2011年7月22日金曜日

オヤジさん(お爺さん)のこと。(その2)

家族揃って豊中での生活が始まった。
オヤジは「東讃莫大小㈱」の大阪の責任者。 讃岐の東の莫大小(メリヤス)会社。具体的には婦人用手袋の製造輸出。
白鳥はその後「手袋の町」と呼ばれるようになる程、手袋生産が盛んになった。何故、手袋なのかはわからない。手袋生産は全く前時代的だ。家庭の主婦の内職、技術を教え、ミシンを貸し、出来高払い。 白鳥の町はミシンの音がどこへ行ってもしたもんだ。
私が小学校から中学の頃、最盛期だったようだ。輸出先はアメリカ・カナダのタデパート・チェーンストア。 
その後、三井物産の後押しもあって「東亜手袋」と言う会社を作り独立。これは九州の産炭地振興事業で、三井系の炭鉱の町へ工場をたて地元に雇用産む為の国策事業であった。しかしながら、不況が襲い三井の後押しがなくなり即倒産。 
笑ったらダメだけど、私が大学受験に失敗し、涙ながらに家に帰ると母が会社が倒産したという、父・子揃って浪人になった。
それから2
2~3年は「売り食い」の時代が続く。母の道楽が役に立った。母は以前から茶道・華道・謡曲と趣味の世界へかなり金をつぎ込んでおりそれら骨董品等を売ることで食いつないでいたようだ。 
私もその時から親の支援は期待できないので、予備校もやめバイトをして小遣いを稼ぎ、1年後なんとか大学合格をはたした。それでも授業料だけは出してくれた。逆に言うと授業料以外は自分で稼がないといけなかった。家庭教師のバイト、Golf場のキャディ等で何とかなった。不自由はなかったように思う。
父も新しく起業し、家族3名何とか頑張って生活していた。
それがGolf場のキャディーさん用の作業手袋、しかも通販! 昭和40年代に通販とは!宅配便のない時代、クレジットも普及していない。商品は小包で送り、代金は郵便振替で回収した。心配した貸倒もなくこの事業はオヤジが倒れるまで続いた。 オヤジのGolf好きも役に立ったものだ。
(続く・・・)

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