しかも地元神戸では例によって何でも反対派が反対運動をし始め紛糾。
市長選挙の争点にもなり、市内は賛成派、反対派に分裂ぎみ。
反対派は全国からオルグを送り込み活発に活動している。
賛成派も運動をしなければと会議所等が中心となり活動。空港推進協議会が作られた。
個人的にはあまり賛成できなかったが、会議所活動の一環で動かなければならない。
各所での賛成派会合、ポスター等の告知ツール作り、当然社長は協議会の副会長に祭上げられ、その代行業務もある。市としては中央での社長の発言力にかなり期待していた模様。で、結果は何とか審議会の議案にのせ、OKを取り付けた。 
最終決定のFAXを運輸省から届いた。しかし、そこには神戸の名はない。 隅々まで見直すと、欄外に小さく「神戸空港」と記してある。 地方空港としての認可、国は何もしない。自前で勝手に作って良い。認可だけはするということで、その欄外のリストに名前が載っただけ。
地元ではこれだけ問題になっているのに!

認可以降も反対派は執拗に反対運動をした。
争点は収益性、つまり自治体が作り運営する地方空港なので、全てが神戸市負担しなければならない。 かなり無理のある収益計画、しかし仕事としては賛成、後押ししなければならない。 今、各地で問題になっている「ヤラセ」まがいのこともした。
ヤラセと言ってもパブリックコメントや公聴会での発言依頼、内容は任せられているからヤラセとは言えない。 依頼を受けて対応したものだ。

結果的に中途半端な神戸空港が完成した。
今後、関西三空港で上手く運営してほしいものだ。
私見だが、伊丹を廃港にして「第二首都」化、残った土地は民間に売却、その資金は国債償還に使う。そして神戸を国内線中心の空港にする。その為必要なら滑走路増設もしなければならない。
因みに「伊丹」は関西の「普天間」(のような危険空港)であることを忘れてはならない。

2011年12月16日金曜日

昭和天皇崩御の前後。

昭和天皇が体調を崩された時、皇室に関連した仕事をしていた。

中内商店らしい仕事、中内社長の次男、正氏(後の福岡ダイエーホークスのオーナー)の結婚式の準備。
全く会社とは関係がない個人的なこと、それを社内では秘書室を中心に秘密プロジェクトを作り社員を使って進めていた。これも会場その他が神戸であることもあり、メンバーに入れられた。これは公私混同の最たるもの、後に使った経費は中内家に振ったらしいが、人件費は振りようがないし・・・?
私の担当は神戸で行われる結婚式、披露宴の調整、細部の調整に走り回った。

問題は新婦が皇室の遠縁にあたられる女性であったこと。
お相手の母親が常陸宮妃殿下の姉妹に当たる方で披露宴に妃殿下がお越しになるとのことで大変! 1泊2日で神戸に滞在される。その間の接待を全てしなくては! 
それに警備、妃殿下の行動計画を作って警察と警備の調整が必要になる。 しかし、兵庫県警に挨拶に行ったら、今回は妃殿下とはいえ個人的な行事なので警察としては警備はしないとのこと。公務なら警察が警備をする、同じ方なのに何故そんなに違うか? 
但し、警備計画は出せという。公務なら秒単位だが公務ではないので分単位で良いとか。 しかも計画書のひな形があるわけでもない。 言われた通り妃殿下が新神戸駅に到着されてからお帰りになる新幹線の乗られるまでの計画をたてた。 確か1ヶ月位作成に要したと思う。 ようやく県警に持参、結果的には警備課長に褒められた。民間でここまでされる所はないと。

そんな中、天皇陛下が入院されたとの報道。
これで当初の計画は全て見直しに。 世の中自粛ムード! 結婚式自体をするものか否か? これは両家と本人の話。 最終的には式は簡単にするが、披露宴は中止。つまり結婚はするが派手なお披露目はしない。 
実は当時、新神戸に新しくホテルとショッピングセンター・劇場からなる大施設(オリエンタル・パーク・アベニュー=OPA)を作っていて正氏がそこの社長になる予定でこの計画はストップする訳にはいかず、進められた。 正氏の結婚披露宴はこのホテルオープンに合わせて双方のお披露目の意味も持っていたのだ。 
1年前から計画したこのプロジェクト、1ヶ月前の中止は大変、殆ど全てをキャンセル、キャンセル漏れがあっても困るのでシビアーなチェック。実行する方が楽だったかも!

