2011年8月30日火曜日

1000ケース事件

池田店は非常に売れる店だった。
特に売出しセールでは信じられない数量がでた。池田市民、全員が買ってくれている自負と責任があった。

「商売の基本」は信用。
その昔、商(インの別名)の国の人が毎月日を決めて物を売っていた。○○市の始まりだ。 商の人は決まったものを決まった日にまじめに「商売」をした。以降、物を売ることを「商売」と言ったとか。
つまり、商売の基本は買い手であるお客様の期待を裏切らないこと。決まった日に決まった物をキチンと売る。信用第一、これにつきる。

・・・とは少し違った話。
ある担当者が売りだしの醤油を1000ケース売りたいと言うので許可した。
醤油1ケースは15本、1000ケースで15000本、まぁそれ位は売れるだろう。
それを聞いた別の担当者達は自分も担当の商品を1000ケース売りたいと競って1000ケース注文した。売る気があることは良いことだ。
しかし商品によって1ケースの入り数が異なる。
インスタントコーヒーは24本、砂糖なら20袋、ビスケットは30個だ。だから同じ1000ケースでも総数は違うもんだ。
ところが、1000ケース競争に触発されたある担当者がインスタントラーメン1000ケースを発注した。

因みに池田はインスタントラーメン発祥の地、インスタントラーメンの発明者・日清食品の安藤百福社長の自宅は店のすぐ裏にあってラーメンに対する思い入れは異常なものがあった。(今のラーメン博物館)
でもインスタントラーメンの入り数はケース30袋。
しかもそれを3ケースを一括りにしたものが1発注単位だった。つまり1000ケースは30×3×1000=9万食。池田市民全員に食べてもらってもおっつかないかも! しかもかさ張る商品だ。50cm立方位なのが1000、発注を許可した主任たる私の責任。
トラック2台で納品された時、みんなビックリ。
でも返品は出来ないし、出来たとしてもプライドが許さない。シコシコ売っていった。1カ月位かかったのを覚えている。
古き良き時代だった。

2011年8月29日月曜日

オイルショック。

 昭和48年だったか、いわゆるオイルショックがあった。
千里のピーコックのトイレットペーパーに始まった商品の買いだめ傾向はアッと言う間に各スーパーに飛び火、色々な商品に拡大。最終的には何でも買い占めると言う状態になってしまった。

池田店でも食品を中心に大変キビシイ状況が続いた。
砂糖がまず最初に買いだめされた。商品はあるにはあったが、買いだめスピードには追い付かず。品薄状態が続く。次に醤油・食用油と拡がり、常に売場はガタガタ、商品が入荷と同時に売れて行く。ありがたい話だが疲れる。 関西の問屋にも商品がなくなり、地方の問屋やダイエーの店から商品を手配した。注文なんてあったもんじゃない。あるもの何でも持ってきてと言った状態。

最後は業務用大袋なら手配出来ると言うことで大袋を発注。
それを計り売りするのだ。砂糖・小麦粉までは良かったが醤油となるとどうして計り売りするんだ!そして計り売りはロスが大きいので儲けはないに等しい。
なんやかんやで、年末を迎えた。
恒例の社長巡回がある12月30日のこと売場の半分以上はガラガラ。通常なら大目玉をくらうところだが、棚をきれいに清掃し、お詫びPOPをキチンとつけてさらに課員を他課へ応援に行かせ売場には主任たる私だけがいて社長を迎えた。社長も言う言葉がなく「ご苦労さんやな」とのみ。
物量勝負の当時のスーパー、特にこの年はシンドかった。
あれって何やったんやろか?




2011年8月27日土曜日

夢のはなし。

 将来を夢見る「夢」でも、寝て見る「夢」でもありません。
どちらかと言うと寝て見る夢かな?

4年前に亡くなった家内が極めて稀に夢枕に立ちます。
マレと言ったのは4年間で4回だからです。

1回目は亡くなった年の秋頃、
姿が目の前を横切ったので声をかけたら、消えてしまった。どのような姿か覚えもしていない。
2回目は、着物姿だったことを覚えている。無言、スッと消えた。

3回目が圧巻。 
なんと裸、胸像と言うのがありますが、その通りで胸から上がハダカで表れた。 僅かにニッコリ微笑んでいた。 
その時は「何故ハダカ?」と思ったがあとで思い直してわかった。 乳房がキレイになっていたのだ。 乳がんで酷いことになっていた右の乳房がキレイに(もっと言えば大きく立派に!)なっていた。 
その姿を見せたくて表れたのだ。 天国で治して頂いたのか? 何かホッとした感じ。
最後はなんと天女の姿、羽衣に出てくる薄物をまとった姿。 
微笑んで上昇していった。 多分、これが最後だろうと思う。 あのまま天国に帰っていって、悪人のボクにはもう追いかけることも出来ない世界。 これでいいのだ!




2011年8月26日金曜日

ターニングポイント

  誰にも人生のターニングポイントがあると思う。
その時はそれがターニングポイントとはわからないときもあろう。
もちろんボクにもターニングポイントは多々ある。
・大学を何ら選択しなしに決めたこと・・・家から近い、兄貴が行っていた。
・会社も大した考えなく決めたこと・・・面白そうな会社・昇進が早い。
・結婚も急いで(ハメラレテ)決めたこと・・・「30歳までに」は何ら根拠ナシ
・・・・・等々
以降の人生のターニングポイントは自らが決めると言うよりは会社が決めた流れに何の疑問もなく従ったことだ。
池田店から人事への異動は多分前年にあった労働争議に加担(役員)していたからだと思う。加担した者は全員異動、ボクの場合はその異動が企業側役員だったのでそれが良い方向へ行った。
人事へ異動したお蔭で優子と出合い、結婚。
大学は兎も角、ダイエーに入社せず、オヤジの薦めるハウス食品へ入っていたら、優子との出会いはナシ。今の生活も大きく変わっていたろう。
そのようなポイントは多々あるものだ。
一つ一つ真剣に考えていても結果は予測できない。

残された人生、まだターニングポイントはあるのか?

