2011年10月12日水曜日

中内社長を囲む会   

 中内社長を囲む会(通称:中内学校)という会がある。
元を正せばサンヨー電気の井植社長が始められた「井植学校」をそのメンバーであった中内が跡を継いだ形になっている。井植学校がどのようなものであったかは知る由もないが、私が担当した頃の中内学校は殆ど遊びにシフトしていた。社長もある面では苦々しく思っておられたが、担がれている立場上余り口出しも出来なかったようだ。

 その担当とは言ったが、表向きはメンバーが運営していることになっている。私の役割は彼らと中内の取り次ぎと言うことになっているが、実情は事務局業務殆どを陰でしていた。社長は知っていたようだが、知らん顔をしていたようだ。

 メンバーは例によって神戸JCのOB(理事長経験者)が殆どで、地元神戸の若手の中心人物の集まりであった。ここでも例のT氏が殆ど企画してそれを私が実行に移すと言うのが定番の型だった。沖縄や福岡への小旅行の企画もあった。ホテルは一流、料理も一流でイイ経験をさせて頂いた。ダイエー直営牧場から黒毛和牛1頭を使ったステーキパーティーやクエ1匹をさばいたりもした。贅沢をこした企画ばかりでその中でグループ企業を使って少しでも売上げアップにつなげる努力もしなければいけなかった。オリエンタルホテルがグループなのが大変助かった。
費用は年会費で殆ど賄っていた。年会費15万円、50名位メンバーがいたし、会計も任されていたので年700万円位を自由に使えた。逆に会社の経費は殆ど使っておらず、出費は社長からのお土産くらいのものか?

中内校長の講演後、宴会と言うのがワンパターン。
宴会も毎回嗜好をこらしたものだった。ホテルの宴会場に茶室を作り庭まで作ったりもした。ここまで言うとその中身が推測できると思うが、事務局はたいへんであった。しかも顔を出さない苦労は言い難いものがあった。

 しかし、いろいろ経験させてもらったし、おいしい食事のお相伴もさせて頂いた。感謝・感謝。

2011年10月11日火曜日

神戸日米協会   

 全国の主要な年には「日米協会」と言う団体がある。
因みにアメリカには「米日協会」が日本人の多い都市にはあるらしい。

全国組織として東京に社団法人「日米協会」があり、我々も参加している。この日米協会は外務書のお声がかりで作られた法人で会長は元総理大臣や歴代駐米大使クラスが勤めておられ外交ルートを通じた民間外交活動をされている。
 しかしながら、各地にある日米協会はバラバラ、会長の意思でその方向性が異なるようだ。任意団体だしそれでよいのだ。
 神戸日米協会は先年、中内社長が会長に担ぎあげられダイエーが主として運営に当たることになっていた。社内的には社長の財界活動の第一歩との位置づけだった。

 神戸日米協会の方向性は「アメリカのことを考える日本人の集まり」会員200名(社)いるが内アメリカ人は5名しかいないので、苦し紛れに作った方針なのだ。第一国際都市っぽい神戸市に住んでいる米国人は100名位しかいないのだ。ハッキリ行って会長を引き継いだ時は非常にエーカゲンな会ではあった。
 だから神戸日米協会の事務局は何もしなければ何もしなくても特に会員さんから文句は言われない。春に総会・年末にクリスマスパーティー位をしておけば良いのだ。
 しかし、私が担当してから事務局への要望は多くなった。
中内を支えよとする神戸のメンバーが専任事務局が出来たんだからダイエーをバックに色々と企画しようと言ってきた。協会役員による実行委員会が組織され各種事業が企画された。彼らは企画するだけ、実行は全てコッチにまわってくる。作業量もなまじのものではないし、資金もいるが実行委員会はお構いなし。事務局といっても私と女性一人しかいないのに! 彼女(ダイエー社員)は英語も堪能で仕事もできる人だったので彼女に仕事をどんどん任せるようにもっていった。
 
 
神戸まつりパレードへの参加(USArmyのバンドを呼んでのパレード)、英語弁論大会の開催、親睦ゴルフ等々、それに総会・クリスマスとほぼ隔月に行事が企画されていた。
エーカゲンにしてほしい。これがホンマに社長の為になるのか?