OPOAだけはその秋、オープンしたがセレモニーは最低限に、お祝い事は中止。お祝いを意味するものは全てカット。 これも漏れがあっても大変。OPAは粛々とオープンした。
因みに披露宴はその後落着いてから、東京で行われた由。
昭和天皇は昭和64年1月7日に崩御された。
因みに、1月7日は私の誕生日。
家内が何を思ったかその時だけ、誕生祝いに「祝い鯛」「赤飯」「ケーキ」を準備していた。 不遜にも崩御当日は他に食事の用意もなくそれらを頂いた!!!

2011年12月15日木曜日

Sun-TV

神戸の地方テレビ局「Sun-TV」が労働争議でゴタゴタしていた時、何故かダイエーにその解決が知事から依頼された。
勿論、表向きは経営立て直しの要請。
当時は神戸新聞主導で経営されていたが、当社から社長・常務と言ったクラスを送り込んだ。Sun-TV社長には中内社長の末弟が起用され、常務にはダイエーの労務担当の部長が起用された。
ダイエーは(流通業界は)同盟系のゼンセン、当時の民社党系だが、Sun-TV(放送業界)は総評系そして放送業界の組合の組織力は強い。従って、賃金闘争では高給を常に勝ち取っており、積もり積もってかなりの高給。しかも年功序列の統一給制。だから年齢が同じなら基本給が同じ、常識的には考えられないが同期であれば部長職と事務職の給料が役職手当以外は同じ、実際に聞いた話だがある部長秘書の女性とその部長は同期なので数万円の部長手当以外は同じなのだ。因みに彼女は簡単な事務しかしていないとか!

当時のSun-TVは会社の入口から赤旗がたなびく異様な雰囲気の会社だった。 
派遣された常務はその会社を時間をジックリと時間をかけて手なずけて、彼は数年はかかったがその組合を温和な組合へと変質させた。
表には出ない話だが、Sun-TVが今日あるのは彼の功績と言っても過言ではない。
彼はSun-TV問題を解決した後、また組合問題でモメていた中小スーパーへ乗り込んで、そこの組合と刺違えて(双方身を引く)会社を辞めてしまった。ある意味、プロ中のプロだった。

2011年12月14日水曜日

KG M’s Club

出身の関西学院大学の同窓の集まり「KG M’s Club」
M’s の由来はメンバーが大学時代同じクラスで、クラス別けは50音別で全員がマの行、つまり’M’で始まる人の集まりだったこと。マの松本クンから始まりモの森本で終わるメンバー、約10名。
今はどうなっているか知らないが当時の関学には大学なのにクラスがあった。担任の先生がいてホームルームのような時間があった。そのクラスがマ行(M)で自然と友人になった。
我々の担任の先生は偶々だが宗教学(キリスト教)の先生(牧師)だった。宗教臭さは無かったが先生の温和さが印象的だった。因みに成績表はこの先生にもらいに行く。そして一言コメントを頂く。高校の延長みたいだ。
メンバーは数年前までは仕事の関係で全国各地・海外に住んでいたがリタイアーした今は全員が関西在住。年に2回は集まっている。集まるとそこは同窓「お前、オレ」の世界、年齢を感じさせない。
ここでも話の話題は学生時代のことより「健康・家族・金」の三大話。年寄ると仕方がない話題か?
悠々自適な人から未だ現役の会計士先生そして私のような年金生活者まで多種多様いるが、それでも悩みは病気であり、息子・娘であり老後のお金のこと。仕方がないと言えば仕方がない話題。
いつまでもつきあって行きたいメンバーだ。

2011年12月13日火曜日

`Maples’