やはり「川の流れのように」が一番か? 大きな流れには逆らわず生きて行くのが良いようだと今になって思う。
運命は変えられるが、宿命は変えられないらしいから!

2011年8月25日木曜日

主任さんに!

1年半後、昇格試験にパスし宝塚市の小林店に異動、待望の監督職・売場主任になった。
でも、仕事の内容は変わらない。

その後1年、今度は池田市の池田店の主任に昇格した。
仕事の内容は同じだが、当時の池田店は全国ベスト5入る大型店、一般食品課の売り上げは月8000万円、年商10億、名実ともに大主任さんだ。部下は社員が10名、パート・バイトが10名以上いた。主任の仕事は主任代行が殆どする。本当にナイ。売場をウロウロするだけ。

メーカーさんにとって当時のスーパーは無視出来ない存在になっていた。だから年末などには大手の食品会社のエライさんがこんな若造(27歳)に挨拶に来られる。味の素・ネスレ・明治・森永等々。

また当時は商品を並べたら売れる時代、つまりは商品確保が売上アップに即つながる。社内競争をしてでも商品確保が成績アップに繋がった。
今のシステム化したスーパーと違い店での商談も可能だった(会社は禁止していたが)仕切り値はおなじでも現物商品をつけて仕入れたりして結構おもしろかった。10c/sに1c/sタダの商品をつけるのが一般的だった。

とにかく、仕事がオモシロかった。時間はアッと言う間に過ぎていった。
昭和48年、そこにオイルショックが襲った。(続く)


2011年8月24日水曜日

30歳になったら、結婚しよう。

 全く理由はないが、30歳になったら結婚しようと思っていた。
多分、それまでは自由に仕事に遊びに熱中したかったからだと思う。
ダイエー入社以降、仕事中心と何故かラグビーをしたかった。自主トレして頼まれもしないのに後輩の合宿に参加したりしていた。29歳11カ月、結婚するまで仕事とラグビー中心だった。

職場には女性が多い。
7割は女性(社員とパート・アルバイト)だ。手を出さなくても少し油断すると女性に捕まる職場だ。それだけに女性問題には厳しい会社でもあった。
極端に言うと女性は寄りどりみどり、当時地方から集団就職で都会へ出てくる女性の主な目的は幸せな結婚だ。彼女たちにとって「大卒・主任」が基準。それに当てはまるので大変だった。全く知らない売場の女性からプレゼントを貰ったりもした。そこで甘い顔をしたらNG!
嫌われる位冷たく対応しなくては!
女性との問題で責任をとったヤツ、退職したヤツ、色々いた。
結果的にはボクも社内結婚だから大きなことは言えないが、当初はイロイロ苦労したもんだ。
と言いつつ、池田店では大変な事件に巻き込まれた。
開店前に商品補充だけをするアルバイトがいた。たいていは40歳代位の主婦だったが、彼女だけが26歳と若かったし男好きするタイプだ。彼女は話上手、上手く話題に引きずり込む。何も知らないボクは上手く誘われて彼女とお茶を飲みに行ったり、ドライブに行ったりもした。ボクもハッキリ言ってキライではなかった。
ところが、なんと彼女は何人もの男性課員に声をかけ、いわゆる「遊んでいた」、それ自体は自由だが、課のある新入社員をH○○○○にまで誘ってs××したと言う。 同じような人間があと二人表れ、課内はガタガタ。なにせ主任であるボクまで当事者だったんだから。
一番困ったのはそのうちの一人が結婚を間近に控えていて婚約者がそのウワサを知ってしまったこと。
こんなことが店長の耳に入ったら大変。当事者を全員集めて「彼女は解雇。今後一切付き合わない」と言う対策を決めた。全員、ボクの方針に同意してくれた。
責任上、彼女の家に行き事情を説明、退職を納得させた。
その時、彼女の悲しい生い立ちを聞かされ、中学時代にはヤンキー仲間に入り○○されたとも言った。それを聞かされ、もう少しで同情しそうになったが、そこは毅然と切った。彼女も自分のしたことを認め反省していると言ってくれた。でもボク自信、個人的には苦しかった。

そんな時、異動の話があり、本部「人事・教育」へ異動した。
この事件がバレたからではないと思うが、タイミング的には事件は解決、そのことを忘れる為には良かった。















2011年8月23日火曜日

予想にたがわず!