2011年10月10日月曜日

寄付金の依頼   

 各種団体や行政等からの寄付金の依頼も多かった。
その為予算を2億円ももらっていた。寄付の依頼者は「ダイエーさんやから」と期待して来るが、いかんせん超ドケチな会社なので99%はお断り。

 先方はダイエーが出すと他社へ依頼しやすくなるので大概はイの一番に持ってくるが、そうはいかなかった。最初のころ寄付を断るのはイヤだった。出来れば気持ちよく出してあげたい。しかも金額が小額の場合「こんな僅かでもださないのか」と思われるのもケッタクソ悪い。
 でも、判ってきた。ダイエーは売上1兆円を超す東証一部上場の業界トップ企業、しかし内情は創業者社長である中内氏の個人商店。従って社長は会社のもの全部「オレの物」と思っている。中々理解しずらいが、ボールペン1本から店舗まで全て社長のモノの発想が必要。つまりは例え1万円の寄付でも彼の財布から出ていると思わねば。個人的には1万円出すか否か? 価値のない寄付は絶対にしないが価値のある寄付は1億(担当した最高額)でもする。 
 しかも 当時の売上高利益率は1%に満たない低水準、100円儲けるには1万円の売上げが必要、高利益率の企業とは異なる。10万円寄付するとその百倍の1000万円の売上げが必要、これは中規模の店の1日の売上げに相当する。よくよく考えないとお店にも迷惑がかかる。
中内商店たるところは、その決済にもある。
社内の決裁基準では部長職の私が10万円、室長(常務)に至っては3000万円の寄付金決済権がある。
しかし、たとえ5万円の寄付でも社長に報告した。それには何事も神戸のことは報告と言うことと、もう一つは個人商店的発想からだ。 確かに、常務は細かいことでも報告していたようだ。手書きしたメモをFAXで。 手書きの意味は二人だしか知りませんを証明するもの、当時出回りだしていたワープロなど考えられない世界だ。
ダイエーの社員と言うより中内さんのパーソナルスタッフみた!

寄付金の依頼は数えきれなくある。色々、貴重な体験をさせてもらった。
秘策もあった。 
この寄付はまず難しいなぁ・・・?でもした方が良いし・・・? と思う寄付に   は秘策があった。
まずは奉加帳(寄付のリスト)を見せてもらい、神戸4社と調整をする。どこもイの一番に手を上げないので所謂「ツルム」のだ。4社中、2社が同調すれば対抗上必要と報告する。良い意味での談合だ。
ないしは、その寄付の中心になっている人物から直接コメントを貰いその旨、報告する。「あの人が言うなら・・・」と賛同の方向に持っていく。
・・・てなコトもよくしたもんだ!

2011年10月8日土曜日

反省、日野原重明先生100歳におもう。

 妻がガンで遊病中、傾倒していた聖露加病院理事長の日野原重明先生が100歳を迎えられNHKで特別番組があった。
 今夜の放送は非常に興味深かった。
 地下鉄サリン事件時の先生の大活躍は知っていたが、あの忌まわしい「よど号ハイジャック事件」に遭遇されていたことは知らなかった。
ハイジャックされて4日間機中で生死の境をさまよい、生還されて思われたのは
「残された命は神様から頂いたもの、それをどのように人々の為に使おうか?」ということ。
比較するのは恐れ多いが、同じように死にかけて生還した私が思ったこととの違いは恥ずかしい限り。「これからは余生やから・・・」とその後もエーカゲンな生きてきた自分自身が恥ずかしい。
 先生はクリスチャン、神に仕える思いには非常なものがある。
「人々の為のMission」といわれ、100歳の今も病院理事長としてケア病棟の患者さんを勇気づけられている。先生に勇気つけられた患者さんは何人いらっしゃるだろうか?
 また同じ信仰者としてもその思いは比較にならない。
今からでも遅くはない、神様から頂いたこの命、何か有意義にお使いいただきたいと思う。