Maples、メープルとは楓、箕面のもみじ、ダイエーに入社して初めて箕面店に配属された当時の大卒社員の集まりが`Maples’。
(残念ながら箕面店は不振の為、先年閉鎖された)
もう42年も前のことだ。 配属された総勢9名中、2名は帰幽したが7名がグループを作っている。内6名が関西在住なのでいまだに酒のみを中心によく飲み会をやっている。

箕面店で一緒だったのはほんの1年あまり、それぞれが箕面店を踏み台に昇進転勤していったそれ以降40年、バラバラだったのに仲の良いことだと我ながら感心する。
新入社員で箕面店で食品に配属された者はその後も食品一筋、日用品担当だった者はやはり日用品のバイヤーに庶務課配属の者はその後財務部へ、私のようにラインがない者(店⇒人事⇒店⇒渉外)は珍しい。
集まって昔の話もするが、たいていは年寄りの三大話「健康・家族・金」が多い。 私自身の病気の話に始まり(これは私の独壇場!)、家族、つまりは息子が仕事で大変、娘が結婚しない等。金は年金の話。よく毎回同じテーマでというより、同じ話をするものだ。

仲間はいつまでも大切にしたい。

2011年12月12日月曜日

上ヶ原ラグビークラブ(URFC)

関学時代、ラグビー好きの仲間が集まって同好会「関学ラグビー同好会」(KGRS)を作った。昭和42,3年頃の話。

当時は「ただ単にラグビーをしたい」だけの仲間のクラブだったが、それがなんと40年以上続いいる。40年も続くとは信じられない。後輩に感謝・感謝だ。

そしてなんと去年は全国クラブリーグで優勝までするという快挙!

今年も関西クラブリーグ(大学の体育会、所謂ホンチャン以外のクラブ)で三連覇、全国大会(12月18日・熊谷)へ出場することになった。

本来、大学の同好会と言うのは「勝ことが主たる目的ではなく、好きな仲間の集まり」なのだが、そこはスポーツの同好会やはり勝つことが目標になる。  勝って全国優勝はして欲しいが、同好会の基本である「好きな仲間の集まり」は大切にしてほしいと思う。

Friday ミーティング

ダイエー時代の話。
社内的に神戸が重要視されていたのは言うまでもないが、社長から「神戸の各社責任者を集めて毎週ミーティングする」と言われたのには困った。
各社の報告は適時、社長に報告されていて今さらの感はあったが、各社間の意思疎通の点では今一つ良好ではなかったことは事実。それは神戸本店事務所の力不足かもしれない。
毎週金曜日に開催するので「神戸フライデーミーティング」(KFM)というのが正式名称。
毎週金曜日の早朝、8時からオリエンタルホテルで朝食をとりながらの会議。本社で役員が昼食を集まって食べるのと同じ感じか?
各社の現状を情報交換するのが主な目的。事務局は神戸本店。事務局は当日中に議事録を社長・メンバーに流すのが業務。
メンバーはダイエーの神戸エリアの営業本部長・プランタン神戸支配人・オリエンタルホテル・流通科学大学・Sun-TV・KissFM等々10数社。
朝食をとりながらと言うが皆、社長が来るまでに食事は済ませておきたい。だから7時半位には来て早めに朝食、社長を待つ。社長は社長で経団連がしているスタイルを取りたかったようで、朝食をワイワイ言いながら食べて情報交換するのを望んでいた模様。しかし、ダイエーグループでは無理な話。みんな社長と食事をするなど考えるだけでもゾッとする。
経団連では参加者(大手企業の社長・会長クラス)各自のセルフスタイル、自分でご飯をよそい、味噌汁を入れて食べているらしい。しかし、そうは言ってもKFM会場のオリエンタルとしては何かとサービスしたがる。 おかずは昨日の残り物で良いとは言えそういうわけにもいかない。宿泊客と同じものに、2000円もする朝食だ。ボーイさんもつく、これが社長は気に入らない。放っておけという。何とかホテル側を説得して完全無人化(セルフサービス)・残り物「風」の朝食に。 
しかし、皆が早く朝食をすませて社長を待ち、社長だけが一人朝食を食べるのを待っているというのもケッタイな風景に。