ダイエーに入社して、と言うより入社前から「予想にたがわない」会社だった。
特に我々数名にとっては特にハードだった。
配属予定の店舗が大阪府箕面市の箕面店。なんと4月2日がオープン日。
4月1日は入社式。
入社の翌日からと言うよりオープン前の3月中旬からバイト扱いで働かされた。特に何も教えられず入社即配属。それも有無を言わせず一般食品課、生鮮食品以外の加工食品全般が担当。
思いもかけずラッキーだったのは高校時代の同級生・赤賀クンが同じ店の同じ課に配属されたこと。お互い励ましあって、慰めあって働いた。
そして関学のRugby仲間、波壁クンも途中から箕面店にやって来てシンドイながらも楽しい職場だった。(波壁はその後急逝したが)
中西・小林・前田・松野・北本等が同期だ。
当時のメンバーは未だに仲がいい、「Maples」と言う会を作って集まっている。箕面⇒紅葉⇒Maplesだ。
 私の担当は一般食品の中の調味料・嗜好品等だった。
その売場作り、発注・陳列等。ハード以上にキツイ仕事だった。特に当時は週休1日の時代、朝8時から夜8時まで当時はマテハン器具もなくドカタに似た仕事だ。
実際、以前から悪かった腰痛を更に悪くした。



2011年8月22日月曜日

遊病生活(その2)

 ホルモン治療が効いて、ママは昔のママにもどったように見えた。
普通に主婦業をし海外旅行に行ったくらいだ。だからこのまま上手くいくものだと思っていた。

ところが2005年の冬ころから彼女は肩がこると言いだした。
通常の肩こりと思い整骨医に通ったりしていた。年が明けそれが酷くなってきた。それでもそれがガンのせいだとは本人も誰も気づかない。

2006年3月、歩くのも不自由になってきた。
医師は脊椎に転移しているかもしれないので、専門医の診察を進めた。ガンで有名な病院での診察を受けた。その時には彼女はもう車椅子でないと歩けない。最初の病院で脊椎に転移していてそれも末期なのでどうしよもないと言われた。次の病院でも同じ診察結果、3ツ目の病院でも同じ。 手術の成功率を聞くと「数字で表せないほど低い」とのこと。「患者さんに痛い目をさせるだけ」ともいわれ愕然。
その頃には彼女も覚悟していたようだ。でもそのことを二人とも口にしない。お互いわかっているのに。

4月、最初の病院での辛い入院生活が始まった。
その頃は何もしなくても激痛が走っていたようだった。痛みを和らげる努力はされたが中々痛みは治まらない。それでも彼女は耐えていた。
毎日のようにお見舞いの方が来られたが、彼女は不治とは言わなかった。明るく振舞っていた。その時点での診察は「余後3カ月」だったのに。

病院はいつまでいても良いと言ってくれたが、病院をホスピスかわりにするわけにはいかない。
色々と手立てを調べて、自宅で介護することにした。たまたま良いペインクリニック(痛み治療の専門)が見つかり、往診も可能と言う。制度が変わりガン末期で介護保険が適用されるようになったし、歩行困難と言うことで障害者認定も受けた。夫婦揃って障害者!

フルに国の社会保障制度を活かした。
応接間を彼女の病室にして、介護保険で借りた全自動ベッドを置き、床ずれ防止のマット・車いすも借りて、来客用のソファーを置き、テレビをセットして病室は完成。
ペインクリニックからは毎日朝夕看護師さんの巡回看護があるし、週1回は医師の診察、毎日ヘルパーさんも来てくれる。入浴・散髪・リハビリetc.我々家族の仕事は何もない。唯一食事の準備をするだけだ。
ペインクリニックは素晴らしかった。
かかって1週間後には彼女の身体から痛みは消えた。以降、彼女は痛いと一言も言わなくなった。これは有難かった。痛いと言われるほど周りの者が辛いことはないから。
余後3カ月、つまりは6月か7月までか?
でも、痛みがとれてからの彼女は全く「遊病生活」を楽しんでいるかに見えた。そして、5月6月と過ぎても何の変化も無い。7月8月になってもない。
そのうち「余後・・・」は忘れた。忘れすぎて二人して遊病生活を楽しんだ。
パソコンも教えたので友人にメールしまくっていたみたいだ。お蔭で見舞い客が毎日のように訪れてくれた。又、PCで色々調べてこれが欲しい、あれが欲しいと言う。大概が食べ物、買ってきて二人して食べるのが楽しかった。

その頃のことを彼女は手紙に残していた。
亡くなってから見つかったその手紙には、遊病生活に感謝・感謝で満ち溢れていた。嬉しかった。これで良かったのだ。この生活が永遠に続くように思えたし、願った。

遊病生活1年4カ月、彼女は逝った。静かに、眠るように。

2011年8月20日土曜日

遊病生活(その1)

 再び、ママについて。
その遊病生活(彼女が命名・病気とは闘わないの意味)について
彼女の乳がんが発見されたのは市の集団検診。1994年秋のこと。
どうする?どうする?と騒いだが、急にどうこうはない。まだ豆つぶくらいで、何の症状もない。普通の生活を送っていた。
そこに年明けあの「阪神淡路大震災」が襲った。
ラッキーにもわが家は2年前に建て替えていたので内壁に亀裂が走った程度ですんだ。だが勿論、家の中はガチャガチャ。家具・食器類は全滅。近所は半壊状態。電気・ガス・水道は普通、被災生活が始まった。
震災で彼女が乳がんであることはどこかに吹っ飛んでしまった。彼女も何も言わないし、全く忘れていた。

数年後、彼女が胸を触れと言う。
恐る恐るさわるとシコリ以上の何かが胸の横に出来ている。何故黙っていたのか?痛いとも言う。
信仰上の理由で手術はイヤ、科学療法もNG.それでも病院に行かねば。そこで我々の意見(無理な)を聞き入れてくれる病院・医師さがしにかかった。しばらくして友人の紹介で希望に近い医師が見つかって診断を受けた。
彼は一般の診察が終わってから診察してくれた。
よくわかった先生で、ただガン専門ではないので充分なことは出来ないとは言う。それでもOK,我々の意見を十分に聞き入れてくれる素晴らしい先生だった。普通は医師の指示に従わない患者は嫌がられるものだ。
それから毎月1回その病院への通院が始まった。毎回夜9時過ぎから診察、家に帰るのは12時ころになったが、嬉しかった。
何回目かの診察で彼女の痛みが周期的であることを発見、生理の周期で痛みがくるのだ。そこで医師から提案があった「ホルモン治療」を始めることになった。つまり女性ホルモンを抑えるために男性ホルモンを注射することによりガンを抑えると言うのだ。
これが的中した。1年後、ゴルフボールくらいあった彼女のガンは殆どハレがひいてきた。先生は学会発表ものだと喜んでくれた。このタイミングで切除すればとの提案があったがこのままこの状況が続くのであればこのままで良いと彼女は言う。毎月1回のホルモン注射を続けることにした。
このままこの良い状況が続きますように!
(続く)