中内育英会   

 財団法人中内育英会の事務長を命じられた。
事務長と言えばカッコ良いが事務局は事務長一人のみ。事務所は神戸本店の中にある。と言っても登記上の話。事務局たるスペースはドコか明確ではない。
確か電話は1本あった。かかってきたら「中内育英会です」と言って出るように指示されていた。

 この財団は兵庫県の認可のもと、育英・奨学事業をしていた。
基本財産(資本金のようなもの)は社長が個人的に寄付したダイエーの株式、毎年の配当で財団は運営されていた。当時は3割配当をしていたので、財団の資金は潤沢であった。
 資産が株式であるので株価が上がると総資産額も増える。株価が3000円をつけた時、資産総額は一時的ではあるが100億を越えた。主管部署である県の教育委員会は総資産が不安定ということで主たる資産が株式であることを嫌がったが当時は高株価の時代、配当も高配当、無償増資や株式配当もあって資金的には順調ではあった。
 

 中内育英会の主たる事業は商業学を学ぶ大学生への奨学金の支給。
県下の指定大学の学生に返済不要の奨学金を授与していた。学部の学生1学年6名、合計12名に3か月に1回、本人を呼んで理事長(=中内社長)自身が手渡していた。だから年4回授与のセレモニーをしなければならない。定番の業務ではあるが、邪魔くさいと言えば邪魔くさい。 
 いつだったか授与後、「これで明日からスキー行こう」と言った学生がいて、後から叱られた。奨学金を本当に必要な学生に支給するのは難しいものだ。

 他に、商業関係の論文(作文)募集事業や講演会等も実施した。
それに商業学を研究する若手研究者へ研究費も出していた。これは貰いっきりで領収書もいらない。もらった人は後に「研究成果です」と膨大な論文・資料を持って来られるが、頂いて読む訳でもなくありがた迷惑でもあった。
奨学生を選ぶのも研究費授与者を選ぶのも決まった顧問の大学教授、関西派と呼ばれる神戸大学・神戸商科大学・大阪市立大学の経営学部・商学部の先生方だ。

ある意味その先生にとってはスゴイ金を握っていることになる。
何度か選考委員会に同席したが、メシを食うだけ、事前に割り当てがあって選考はすんでいるのだ。ペーパーを見せてこれでよろしいねでオシマイ。委員会経費(=高価なメシ代)だけ無駄。
 しかし、その後流通科学大学を設立する時には色々と援助頂く結果とはなった。

 財団の年間予算は約8000万円、県の指導は年間収入(=予算)は全額使うものといった年度決算主義、こちらは不足すると困るのでなるべく節約、だから毎年1000万円は残る。
 決算報告で理事長は「剰余金:1000万円」にご満足、「これだけ残ったんやな」と念を押す。県教委へ行くと「剰余金はいつかはまとめて使え」と言われる。最後には1億円は超えないようにと念を押される始末。考か不幸かそれまでに退任してしまったし、財団は無くなったが。

 一番気を使ったのは年1回の理事会。
突き詰めれば「書面理事会」も可能だし、この手の財団でキチンと理事会している財団も珍しいだろう、でも書面理事会は理事長が許さないだろう。
 理事は6名、理事長と常務理事は良いとして元兵庫県副知事・神戸市長・神戸商工会議所会頭が入っている。日程調整から理事会議題・進行・事後の食事やお土産のことまで何せこちらは一人なので大変。
当日は司会進行までしなければならないしスーパーマンにならないと出来ない!