各社の報告事項、社長の指示事項はまとめてその日のうちにFAX。
これが大変、下手すると当日はこの仕事にかかってしまう時もあるほど。
つまり、まとめた内容(下書き)をFAXし各社に内容確認、修正が入ることも多々ある。間違った内容をレポートして後で大問題になったこともあった。
だから、社長の都合で毎週が隔週になった時はホッとした。

また同じ発想で神戸の各社の実務者レベルで月1回「神戸マンスリーミーティング」(KMM)を企画した。
これは月1回の昼食会スタイルのミーティングで各社には喜ばれた。経費をうかして年に何回かはPartyも開催した。このKMMは神戸各社のコミュニケーション作りに非常に役立ったと思う。

2011年12月9日金曜日

FM放送局

当時は今から思うとバブル絶頂期は既に越えていた時期、しかし会社(ダイエー)はまだバンバン! 何にでも手を出していた。

政府がFM放送免許を各府県に1つだけ下ろすことなり、兵庫県内でも各町が手を挙げた。 
最後まで残ったのは神戸のグループと姫路のグループ。 
県が調整に入ったが双方譲らない。県としては何でも神戸市に作るのもマズイと考えたのか両者折衷案をとった。 
つまり本社は姫路におき姫路の顔をたて、放送局は神戸に作るというものだった。 実質、神戸に作る型、ややこしいのは神戸で作った番組を一度姫路に送りそこから電波を出すと言うところ。 技術的には可能かもしれないが、何かとロスが多いのではと危惧した。 名前にも気を使い地名は入れずに「KissFM」とした。
そして、その放送局の実質的経営はと言うと又ややこしいことに。
TVやラジオは放送法という法律があってマスコミの独占支配を排除している。具体的には10%以上の株式取得を禁じている。 
そこでこれもややこしい奇策(マル秘なので触れないが)をとり、実質ダイエーが経営する方法をとった。FM会社の主な出資会社はダイエーシンパの会社で固めてしまい、主導権を握ってしまった。これはそれまでの財界活動の勝利だ。つまりは本店の活動成果。
こうして「Kiss FM」が出来た。 

オモシロイのはダイエーではKissFMはグループ会社だとしているが、
神戸新聞のパンフレットには神戸新聞グループだと書いてある。双方がグループってどういうことか? 同じことがTV局「SunTV」でも起こっていた。
ダイエーが手をひいた今、その問題は無くなったろうが。

2011年12月7日水曜日

J リーグ 進出

Jリーグが創設された時の話。
神戸でもプロサッカーチームを作る話があり、ダイエーはこれにも首を突っ込むことになった。まだ当時はダイエー絶頂期で何にでも首を突っ込む感じの頃だった。 

例によって神戸案件なので、本店内にプロジェクトチームがおかれ、活動が開始された。母体は確か川崎製鉄か川崎重工だったので当社に話があったのか?当時、川崎重工・製鉄とは非常に良好な関係であったから。
こうしてサッカーチーム「ヴィッセル神戸」が生まれた。
今、ヴィッセルは楽天が親会社になっているが、ヴィッセルはヴィッセルのまま。これには次のようなJリーグの方針があったからだ。
いわゆる現場、チームの中身はプロに任せて、会社設立から運営の準備が進められた。
最後までもめたのはチーム名、Jリーグの基本方針はチーム名には都市名を使い企業名はNGであった。 
ダイエーとしてはプロ野球と同じようにダイエーヴィッセルにしたかった。と言うより、社長もプロジェクトチームもそうなると思っていたようだ。だからギリギリ最後まで企業名使用を調整した。どんどん開幕時期が近づいてくる、企業としてはその名前を使うことによって広告効果と費用の広告費扱いにでき非常に有利。しかし、ガンとしてJリーグ側は譲らなかった。これは立派だっただと思う。今のプロ野球のようにいい加減な扱いではない。ユニフォームに企業名が入ってもそれは単なる広告、チームは地元のもの。このことが地域のスポーツ振興にどれだけ役立っているか。野球チームのない地方の都市にとって今やサッカーチーム(J2も含めて)はシンボル的存在だ。