2011年8月19日金曜日

ダイエー入社。

関学を卒業してスーパーの㈱ダイエーに入社した。
当時は未だ映画の「大映」の方が有名な時代、スーパーのとアタマにつけないといけなかった。でも、成長著しい企業ではあった。
 就職について両親とも相談せず、一人で動いていた。就職で親の世話になんか・・・! 
ある日オヤジが「ハウス食品どうや?」と言いだした。あのカレーのハウス、当時はまだ大阪の香辛料屋の時代、オヤジはそのハウスの社長と飲み友達だった。よくカレールウの試作品を貰ってきたものだ。
反射的に「ダイエー受けよと思ってる」と言い返した。実は思っているだけで何もアクションは起していなかった。言った以上、受けないといけない。どうすれば受験できるかも知らなかった。学校の証明いるのだろうか?
「優」少ないけどエーやろか?

 ダイエーに興味を持ったのは理由がある。
アメリカのチェーンストアの話に感動したのと、若い企業で昇進がはやいこと。入社数年で管理職にと言う点だ。給料も比較的良かったし。
 全くたまたまだが、翌日のクラブの練習で同期の仲間がダイエーに内定したと言う。エッ!先を越された。でも彼らに受験方法を聞くことが出来た。
何もいらないらしい。それはラッキー!ダイエーへ電話すると。とにかく明日試験するから来いと言われた。なんやエーカゲンな会社やなぁとは思ったが、自分の方がもっとエーカゲンや。

 ペーパーテストは高校レベルの簡単なもの、即合格、即面接日が決まり、面接へ。
面接は個人面接と、グループディスカッション。
テーマはベトナム戦争。どこかで読んだ「ドミノ理論」でつっきり合格。でも、後から知ったが、意見が強烈過ぎたらしい。でもパスしたもん勝ち。
オヤジも文句は言わなかった。オヤジの持論は「衣・食・住」に関連する企業へだったからピッタシだったのだ。

でも、今から考えるとハウスも面白かったかも!
人生の流れを決める就職をやはりエーカゲンで乗り切った。

2011年8月17日水曜日

再び人工血液透析について

 以前、人工血液透析について書いたが、思うところがあり違った観点から記してみたい。
 自分自身が障害者認定をうけ人工血液透析を殆ど無料(健保の負担)で受けていることへの複雑な気持ちからだ。

 先月の医療費(全経費)のハガキが健保から届いた。毎月同じだが見てみる。やはり同じ、治療費38万円、薬代4万円の計42万円/月。到底、個人では負担出来ない金額。因みに個人負担は月2400円のみ。年額だと504万円!


 因みに全国で透析患者は30万人いると言われている。(更に増え続けているとか。)かけ算するのも恐ろしいが、掛け合わせると1兆5千億円。それだけのお金を透析患者が使っている。なんと言う高額!ビックリを通り越す数字。

支払う立場にあった元気な時代、「健康保険、高いなぁ」とは思っていたが、給付を受ける身になってこれほど有難いものはない。国民の皆さんに感謝・感謝だ。
一人の命は地球より重いのかもしれないが、国にも健保にもお金はない。申し訳なく思う。 

でも、透析患者やその家族でこの厳しい現実を知らない人もいるし、当然と思っている人もいる。国が面倒みるのは当然だと口外する人もいる。

感謝できない人が可哀そうだとも思う。
皆さんによって生かされている自分になにが出来るか?
ただ生きているだけでは申し訳ない。 生きているうちに何が出来るだろうか?
いくら書いても解決しない問題ではあるが、書かずにはいられなかった。



2011年8月16日火曜日

サラリーマン人生の記録(年表)

サラリーマン人生の記録
話をわかりやすくする為に年表化してみた。
何故か9月に異動が多い、ダイエーでは9月が下期のスタート月であった為か?
S46(1971)4月:㈱ダイエー入社        
            箕面店(新店) 一般食品課配属 (加工食品担当)
S47(1972)9月:小林店・一般食品課主任
S48(1973)9月:池田店・食品一課主任 
S49(1974)9月:人事統括室・教育部(新入社員教育担当)
S52(1977)9月:西宮店(新店)・人事担当次長(新人事Pr実験 )
S53(1978)9月:   〃      営業(フーズ)担当次長(食品総責任者)
S54(1979)9月:近畿四地区・コントローラー(地区の計数管理担当)
S56(1981)9月:近畿事業本部・営業企画部(販促・営業担当)
S59(1984)9月:サカエ吹田店・店長(全館改装工事)
S62(1987)5月:SM事業本部・営業企画(販促・営業担当)
S63(1988)9月:神戸本店室・主査(神戸地区渉外担当)
            ※ [財]中内育英会・事務長兼任(社長の財団担当)
               神戸本店室・主席 (部長級昇格)                
                               社長室・神戸渉外部長
H08(1996)2月: ㈱ダイエー退社
                                自己都合・東京への転勤拒否の為
〃     ㈱イチケン入社(一部上場ゼネコン)
                社長室 渉外部長(社長スタッフ)        
H14(2002)6月:㈱イチケン退社(社長辞任の為)
                               この間、浪人
H16(2004)4月: ㈱KCGキャリア入社(人材スカウト業)
                              シニアコンサルタント        
現在に至る。
以上です。
        