 いつの理事会だったか、全理事が揃ってしまった。普通は誰かが欠席なのだが、全員が揃うなんて! 神戸首脳会議みたいな会合になってしまった。事務局はもうバタバタだった。

 そこに理事長からまた無理難題が突き付けられた。
当時(中曽根総理の時代)社長は臨時教育審議会の委員をしていて「留学生20万人受入計画」が政府方針として決まった。
即、反応して「育英会で中国人留学生を財団で受け入れるように・・・!」
社長からの指示はそれだけ、全くどのようにしたら良いか判らない。
常務理事も冷たいもので「指示はそれだけや」後は自分で企画しろと言う。
このことはあらためて書こうと思う。

 しかしその財団も今はどこかに吸収されてしまったのか?懐かしいと言えば懐かし過ぎる。




 


2011年10月7日金曜日

担当業務

 民間渉外担当たる私のルーティン業務は主催団体の事務局業務や各種加入団体のメンバーとしての対応があった。
社長が会長を務める神戸日米協会、社長を校長とする通称「中内学校」中内社長を囲む会その他諸々の団体の会合等に参加すること。

 神戸の地元企業は2代目さんが青年会議所に」参加している。当初、私が着任した時この神戸JC(ジュニアチェンバー)にメンバーとして参加させる方針だったらしいが、年齢的に40歳までが加入制限なので不可となった。しかし、現役JCのメンバーをフォローすることは重要な業務だったので担当した。
因みに同じ小売業の大丸・そごうはメンバーを加入させて情報収集させていた。
大手の神戸4社以外は殆どこのJCが根っ子、JCを抑えないと民間の渉外業務は出来ないと言いても良い位だ。
既に、JCの流れをくむ神戸日米協会では会長に祭り上げられていたし、中内学校も9割方JC出身者・JC理事長経験者も多くいた。勿論、地元神戸の企業若手の集まり、自動的に神戸商工会議所のメンバーでもあった。
大きな声では言えないが、地元中堅の2代目さん、金使いも荒く、ハデだったので実際ついていくのがシンドかったが!


 神戸本店の業務は上記のようにダイエーの仕事とは全く関係もないし、関連もしていない。一からの出発だった。
そこへもう一つエライ仕事を命じられた。財団法人「中内育英会」の事務局もしろと言う。 

これは社長が個人的に作った育英財団、持ち株を寄付して商業関係の大学生に奨学金を支給したり、その他文化活動をしたりしているもので、社内的にはあまり知られていない。

社内には同じような名前の「遺児育英基金」がある、志望した社員の子供への奨学金支給を人事がやっている。同僚も間違って「オレが死んだら頼む」とよく言われたものだが、全く違った組織。

 財団法人の運営なんて全く知らない。
以前は専門知識を持った社外の担当者がいたらしいが、軌道に乗ったこともあり、社員に兼任させようと言うもの。神戸へ行った途端、財団へ出向の辞令が出て事務長を兼任させられた。給与は財団から出るが、それだけでは不足なので不足分をダイエーから補てんと言う形、名刺も2枚もって仕事をした。
 そのバランスが非常に難しい。財団には常務理事たるダイエーの役員が東京にいて彼の指示に従う。本店には室長たる常務がいて彼の部下でもある。結果的には双方の指示は受けず自分でコントロールして決済のみ受けていたように思う。

こうして、神戸での新しい仕事が始まった。

2011年10月6日木曜日

神戸商工会議所 ②

 商工会議所と言うのは「商工会議所法」と言う法律に基づいて作られた法人。我国の産業関係団体では一番古い由緒ある組織だ。全国団体の日本商工会議所、各大都市にも同様の組織があり、中小都市には商工会の名称で組織されている。

 商工業者なら会費(1口月1万~2万円位・何口でも可)を納めれば会員になれる。
会員になると会議所の各種サービスが受けられる。経営指導や経理指導、国からの金融の窓口にもなっている。運営は専任の事務局があり、会員相互の選挙で選ばれる議員が民主的な運営をされている。トップである会頭も選挙で選ばれことになっているが、立候補調整が行われるので実際の選挙は行われないのが通常のようだ。
(また、この選挙が非常にオモシロイものなので後述します。)

 しかし会頭になってもたいしたメリットはない。
勿論、無給だし、専属スタッフも自社から手弁当で連れとこないといけない。逆に何かあると担ぎ出される立場なので結構忙しい。県知事・市長・会頭と言う3名がセットでセレモニーには出席する。だから、現職の社長クラスでは勤まらない。一線を退いた会長クラスでその企業がバックアップする人っでないと勤まらないものだ。寄付金もイの一番にしないといけないので、資金力もいる。
産業界の各種団体、経団連を始め、同友会、経営者協会etc.みんな同じようだ。