ここで、大問題が起こる。
考えられたことだが、中内社長がチーム名問題で「撤退」を指示。サッカー会社として動き出した頃だったので、大混乱。しかし、社長指示は「即刻、引き揚げろ」で出向していた社長以下が手を引くことに。
サッカー会社社長は「今さら放りだす訳にはいかない。自分はダイエーを辞めてもサッカー会社に残る」と言いだした。 彼の言うのも御尤もだが、サッカー会社に残っても親会社たるダイエーが手を引けば居場所は無くなる。全くイミがない。 しかし、彼はダイエーを退社しサッカー会社に残った。
喧嘩別れの型になったが、暫くしてダイエーへの復社がゆるされグループ関連の会社へ。
ここが中内社長らしいやり方だ。

2011年12月6日火曜日

K女史のこと

ダイエー・イチケンとサラリーマンを辞めて浪人中、ある人の紹介で中国人女性・Kさんの仕事を手伝うことになった。

彼女は神戸・三宮でスナックを経営していたので以前から知っていたが、ここまでヤリ手の女性とは知らなかった。
彼女の家族関係が理解できない。
勿論、結婚していて息子もいる。息子を日本に呼び寄せ日本の大学を卒業させて跡継ぎさせようと育てている。妹家族も日本にやってきている。
姉妹ともご主人を中国に残したままで? チョット理解に苦しむ?

彼女は現在、中国との貿易業・上海料理店・デパートでの中華惣菜店・スナック・中国人留学生の受入れ学校等を経営している。
元々は中国からの私費留学生、殆ど無一文でやってきてパートを3件掛け持ちして日本の大学を卒業、そのまま日本に居座って上記事業を拡大してきた。

日本語はあまり上手ではないが、仕事へのスタンスはさすが中国人といった感じ。当時は中国との貿易、繊維製品の製造輸入を手掛け拡大しようとしていて、流通に詳しいということで私に手伝って欲しいとの依頼があった。しかし、私は衣料品はあまり知らないし、まして輸出入にはずぶの素人。その点では彼女の期待には答えられなかった。しかし、1年弱の間、彼女の手助けは色々したつもりだ。

中国からの製造輸入は非常に儲かる。
アバウトな話、日本で100円の商品は中国ではだいたい1/3の30円位で出来る。輸送・通関等の諸経費も加算しての価格だ。そして2/3の価格で卸す、当方の利益は1/3の30円位はある。
彼女は自身のネットワークを活かして中国の工場に仕様書発注する。
今のネットワークはスゴイ!彼女は国際携帯で上海の工場へ電話でどなり散らす。(日本人には中国語の会話はそのように聞こえる)こうなると国内も海外もない。
中国との取引きは慣習として発注時に代金の1/3を支払う。商品の完成時に1/3、日本到着時に残りの1/3をはらう。つまり100円の商品は30円で出来るので1/3の10円を最初に工場側に前払い。全くの信用のみの取引、実際ここでトンズラすることもあるらしいから要注意だ。

この方法で前年は1億の売上、つまり純利益は3000万円、非常にオイシイ話。 
それをK女史はもっと拡大しようとしていた。
日本での販売先は中規模の通販会社、しかし販路を拡大するとその先払いの資金がない。当時、日本政府の景気対策で中小企業への無担保融資があり、そこから1000万円借りる交渉をし、1000万円借り3ヶ月後の取引終了後、返済しようとすると銀行は返さなくて良いという、もっと融資しようとも言う。中国貿易の有望さが注目されかけていた時代だ。最終3000万円まで借りたことを覚えている。
その間、オモシロイ話は多々あった。
某焼き肉チェーンが焼き肉用の網を10万枚単位での打診があったり(値段が合わずNG)、自動車部品の話があったり、その為上海まで出張したりして非常に有意義な期間だった。
K女史からは色々と勉強させられた。多謝・多謝!