          

2011年8月15日月曜日

二人の息子。

1977年(昭和52年)11月12日予定通り結婚した。
予定通りと言うのは「30歳までには結婚する」というたいした意味もない自分勝手な予定にあと2カ月で結婚したと言うこと。
(何の根拠もないが、30歳までは自由に遊んで、次の30年は頑張って、その次の30年は悠々自適てなアバウトな計画を考えていただけ)
で、79年に長男「勝也」が生まれた。双方の親にとって初孫なので喜んでくれたし、非常に可愛がってくれた。
彼は我々夫婦の子供と証明する位にデカイ子だ。
そして次に勝手に女の子と思っていた子を流産させてしまった。産科の医師から何故か父親の責任やと叱られた。
そして83年に次男「智也」が生まれた。
因みに彼は背が高い。今は190cmを越えていると思う。
一人は女の子が欲しかったがママから「ウチドメ宣言」をされ断念。欲しかったら外で作っておいで」とまで言われて、シュン!
でも二人の息子に恵まれた。
彼らは共にデカイ! 父親が178cm・90kg、母親が170cmと大きいのでデカくて当たり前。
宝塚で生まれた「塚っこ」だ。
色々あったが、順調に育ち成人した。
長男・勝也はパティシエのん道を。次男・智也は宗教法人「神慈秀明会」の職員として頑張っている。

現下の問題は次の子孫。
二人とも独身を謳歌している。母親が無くなった今、父親としては早く結婚して孫・次の後継ぎの顔を見たい。
それが生き甲斐であり、使命でもあるのだろう。

2011年8月13日土曜日

学園紛争。

大学時代に学園紛争があった。
当時は東の東大、西の関学と言われたものだ。でもその原因は大きく違う。
2回生の秋、ちょうど日米安保の改定時期だったので、反安保の連中が動き出していた。東大はともかく、関学の紛争原因は政治的なものではなく学費値上げ、そしてその理由が学院経営の不手際、将来のキャンパス用地問題やゴルフ場経営問題etc.。学院側がまずかった。でも糾弾しても・・・。我々当時の言葉でノンポリ学生は学費値上げも容認の立場が多数。
そのうち奴らは勝手にエスカレートして授業ボイコット、スト権なんて言い出した。学生に労働者みたいな権利はないだろうに。
東大では安田講堂に奴らは立てこもって紛争が拡大しかけていた。同じように関学ではそのシンボルでもある図書館に奴らは立てこもろいうとした。それを阻止するのに失敗、奴らは図書館に立てこもってしまった。噂では図書館の本を燃やして暖をとっているとか? 図書館わきの大きなヒマラヤ杉を斬り倒してマキにしたり、建物にスプレーで訳のわからんことを書いたり、段々と許せなくなってきた。
そして皆が怒ったのはその中に関学生は少ない。ほとんどが他の大学からの応援だと言うこと。 何でそんな奴らに大学を占拠され壊されなければいけないのだ!
何やかんやで奴らの図書館占拠は2~3カ月に及んだように思う。その間は大学は休学。試験はレポート。我々ノンポリは一応毎日学校へは行くが入れないし、ある程度情報交換してから不真面目にもマージャンへ。昼からはラグビーの練習。あなた任せの気楽な生活。
東大が機動隊による強制措置があって、次は関学とのうわさ。でもいくらノンポリでも警察を学内に入れるわけにはいかない。どうする?どうする?の時期が続いた。
自主的に行動する時がきた。体育会系の学生を中心に集まり、奴らに退去を求め、そのうちデモ合戦になり、両デモ体が衝突。角材・鉄菅等を持ち乱闘状態に!どちらが勝つとか言う前に双方に負傷者が多数でてオシマイ。ボクシング部の一人が失明したと聞いた。最終的には傷害事件で警察が入り解決、平穏に。
あとから聞いた話、実際立てこもっていた関学生は2人だけ、そして奴らは某共産国から資金援助を受けていたとか?ふざけた話だ!
今、あの時切られた図書館わきのヒマラヤ杉はちゃんと生えている。そうもうあれから40年もたっているのだ。紛争前と後との唯一の違いは学内を囲うフェンスが出来たこと。以前は塀のない大学で有名だったのに。
学園紛争って何だたんだろう、未だにわからない。






2011年8月12日金曜日

お盆。

明日からお盆、いわゆる盂蘭盆会。
でも調べていたら訳のわからなくなってきた。
ウランバナ(凡語)からきているらしい。インド仏教と言うよりゾロアスターの行事? 仏教的には施餓鬼からきているようだ。 推古天皇の時代から行われていたともいうし何の事だかコレッて説明はない。
非常に日本的。神仏入り混じってもいる。
全国各地でもすることが違う。盆踊り、送り火etc.
仏教宗派でも少しづつすることが異なるし、日程も違う。
まとめれば、地獄に落ちて食事も満足に出来ない先祖に口に入るものを与え供養することだろう。
ウチは浄土真宗だからオガラを炊いて精霊を迎え、食事でもてなし、15日再びオガラを炊いてお送りする。

