2011年8月22日月曜日

遊病生活(その2)

 ホルモン治療が効いて、ママは昔のママにもどったように見えた。
普通に主婦業をし海外旅行に行ったくらいだ。だからこのまま上手くいくものだと思っていた。

ところが2005年の冬ころから彼女は肩がこると言いだした。
通常の肩こりと思い整骨医に通ったりしていた。年が明けそれが酷くなってきた。それでもそれがガンのせいだとは本人も誰も気づかない。

2006年3月、歩くのも不自由になってきた。
医師は脊椎に転移しているかもしれないので、専門医の診察を進めた。ガンで有名な病院での診察を受けた。その時には彼女はもう車椅子でないと歩けない。最初の病院で脊椎に転移していてそれも末期なのでどうしよもないと言われた。次の病院でも同じ診察結果、3ツ目の病院でも同じ。 手術の成功率を聞くと「数字で表せないほど低い」とのこと。「患者さんに痛い目をさせるだけ」ともいわれ愕然。
その頃には彼女も覚悟していたようだ。でもそのことを二人とも口にしない。お互いわかっているのに。

4月、最初の病院での辛い入院生活が始まった。
その頃は何もしなくても激痛が走っていたようだった。痛みを和らげる努力はされたが中々痛みは治まらない。それでも彼女は耐えていた。
毎日のようにお見舞いの方が来られたが、彼女は不治とは言わなかった。明るく振舞っていた。その時点での診察は「余後3カ月」だったのに。

病院はいつまでいても良いと言ってくれたが、病院をホスピスかわりにするわけにはいかない。
色々と手立てを調べて、自宅で介護することにした。たまたま良いペインクリニック(痛み治療の専門)が見つかり、往診も可能と言う。制度が変わりガン末期で介護保険が適用されるようになったし、歩行困難と言うことで障害者認定も受けた。夫婦揃って障害者!

フルに国の社会保障制度を活かした。
応接間を彼女の病室にして、介護保険で借りた全自動ベッドを置き、床ずれ防止のマット・車いすも借りて、来客用のソファーを置き、テレビをセットして病室は完成。
ペインクリニックからは毎日朝夕看護師さんの巡回看護があるし、週1回は医師の診察、毎日ヘルパーさんも来てくれる。入浴・散髪・リハビリetc.我々家族の仕事は何もない。唯一食事の準備をするだけだ。
ペインクリニックは素晴らしかった。
かかって1週間後には彼女の身体から痛みは消えた。以降、彼女は痛いと一言も言わなくなった。これは有難かった。痛いと言われるほど周りの者が辛いことはないから。
余後3カ月、つまりは6月か7月までか?
でも、痛みがとれてからの彼女は全く「遊病生活」を楽しんでいるかに見えた。そして、5月6月と過ぎても何の変化も無い。7月8月になってもない。
そのうち「余後・・・」は忘れた。忘れすぎて二人して遊病生活を楽しんだ。
パソコンも教えたので友人にメールしまくっていたみたいだ。お蔭で見舞い客が毎日のように訪れてくれた。又、PCで色々調べてこれが欲しい、あれが欲しいと言う。大概が食べ物、買ってきて二人して食べるのが楽しかった。

その頃のことを彼女は手紙に残していた。
亡くなってから見つかったその手紙には、遊病生活に感謝・感謝で満ち溢れていた。嬉しかった。これで良かったのだ。この生活が永遠に続くように思えたし、願った。

遊病生活1年4カ月、彼女は逝った。静かに、眠るように。

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