2013年12月6日金曜日

蛍池時代(その2)

書き出したら止まらない。
まぁ、子供たちの何かの参考になろうから続けよう。

比較的裕福だったと書いた。
いつの頃だったか、母が言った「お父さんの給料が10万円になった」と。当時のボクにはその意味がわからなかったが、今考えるとスゴイ給料だ。当時はアンパンが10円、梅田までの電車賃が30円の時代、今はパンが100円、電車は270円、従って物価は10倍になっている。としたら給料10万円はなんと100万円! 母が自慢たらしく言うはずだ。 昭和30年代、オヤジは四国に本社を置く小さな婦人手袋輸出企業の番頭格。日本が戦後復興を成し遂げようと必死に頑張っていた時代。そんなもんかもしれない。
日米繊維摩擦が起こるまで、繊維産業は日本の花形だった。
で、確かに食べ物も着るものも今から考えると贅沢だったように思う。母はお茶とお花を習い謡曲まで初めていた。ボクの着るものもよく百貨店に買いにいった。

しかし、オヤジの顔を見るのは日曜だけ、朝はすれ違い夜は必ず飲んで帰ってくる。オヤジっと食事を一緒にするのも日曜だけだったように記憶する。オヤジは非常なのん兵衛だった。家にはいつもキリンビールが箱で積んであったし、当時は高かったサントリーオールドが並んでいた。飲んだら怒りっぽくなるのには困った。日曜は昼間から酒を飲んで怒鳴り散らす。母が可哀そうだった。

蛍池には3,4歳から中学2年の秋まで10年位住んでいた。
当時の蛍池は住宅と田畑が混在する地域で小学校の横は田圃だった。飛行場さえなければいい所であった。
学校までは100m位でいつも正門まで行くと遠回りになるので生垣の間から学校へは行っていた。みんなが毎日通るので人一人分の隙間が出来ていたのだ。
小学校時代の成績は覚えていない。良くも悪くもなかったのだろう。しかし、授業態度はあまり良くなかったらしい。教室ではいつも最前列の左端、先生の机の前が指定席だったのを覚えている。それに給食が食べられなかった。不味かったからだ。当時の給食はアメリカの援助物資でバターっけのないコッペパン、クジラ肉のシチュウ、脱脂粉乳の3点セット。パンはパサパサで、クジラ肉は臭いし脱脂粉乳に至っては飲めたもんじゃない。しかもあのアルマイト野食器も味気なかった。給食を食べ終えるまで午後の授業が始まっても給食とよくニラメッコさせられた。机の中には干からびた食べ残しのパンがゴロゴロ、それでよくここまで大きくなれたものだ。
今頃になって給食の味が忘れれられないなんて言う人がいるが信じられない話だ。
取りとめの無い話が続く。一つ思い出したら次々と出てくるものだ。

学校にはプールがなかった。そこでPTAも協力して作ることになった。お父さん連中が休みにスコップを持ってプール作りに駆り出された。今では考えられないことだが父兄の努力で3年生位の時にプールが完成。運動神経の鈍いボクにとって唯一自慢できる運動は水泳だった。だれにも教えてもらわずにスイスイ泳げた。しかも早かった。多分学年1,2を争うスピードだったと思う。
もう夜も遅いので今夜これで止めにする。
書き出したら止まらないので・・・。






























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