2013年12月5日木曜日

蛍池時代。

音対策で二重窓だったのを覚えている。学校の端の一部は飛行場に隣接している程近かったからだ。飛行場は鉄条網で囲まれ、犬を連れた兵隊
物心ついた時には豊中市蛍池にいた。
生まれたのは四国・香川県大川郡白鳥町松原133(今は香川県東香川市白鳥町)蛍池も移った頃は麻田と言った。 旧麻田藩の領地だったからだろう。 麻田藩は城も無い陣屋だけの極小大名、今はどうなっているかは知らないが、昔は駅の近くに旧麻田藩の大きな石碑があった。
蛍池って池もどこかにあったのだろうが、当時はため池が多くありわが家の横にも名前は忘れたが池があった。
わが家は坂の横に建つ一軒家、小さいながらも庭もあり、大きな柿の木もあった。富有柿で1年おきではあるが大量の実をつける木だった。
実はダイエーを辞めて有休の時にママと二人で蛍池を探検したことがあり、家の場所は確認できた。
6畳・4.5畳・3畳に台所・風呂もあった。そこに両親と兄の4人で暮らしていた。今から思うと狭い家ではあるが、当時はそんなこと何も考えたことがなかったし、高台にあったので見晴らしは良かった。
兄は4.5畳の部屋を独占していた。丁度、兄は高校受験だったからだと思う。ボクは縁側に学習机を置いてもらいそこが我城だった。勉強なんてしなかったし、出来る環境でもなかった。
その頃、オヤジは東讃莫大小(莫大小:メリヤスと読む。メリヤスは布の種類でわかりやすく言えば肌着の布と思えばよい)と言う会社の役員一歩手前で、ある日オフクロさんが「お父ちゃん取締役になった。これで定年もないし、あんしん」と言っていたのを覚えている。
そんな状況なので多分、他の家庭よりは裕福であったと思う。
電話は町内初だったし、TVも一番に買ったとおもう。勿論白黒の14型。
場所は蛍池小学校の近く、もっとわかりやすく言えば伊丹の飛行場(今の大阪空港)の近く。当時はまだ米軍がいた。しょっちゅう戦闘機が飛んでいたし、夜中はエンジン整備の音がうるさかった。当時は珍しく小学校が防が警備していた。まだ、日本に進駐軍がいた時代だった。
今日はここでオシマイ。続きがあれば又加筆しよう。





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