とにかく、明日からお盆。せいざいご先祖さまに感謝で奉仕しましょう。

2011年8月11日木曜日

闘病生活

突然の呼吸困難から入院。
慢性腎不全と診断され人工血液透析をうけることになる。

初めての入院、個室で自由だが一人は寂しい。当初は倒れて面会謝絶のウワサでだれも見舞いにも来ない。ママも安心して常時はいない、家に帰っている。部屋には外部と繋がる電話がついていたので友人に電話しまくった。みんな驚きの声「生きとったんか?」・・・てな調子。
で、だんだんと見舞い客が増えてきた。毎日2~3件、何故かダブらない。誰かが調整してくれてんのか? 1か月の入院でメモを見ると100件くらいの見舞客。義理できた親戚以外で70件100人くらいかな?
症状は何もなし。痛くもかゆくもナイ。治療らしいものもナイ!
ただ、人工血液透析は毎日4時間受けた。入院ってこんなもんか? 一番、惨めなのは食事、病院食だから病人のことを考えてのメニュウだろうが、少ない、旨くない。 朝は食パン1枚、ジャムと牛乳のみ。昼と夜はお粥に野菜の煮物、汁ものくらい。 お粥ではどうしようもないので白メシにかえてもらった。肉っけは1カ月の入院中、2回のみ、煮物にカシワが少し、そして鰆の焼き物。

結果、痩せた。入院前たぶん95kgはあったと思う。退院したら75kg。エッ、20kgも痩せている。 そらあのメシでは痩せるわな!
帰ってビックリ、裸になったらミイラや! ガリガリの身体、肌はカサカサ、見られない。でも1カ月位で回復した。勿論体重も増えたけど。
10日ほどたって主治医が透析をやめてみようと言いだした。まだ五十代で仕事もしなければいけないだろうからと言う良くわかった話だ。ありがたかった。で、透析離脱。
点滴がなくなり、トイレに行けるようになって、風呂にも入れるようになった。リハビリも始まった。2週間くらい寝たままだと歩けないなんて初めて知った。 リハビリ器具のお世話にならないとフラフラする。リハビリプランに従ってトレーニングだ。
丁度1カ月、30日で退院した。

退院後も通院しなければならないが、だんだんとズボラになり通院も止めてしまった。なぜなら、以前と同じような身体になったと思ったからで、それが大きな間違いだった。






2011年8月10日水曜日

17日は厄日。

17日は死にかけたり、ママが流産したり、阪神淡路大震災がきたりであまり良い日ではない。厄日だ。
そこで水子供養と一度死んだ私の「仮命日」と言うことで、17日は特別に礼拝している。

で、仮命日のこと。
2001年10月17日深夜1時のこと。
突然呼吸困難になった。
全く予期せずの出来ごと。遅くなったがもう寝ようと着替えてベッドに横になった途端に息苦しい。と言うより息が出来ない。口から空気が入ってこない。不思議と苦しくはない。
ただ、これはヤバイ!と思った。その様子を見てママが救急車を呼んだ。階下の息子達も上がってきた。意識はまだある。言葉も喋れる。手足も動く。いくらかは体内に酸素が残っているのだ。酸欠になるまで何分かは生きながらえるようだ。
息子二人に「お父さんは多分もう駄目だと思う。お母さんを助けてみんな力をあわせて頑張ってくれ」と遺言めいたことを言った覚えがある。

救急車が来て乗せられた。その夜は小雨模様、顔に雨が落ちてくる。
「あぁ。人生の終わりがこんなに突然やってくるとは? やり残したことはイッパイあるけどシャーナイなぁ・・・」と思った途端、シャッターが下りるように瞼が閉じた。映画やドラマでガックと逝くのと同じ。 
53歳の人生は終わった・・・と思った。 闇夜の世界。

それから4日、突然眼が覚めた。
「どこやココ!」ママが横にいた。
「生き返った」とは即気付かなかった。
病院のベッドに手足を縛られて寝かされている。
身体中いたるところから点滴のハリ。身動き出来ない。
ママが手を握ってくれた。
「生き返ったんか!」 でも感動はなかったように覚えている。あたかも当然生き返ったようにふるまったようだ。
「苦しかったんやね。もう暴れて、暴れて!」 ママが涙ながらに言った。
生死の境でもがき苦しんでいたようだ。でも本人は意識がないから全く知らない。4日もたっていることすらわからない。
それから1カ月、生れて初めて入院生活。
過去の病歴もなく健康診断もキチンと受けていなかったので、医師は苦労したようだ。 とにかく肺が水でいっぱいで、呼吸が出来なくなったらしい。何故水が溜ったのか? 腎臓がダウンしていたのだ。
腎臓との戦いの始まり。
(長くなるので、続きは次回)
反省点:①一人で寝ていたら発見されなかったかも。
                 奥さんと同じ部屋で寝ましょう!
             ②自身の健康状態は常に把握を。(記録しておくとよい)

2011年8月9日火曜日

関西学院大学・商学部。

関西学院商学部に入学した。
商学部が何であるか経済学部との違いは?何も知らず、合格したから入った。エーカゲンな学生だ。
商学部は商学科と会計学科にわかれていてどちらかを選択しなければならない。 多くの学生は公認会計士を目指して入学している。彼らにつられて会計士が何であるかもしらないのに会計学科を選択した。
関学商学部の売り物は日本の会計学・公認会計士制度を作られた青木倫太郎先生がいらっしゃったことだ。全然知らなかったけれど!