 なのに、何故か、誰が言い出したのか? 社長が会頭職を目指していると言う。
これも本人から直接聞いたわけでもないのだが、いつからか既成の事実として社内・外に流布されている。
その為か、この神戸本店室と言う組織が出来て、常務をトップにスタッフ10名位が常駐していた。表向きは社長の出身地(生誕地ではないが)である神戸に恩返しする為と言うことになっている。

ひょっとしたら、もし社長が会頭になっていたら、常務が会議所の専務理事にそのスタッフで私が会議所入りしていたかもしれない。
人生、何がドコでドノように転がるか判らない?

2011年10月5日水曜日

神戸商工会議所 ①

 民間渉外担当たる私の主たる業務は神戸商工会議所の対応。
当時、社長は商工会議所の副会頭。でも社長は殆ど東京だから会議・会合等には出席出来ない。その代理を常務がしていた。私はその補佐、色々な情報を集めて報告、指示をもらう。

常務も出席出来ない会議・会合には代々理をしなければならないので大変な時もあった。
 私の仕事は外交で言う「シェルパ」のような仕事。
シェルパとはヒマラヤにいる山岳登山案内人のこと、転じて外交上の情報収集・事前調査・調整担当のこと。まさに私の仕事はシェルパだった。
 常に会議所事務局とは良好な関係を保ち、情報をいち早く入手、対応を検討し報告、社長の指示を受け対応する。


 当時、会議所の担当窓口だった計谷部長とは同年齢だったこともあり、何か気が合ってツーカーの仲になった。以来20年余、お互い退職してからもつき合っている。実際彼とは色々一緒に仕事をした。飲みにもよくいったものだ。
事務局責任者で常務理事をされていた長田氏にも親しくお付き合いいただいた。長田・計谷両氏のお蔭で神戸商工会議所との関係は常に良好に保てた。
両氏には感謝・感謝だ。


 神戸で大手といえば「神戸4社」と言われていた神戸銀行・神戸製鋼・川崎重工・川崎製鉄。
そこに神戸「5社」と言われるようになりたいと手を挙げていたのが当時のダイエー。商工会議所もその4社が主導していた。
神戸銀行は取引があったし、川重・川鉄は元来当社より、問題は神戸製鋼。何か先方も対抗意識があって接しにくかったのを覚えている。
 部下の社員に良く言ったのは「神戸4社と言ってもその業界では2位3位、我々は業界トップ、リーディングカンパニー。胸をはって頑張ろう」・・・と。
ある面渉外のしごとは「キアイ」だから!

2011年10月4日火曜日

神戸本店室。

   これまで凡そ時系列的にかいてきたが、これからはその枠を外して書いてみる。
と言うのも話の前後が定かでないことが多いからだ。


 店長を3年ほどして個人的にある事故を起こし、店長解任(この事故については別に書こうと思っています)簡単に言えば、ダイエーの社員でありながらオヤジの会社をやっていた就業規則違反、バレたのはその会社のトラブルから。本来はクビ、それを社長は許してくれた。このことがそれからの仕事に大きく影響していたようだ。

 店長を外されて半年位、本部で遊んでいた。実際は仕事ナシの窓際!
その間はヒマと言うか干されているので本当は辛かったが、同僚たちが毎日慰めの飲み会をやってくれたりしてそれなりには過ごした。そして新しく出来た「神戸本店室」と言う組織に異動が発令された、しかも管理職扱いで。なんと言うラッキー!

神戸本店室は多分他社には恐らくない組織、ダイエー本来業務とは異なり、社長自身の財界活動の拠点組織。
かなりマル秘事項も扱う。あとから考えると、社長としてはクビを許した「恩」を返せと言うことかも?

