2011年9月28日水曜日

東亜手袋株式会社②

 当時、取引のあった三井物産からオヤジに独立の話があった。
 概要は、産炭地振興事業関連で福岡県の産炭地で事業を起して欲しいと言うもの。
当時、エネルギー政策の転換で石炭事業は廃業に追い込まれていた。三井系の三井炭鉱も福岡県の田川市の炭鉱を廃鉱にしようとしていた。田川市は炭鉱で持っている町、廃鉱で失業者が多数でるのは困る。国も産炭地復興事業を後押ししていた。
そこに白羽の矢が飛んできた。

 三井が全面的にバックアップするので田川市で事業を起して欲しいと言うものだった。
詳細は知らないが、田川市・三井物産がバックアップすると言うからいい話には違いない。オヤジはその話にのり、東亜手袋株式会社と言う会社を起した。
当時 、手袋業界は最盛期から衰退期へ移りつつあったが、それは今だから言える話。ヨシこれで頑張ろうとオヤジも思ったのだろう。
 用地は提供するので工場を建てて社員を多数雇って欲しいと言うのが市と物産の要望。資金の保証もある。オヤジは言われる通り、工場を建設、社員も200名ほど雇って操業した。しかし、従来手袋製造は家内工業的なもの、内職の出来高払い制。だから工場建設コストと社員の給与と言う固定費の負担が厳しかったようだ。でも三井グループあげてのこと、銀行も物産の保証で言うとおり融資してくれたようだ。

 2~3年は上手くいっていたようだ。オヤジは田川市では名士・功労者になるハズだった。そこに、繊維不況がやってきた。
三井物産と言えども事業の再編をせざるを得なくなり、不況の繊維部門は縮小と決まり、オヤジへの支援は打ち切りと決まった。担当役員が謝りにきたと言う話だが、取引は続けるが、それ以外のバックアップは出来ない、つまりは資金援助が出来ないのだ。即資金繰りにいきずまった。 

オヤジは金策に走り回ったようだが、世の中は不況、三井が見はなした(?)企業に融資する銀行も無かった。
ついに、東亜手袋㈱は倒産、それがボクの大学受験失敗と同じタイミングだったのだ。親子揃って浪人生活が始まった。
昭和44年の話。

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