3年になってゼミを選ばないといけないがゼミによっては成績の良い学生しか取らない先生が多く、あまり成績の良くなかったので有名ゼミは門前払い。失礼ながら最後に残った小島男佐夫先生の簿記史のゼミを選んだ。ゼミの先生は就職先の世話、企業に推薦もしてくれるがそんなことも知らなかった。簿記史では企業は採用してくれないのだ。
複式簿記の祖ルカ・パチョーリ神父の研究。イタリア語が出来ないとNG.
研究テーマは「減価償却の史的考察」だったと思う。
要は、出資者を集めて貿易事業を起し、船を造って貿易。終わって儲けを分配してもまだ使える船だけが残った。この船をどうしようと言うことから資産の償却の考え方が出来たってコト!
ルネッサンス時代の人々は生き生きしていて魅力的だ。

まぁ、勉学の関係はこんなとこ。
結果的にバイトとマージャン、ラグビーばかりしていた学生生活だった。

2011年8月8日月曜日

関西学院大学入学。

1年浪人して関西学院大学・商学部に入学した。
今と違って大学の入学式も学生服。それに新月マークや商学部(UC)徽章を襟に付けてもらう。嬉しかった。父母も喜んでくれた。
しかし、オヤジは立ち直ったとはいっても食べるのがやっとなのに入学金・授業料は出してくれた。ありがたかったが現状を知っているボクはそれ以上のお金を要求出来なかった。実際、教科書を買う金もどうしようかと悩んだ。
バイトしかない。取り敢えず家庭教師のバイトをすることにし、近所の電柱に数枚の手作りポスターを貼ってみた。数日たってバイト依頼がきた。2人もこれで週2回の家庭教師で計8000円/月の収入。当時の給与水準から考えると充分。なにせ時給100円前後の時代、1日働いて1000円にもならない。まぁ、ラーメン80円の時代だから。そんなもん。
日曜日はゴルフ場のキャディーをした。10歳ころからオヤジに連れられてゴルフに馴染んでいたことが生きた。これはBagの重さにもよるが日に1000円位になった。で合計月1万円以上の収入を得ることが出来た。贅沢さえしなければ充分だ。
何とか5月には教科書が買えた。
マジメな学生ではあった。

2011年8月6日土曜日

浪人した。

大学受験に失敗、浪人になった。
それもドラマチック、大学受験の発表を見に行き不合格、泣きの涙で家に帰ったっら、オフクロさんが「お父さんの会社が潰れた」と言う。お蔭でボクの大学不合格の問題はそっちのけ。

会社が倒産するということが充分には理解出来なかった。
収入が無くなる位はわかっていたけど、借金取りが家にまでくるなんてことは知らなかった。要は中小企業の場合、社長の自宅・土地等を担保に入れるのが普通、だから借金返済の為、転居しないといけない。また、その他の金融機関(いわゆる街金)なんてのを使うと借金取りが追いかけてくる。ただ、わが家の場合、その連中が家の前までは来ても中には入って来なかった。「外にいる人としゃべったらアカン」と言われた。彼らはオヤジが目当てなのだ「お父さんいてはるか?」「・・・・・」が一番オヤジは家に籠りっきり。何日かそんな日々が続いた。

数日するとオヤジが会社からデスクやキャビネットなどを持ち帰ってきた。
応接間を事務所にするという。比較的広い家だったので窮屈ではなかったが、オヤジが毎日いるというのがなんともはや!!!

追い打ちするようにその家の立ち退き問題が浮上した。以前から国道のバイパス工事で立ち退きが要求されていたのだが、土地建物は銀行の担保に入っているし、家を増築した時のローンもあり、それで立ち退き補償問題。オフクロはそれで走りまわっていたように思う。

しかし何と言っても最大のピンチは収入がゼロになること。
いわゆる「売り食い」をして当座を凌いでいたように思う。
Golfの会員権や骨とう品等を売って2,3年は生活していた。
親子揃って浪人とはトホホ・・・!

予備校へ行けと言われたが気が進まない。
子供には十分な教育をと思うのが親心、イヤイヤでもないが浪速予備校と言う予備校へかよった。 でも大教室での授業は面白くなく、場所が梅田ということもあって、内緒だが映画ばかり見ていた。 旧コマ劇場の地下に100円で3本立をみせる映画館があった。当時はラーメン一杯80円だから100円は昼飯代。洋画の大作ものもそこで全部見た。朝10時開演、終わったら外は暗いってこともあった。

翌年の受験には何か自信があったのでそう勉強しなかったように思う。
とにかく浪人を1年経験したが悲哀感はなく有意義な1年であったと思う。
翌年、関西学院大学・商学部に入学出来た。
オヤジもその後1年位で何とか食っていける事業を再スタートさせた。やはりオヤジさんは凄い! 根性が我々とは違う。見習いたいが見なられるものでもない。 DNAは一緒のハズなのに。

親子揃っての「浪人時代」は年ソコソコで終了した。

2011年8月5日金曜日

高校時代。

前述のような高校へ3年間通っていた。
因みに、中学時代の彼女とはその後なにもナシ! 今のように携帯もe-mailもない時代、連絡は家の電話のみ。 家にまでTELする勇気はなかった。で、オシマイ。
まじめな高校生だったと思う。
勉強一筋とは言わないが、同級生の女子が頭の良い子が殆どと言うのもチョット・・・!そのくせ、何かあると男子が先頭に立たないといけない。エーカゲンニしてくれ!
デートが図書館って何かドラマみたいでしょ。でも「図書館で勉強しよう」って誘われてもワクワクはしないもんだ! なにせ図書館ではお喋りできない。時間が来たら「またね」ってさよなら!なんやコレッ?
今と違って喫茶店へ男同士で入っても指導された時代、学ランに斜めポケット作っただけで指導された。
実は、サイズの合う既製服が無かったのでオヤジの懇意な仕立屋さんで学生服を作った。細部まで全て注文、で見えないところにオシャレしたつもりがNG! キャン!
だから、高校時代にあまり良い思い出はない。

2011年8月4日木曜日

オヤジのお蔭!