 それから10年余、阪神大震災後までこの本店という訳のわからない組織で仕事をした。ひとことでは言えないほどその業務の幅は広く色々な事項を担当した。
神戸本店室は法律上の本店としての総務的な仕事、本来本店は主たる事務所におかなければならないのだが、敢えて社長の出身地「神戸」に法律上移したものだ。当時、主たる事務所は東京に、しかし法律上の本店は神戸。神戸市のビルのワンフロアを借りたチッポケナもの、社員数名、責任者は常務取締役。

 しかし事情を知らない人は何でも神戸の本店にもってくる。問合せも多い。ルーティンとしてそれをさばくことも必要。

 そして本来業務の財界活動と言う渉外業務。
通常の企業と異なるのは単に財界活動するのではなくどれだけ営業にプラスになるかが問われる。ダイエーらしい。
室長は常務、民間渉外担当と官公庁渉外担当の二人の管理職(部長クラス)それに担当者が数名。私は民間を担当した。要は神戸商工会議所の会頭を目指す社長の最前線を担当した。社長-常務-私の非常にシンプルなライン。
おおよそは上記の通りだが、具体的にはなんと煩雑な業務か?
これから思い出すまでに色々書いていこうと思う。








2011年10月3日月曜日

ダイエーの組織は。

 少し業界的なことになるが、ダイエーの組織、営業体制つまりは店と店舗運営について真面目に書いてみよう。

 ダイエーでは店長&店長経験者は一目置かれる。
そのの発言は重要視される、同じことを言っても店長未経験者の発言は聞き入れられない傾向にある。会社自体が超現場主義、いいかえればお客様中心主義であるからだ。当時は創業者の中内社長の精神が活かされていた。(現在のダイエーはダイエーと認めがたい)
 営業体制はマトリックス式だ。
縦の組織と横の組織が上手く絡み合って全体の経営を支えている。 つまり、縦:店の店長をトップとする売場体制と、横:商品部の部門ごとの管理体制だ。通常、考えられるのは店長がその店の責任者で売場責任者を使って営業しているようになってはいるが、それだけではない。
 商品部の部門別のスーパーバイザー(SV)による売場主任への指導がある。その二つが有機的に活動することによって営業成績がアップする。しかし、両者は売上げ利益の向上を目指すものの、立場の違いからよく衝突する。 店長は売場をSVは商品を握っている。それぞれの思惑もあるし、売場は限られているので、部門別の衝突は必ずおこる。 上手に調整するのも店長の手腕だ。売場主任の人事権・評価は店長がするが、成績を上げようとするとSVの言うことも聞かないといけない。板ばさみになる主任も多い。 

 企業としても縦の店舗運営をする組織と商品仕入れをする商品部とがそれぞれの予算達成の為を目指し、有機的に営業活動するようになっている。
とは言いうもののそれぞれ入社後の出身ライン(店舗運営ラインか商品部ラインか?)勿論、管理部門もあるが)で二大勢力化している。人事としては相互乗り入れを試したことはあるが、この出身ラインの問題は非常に強固だ。 挨拶変わりに「ドコ出身?」とまず聞くのが普通だ。「食品です」と言うとと多分会社を辞めるまで食品屋なのだ。
そして食品のトップはその人事にまで口をだす。良い人材を自分の陣営に取りたい、これはドコの企業も同じ派閥の問題だ。

 残念ながらボクは色々と組織を渡り歩いたのでラインがハッキリしない。幸か不幸か影響力のあった酒井部長も早くに亡くなって、所謂引いてくれる上司もいない。その場かぎりの人事異動に翻弄はされた。売り場主任から本部人事・教育部へそして又店へ地区長スタッフとして企画へ又店へと。どちらかと言えば店ラインか?


 ダイエーの凄さはやはり社長の凄さだ。
上記のような営業体制を支える社員が唯一言うことを聞くのは社長だけなのだ。ハッキリ言って創業期からさほど能力もないのにオレがオレがの人材ばかりの会社を一人で運営してきた中内社長の経営手腕はスゴイものがある。みんなが「オレは社長と・・・」と思わす人の使い方はバツグン。それだけに弊害もあったが!