2011年9月27日火曜日

東亜手袋株式会社 ①   

 どんどん時代はさかのぼる。
オヤジの商売・仕事について書いておかないといけなく思い書きたすことにした。

  戦前からずっとオヤジは大阪・船場で繊維関係、綿布問屋の手代(今なら課長クラスかな?)で出征、戦後は「手袋」を商売としていた。
出身地、香川県白鳥町(現・東かがわ市)は「手袋の町」と呼ばれている。
何故、手袋が主な産業になったのかは不明。今は手袋の町も廃れたが、それは手袋輸出が不振に陥ったから、一つはアメリカの繊維輸入規制による繊維不況。
もう一つ決定的なのはファッションの流れの変化、具体的にはミニスカートの流行によるもの、ミニスカートに手袋は合わず。手袋は不要になったこと。それまでは欧米の中流以上の婦人は「手袋用タンス」をもっていると言われるほど手袋を持っていたらしい。今や、白鳥で手袋屋さんも2~3軒になっている。時代は変わった。

手袋と言うとたいがいは軍手?と言われる。
しかし白鳥で作っていた手袋はファッション用の手袋、しかも輸出が殆ど。ヒジより上まであるイブニングドレス用のものや欧米の婦人が正装時手にするファッション性のあるものだ。「ローマの休日」でのヘップバーンを思い出して頂ければOK,彼女は正装時は勿論、スーツを着ても手袋を手にしていた。手袋はファッションアイテムなのだ。


オヤジの働いていた東讃莫大小株式会社(トウサン・メリヤス)も手袋の製造・輸出を事業としていた。オヤジのポジションは番頭さん(専務or常務)、社長は2代目で全てをオヤジに任せていたようだ。

この手袋は殆ど内職で作られる。 
仕様書と裁断された材料(生地とアクセサリー・ビーズや刺繍)を家庭の主婦に縫製してもらう。町を歩くとどの家庭からもミシンの音がしたものだ。 ミシンは貸与するから工場が要らないしその管理費も不要。縫製の技術指導をして製造委託、出来高払い。注文は商社を通じて欧米の百貨店やチェーンストアから大量にくる。非常に儲かる商売だった。

驚いた話。アメリカのあるチェーンストアのバイヤーが来てサンプルを発注した。その数量たるやその為工場がいるほどももの。
色が5色、サイズが4種類・・・を各店1ダースづつの注文、1店240双(因みに手袋は1ツを1双と呼ぶ)しかし、そのチェーンは全米に1000店もあり受注数は24万双にもなる。オヤジもビックリしてこれで正式注文がきたら大変やと言っていたが、結局サンプルのみ。それでも充分商売になった。(この話を聞いてアメリカのチェーンは凄いなぁと興味を持った)
毎年、アメリカやカナダからバイヤーが夫人同伴でやってくる。その接待で京都や奈良を案内して夜は日本料理で宴会、お土産も用意して大変だった模様。
・・・と言う商売だった。

そこに三井物産からオヤジに独立の話が舞い込んだ。
(続く)

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