2011年9月10日土曜日

上司:酒井教育部長   ?

  始めての本部勤務は人事・教育部。
上司は酒井 清氏、一言でいえばダイエーらしからぬシビアな人物。
 当時のダイエーはイケイケどんどんで粗雑な男性企業、そんな感じの社員が多かった。しかも創業期から成長期に突入、人材不足で他社から人材を多数取っていた時代、酒井部長も船場の衣料品現金問屋からの途中入社。
 彼は掛け売り中心の問屋にコンピュータを導入(今のPOS)1枚からでも現金で買えるスーパー方式の問屋(大西衣料)を作った人。非常な勉強家、躾もウルサイ。因みに彼は当時有名になった「おたべ」と言う京都の菓子屋の次男、その会社の常務も兼ねていた。だから経済的にも有福、着るもの、持ち物から違っていた。そこもダイエーでは異質。そして何故か中内社長に非常に近い。商業コンサルとの繋がりもあった。
 そこへ「オレは池田店の主任や」と言う意識で行った。ハッキリ言ってその時がサラリーマンの始まりなのに。
ある日、酒井部長が呼んだ「キミは日に何本タバコ吸うんや?」と聞く、後ろから見て勘定してるんかいな?(当時はデスクで吸えた)
また、「キミは何本ネクタイ持ってる?」「ネクタイは毎日変えた方が良いよ」・・・ウルサイオッサンや!

 強烈だったのは「森本クン、君もう字は書かんでエーわ!」 エッ何のことや? 字を書くなとは部外への文書は清書してもらってから出せとのこと。もともと字が上手でないことは自覚していたが、あらためて言われると強烈。 その時の清書役が家内・優子。彼女も字は上手ではないが、一字、一字、丁寧に決まった書体で漬けペンで書く、それが教育部の文書だった。

当時、ダイエーは組織はあったが殆ど組織的な運営がなされていなかった。つまり本来なら担当者・課長・部長・本部長(役員)・社長を言うラインで運営される。しかし、担当者たる私の上には教育部長たる酒井さんしかいなかった。つまりは新入社員教育は私と酒井部長の二人で立案、即社長決裁、GO! と言う非常に簡略化されたやりかた。創業者社長がいる企業そのもの。考えようではオモシロイ会社だった。
そんな中で酒井さんは社長に非常に気に入られていたので、部下たる私は非常に仕事が楽であった。


残念なのは、その酒井部長が42歳で急逝されたこと。
当時、新聞にも「企業戦士壮烈な・・・」と載ったが、社長プレゼン中に倒れたのだ。蜘膜下出血だった。アッという間に亡くなってしまった。

先日、奥様にお会いした時、その後のダイエーについて「主人が生きていても同じことしてたのでしょうかねぇ?」と聞かれ答えに窮した。 それほど中内さんに近い人であった。ご冥福をお祈り致します。




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