ヤジについては既に書いたが、一番大事なことを忘れていたように思う。
オヤジが死んでから色々な人から世話を受けたことだ。
皆さんがそろって言うのは「オヤジさんには世話になった」からと。
オヤジは彼らに何を世話したかはわからないし、彼らもどんな世話になったかは語らない。とにかく、その息子へはその恩返しをしなければと言う気持ちからのようだ。
母の弟、つまりは叔父さん、多分彼はシベリア抑留されていたから、復員してから仕事や資金的なことでオヤジは世話をしたのだろう。叔父さんは亡くなったが死ぬまで自分の子供のように可愛がってくれた。常に気にかけていてくれた。
オヤジの兄弟の息子達、つまり従兄弟、オヤジが10人兄弟の末っ子だしボクがオヤジの42歳の子供だから年齢的には20歳位はなれている、彼らも常に気にかけて支援してくれた。
オヤジの会社の社員だった人たちもよく面倒をみてくれた。その会社が倒産して彼らには迷惑をかけたハズなのに彼らはよく面倒をみてくれた。
又、同業者の方からも色々とアドバイス頂いたり情報を頂いたりしておせわになった。
彼らは異口同音に「オヤジさんには世話になったから・・・」と言う。世話やきのオヤジだったのか?
とにかく、オヤジさんに感謝、感謝だ。
この良いことは息子たちのも受け継いでいきたいものだ。

2011年8月3日水曜日

大阪府立桜塚高校!

進学した大阪府立桜塚高校は戦前は高等女学校。
戦後、普通高校になっていたが女性に人気の高校だった。
必然、女子は頭の良い子が集まるが逆に男子はレベルがおちると言った学校だった。
成績の結果は歴然、テストの順位は職員室の前に張り出されるが、100番までに男子は10名位入っていたら良い方で、男子のトップでも70番位が最高だったと思う。1度だけそのベスト100に入った、と言っても90番位だったと思う。まぁだから男子がミジメかと言うとそうでもなかったように思う。
女子はお茶ノ水大や奈良女を目指す子が多く、ついていけなかったのを覚えている。男子で国公立大へ行けるのは珍しかった。
不純な入校動機(前述)なボクとしては入学してから「しまった」とは思ったが後の祭り。
頑張って関西学院へ入れただけでも良かったと思わねば!

2011年8月2日火曜日

ママの命日   

Blogを生い立ちから時系列に書いているが、Blogの趣旨が息子達への伝言だから仕方がない。
でも、たまには現実に戻ろうと思う。

昨日、8月1日は優子さんの命日。
まる4年、四年祭。神棚にお供えをして仏壇にはお膳とママの好物等をお供えし息子と二人でお祭りした。

4年前の今日も暑くなりそうな夏の朝だった。
医師は「気をつけて下さい」とは言っていたが、そんなに早く死ぬとは全く考えていなかった。前夜もママが「もう寝たら?」「そうやな、もう寝るわ」と言って部屋をでた。奇しくもこれが最後の会話になった。いつものように彼女の部屋のソファーで横になっている間にウトウト仕掛けていた時のこと。
次の朝、6時いつものように「おはよう」と声をかけたら返事がなかった。
静かに一人で逝ってしまった。
寝顔と同じ優しい顔、寝るように静かに逝ったことがわかる。

前年の3月、医師から余後3カ月と言われて1年半、二人での遊病生活は楽しかった。このままずっと続いて欲しかったし、続くと思っていた。
実際、色々な制度をフル活用したお蔭で楽に楽しく過ごせた。
◎在宅療養・治療拒否。
ペインクリニック(痛み緩和の専門医)による在宅ケア、毎朝夕看護師     さんの巡回と週1回は医師の診断。何かあれば30分以内に対応。
◎介護保険によるケア。
介護器具の貸与・・・全自動ベッド、車いす、その他こまごましたもの
介護師のケア・・・身の回りの世話・リハビリ・入浴・美容・歯医者さんまでやってきた。家族がすることは食事の準備だけと言っても良い位に充実していた。費用も月数万円と保険さまさま。
数日後、彼女が書いた「遺書」めいた便箋を見つけた。
最初から最後まで「ありがとう」「ありがとう」の連続。この書き残しがなかったら彼女の死にもっと落ち込み悩んでいただろうが、このことで心が和んだ。
ママは今、天国にいます。住み心地が良いのか、夢にもあまり出てきません。ママありがとう。

2011年8月1日月曜日

高校受験の真相?

高校を受験する時、誰にも言っていないことがあった。
当時の大阪の受験方式は校区制、一定の校区内に何校かの高校があって受験者が自分のレベルに合わせて受験する。
A高は国公立大受験者高、B高はその次、C高はさらにその次、D高は元高等女学校で女性には人気はあるがランキング4位、最後は新設のE高、市立のF高と6校あった。 
中学の成績的にはA・B高は無理でもC高には入れるからC高にしなさいとは担任の先生の推薦。でも、D高にした。D高なら絶対大丈夫だからと言う理由で。
本当は違う理由があった。
当時、付き合いかけていた女の娘がいた。彼女がD高の近くの私立女子高へ進学するので、D高にした。C高なら方向が違い会うことが出来なくなると考えたからだった。だれも知らない。でもこんな単純な理由で進路を決めていたなんて昔から単純な男やったんや!
因みに、その彼女とはその後何もナシ・・・!