上海の話は別途書くことにする。

2011年12月5日月曜日

流通科学大学

大学を作る話。
中内社長が私財をなげうって大学を作るということになった。
しかも神戸に、「流通科学大学」だ。(関東にある流通経済大学とは無関係)
ホンネは相続対策だが! 財団法人に寄付したら、その時点でその金は公共のもの。支配は可能だが自分のものではなくなる。そこんとこをダマシタ奴が大学設立を持ちかけ、社長はのった。
多くの新規事業やプロジェクトを始める場合、神戸関連が多い。
従って準備チームは本店内に置かれることも多くなる。その為かどうかは疑問だが、1フロア余分に事務所スペースが空けてある、空いている。

例によって準備チームが本店内におかれ数名の担当が常駐した。学校法人の設立なんて殆どというよりは全くの素人、苦労していたようだ。
この業務は本店(というよりはダイエー)とは無関係の話で首を突っ込むことはなかったが、神戸の人にとってダイエーが作る大学ということでどこへ行っても話題にはされたので、情報だけは知っておかないといけなかった。
私が担当していた中内育英会の関係で流通・商業関係の大学の先生もこの大学設立に関係されていたり、関心を持たれたりしていて色々と聞かれたり情報もあった。だから大学設立チームとの情報交換も大切であった。
文部省への申請や、大学用地を取得するための神戸市(市の開発地を購入)との調整やらチームのメンバーは色々大変だったようだ。

流通科学大学自体はダイエーが作るということで非常な人気だった。
要はこの大学を卒業すればダイエーに就職出来るとのうわさで、初年度の入試応募者は倍率50倍、関西の有名私大・関関同立の次にランクされる位の人気だった。

これが、大変なことになった。
受験者が多いのはありがたいが、実際の入試が大変。1万名を越す受験者の入試をしなければならない。受検会場が足りない。入学試験を管理する先生が足りない。そこで受験会場は近隣の大学や・高校をかりて、受検当日はなんと我々ダイエーの管理職が担当することになった。これは内密の話、民間企業の社員など受検に使うなんて文部省はOKしないだろうから。
で、その理由かは知らないが、当日(日曜日)は無給・交通費も出ない。出たのはヤヤ豪華な弁当だけ! 受験料を何億も稼いでいるのに。 

現場が面白かった。(受験生の皆さんゴメンナサイ)
担当した受検会場は50名位入る小さな教室、そこを二人で担当、お互い取り決めをした。「お互いを先生と呼ぶこと」「必要以外には喋らないこと」「笑わないこと」等々。社内ではあだ名で呼んだり冗談をよく言うが、それはやめようと、受験生に失礼だからの配慮。
しかし、倍率50倍、教室に50名、つまりこの教室で1名しか合格しないのだ。何という厳しさ!

その後、事務長を務める中内育英会の奨学金枠がこの流通科学大学にも割り当てることになり、例の中国人留学生のこともあり大学との関係は深まっていった。
当時、大学へ出向した(させられた)ダイエー社員は「大学へ飛ばされた」という被害者意識を持っていたようだが、ダイエーが崩壊した今となっては大学だけが残り、彼らも残り「ラッキー」そのもの。
人生すべて「塞翁が馬」。

2011年12月2日金曜日

一難去って、また一難。

先々月、足の血管を手術して血流がよくなり歩くのが楽になったのだが、
「一難去って、また一難」
今度は以前からい気になっていた右足の付根が痛み出した。
大腿骨と足の間の軟骨が無くなりかけているのだ。 腰から太ももあたりがピリピリと痛い。

骨そのものではなく周辺の神経が痛む。
それも常時ではなく何かの拍子にピリッとくるから厄介だ。日常生活に支障があるかと問われると「アル」ともいえない。調子の良い時は何もない。

以前の整骨医の診断では「耐えられなく痛くなってから考えよう」といった医師とも思えぬ診断だった。その時がやってきたのか?
最終的には人工軟骨を入れる手術&リハビリで治るらしいが、ついこないだ入院・手術したところなのに、また手術はハッキリ言ってイヤ!
もっと痛くなるまで待ってみようと思う。病気でもないし放置しても本人がイタイだけで構わない。

ため息だけが出る。「一難去ってまた一難」
「人生全て塞翁が馬」かも?

2011年12月1日木曜日

神戸ルミナリエ

今年も神戸でルミナリエが始まった。
震災の年から数えて17回にもなる。当初はここまで続くとは思っていなかった。
このルミナリエは神戸市が開催しているように思われているが(今は神戸市が主催者)実はある神戸の財界の大物の発案。
彼は一人で開催を説いてまわり約数億円かかる費用を寄付金を集めて開催にこぎつけた。それには神戸商工会議所を巻き込んだ全く民間主導のものだった。経済効果は期待できるものの最初はみんな疑心暗鬼。最初は4~500万人もの来場者があるビッグイベントになるとは思わなかった。交通関係のJR・阪急・阪神等のみが収入増が期待でき、多大な寄付をしていた。当然、当社にも寄付依頼があり、他社の動きも調べて動いてはみたが、この寄付に何のメリットもない。社長がOKする可能性は非常に少ない、というより「何でもかんでも持ってくるな!」としかられそうだ。
そんな中、逆にダイエーが動けば他社も仕方がなく動くと言われる次第。

個人的にも何とかしたかったので、禁じ手を使った。

つまり、中内社長が断れない人から頼んでもらうのだ。そこで、その方にそれとなくお願いに、そして上手く二人が会えるようにして頼んでもらった。 即、OK! グループ各社にもお願いしてかなりの額を寄付した。これで他社も出しやすくなり何とか数億円の寄付が集まって開催に至った。

しかし、実施される街は大変。スタート地点の元町の大丸さんなどは、開催待ちのお客さんで売場は混雑するし、またトイレが公衆便所状態、その清掃も大変で多大な迷惑をかけたようだ。 売上増を期待した飲食店もスタート地点の元町周辺はガラガラ、終点地点の三宮周辺だけが賑わったようで、賛否が分かれ翌年には反対運動が起きる。その問題は解決せず今に至っていると思う。


寄付も長くは続かない。

来場者がお賽銭みたいに100円でも入れてくれたらと各地に寄付の箱を用意したがイマイチ。   タダで楽しむな!と言いたい。
最終的には神戸市の外郭団体がルミナリエを受け継いでもうこれはやめられないイベントになった。

確かに止めるには惜しいイベントではある。

新聞記事情報

これは広報の仕事だが、神戸には広報担当が1名なのと我々にとって新聞情報も必要、そこで広報業務の一部を手伝っていた。

単純な新聞の切り抜きを作るだけの仕事だが、担当者任せに出来ない重要な作業なのでシフトを作って一日置きに管理職が担当した。

作業的には毎朝、8時半までに新聞のサマリーを東京の広報へFAXする。9時までには各地の新聞が社長へ届く段取り。
そのためには7時頃には出勤し日経+全国紙+地元紙神戸新聞に目を通し、切り抜きを作る。

この作業は東京・大阪・福岡もやっていた。

当社の発表記事でも各地各紙の扱いがどんなものかの比較にも主要都市の新聞情報は大切と考えられていた。同じ新聞発表でも大阪では1面なのに東京では1面にはのっていないと言ったことはママあった。
流通関係の情報、経済界の情報、それに各地特有の情報は漏らさずピックアップ台紙に張り付けてサマリーを作る。神戸で特に気を使ったのは神戸新聞、地元の情報で神戸にしか載らない記事は多々あるからだ。特に当時神戸新聞とは冷戦状態(当時記事に誤謬があり、広告全面撤退していた)であったので気を使った。
慣れてくると各紙の姿勢がよくわかる。ひどい記事は通信社の記事のまる写しなんてのもある。
こちらが作戦上、ある1紙だけにリークした記事などはその後の各紙の対応も色々あり面白かった。

月曜が大変、何故なら日曜分が追加されるからで月曜は管理職全員で対応した。

当時のダイエーは流通業界のトップだし、中内の動向も注視されていたので広報対応は重要な業務であった。
結果的に新聞情報で知らない記事はなくなり、その後の渉外活動に役にたったことは言うまでもない。