2011年12月7日水曜日

J リーグ 進出

Jリーグが創設された時の話。
神戸でもプロサッカーチームを作る話があり、ダイエーはこれにも首を突っ込むことになった。まだ当時はダイエー絶頂期で何にでも首を突っ込む感じの頃だった。 

例によって神戸案件なので、本店内にプロジェクトチームがおかれ、活動が開始された。母体は確か川崎製鉄か川崎重工だったので当社に話があったのか?当時、川崎重工・製鉄とは非常に良好な関係であったから。
こうしてサッカーチーム「ヴィッセル神戸」が生まれた。
今、ヴィッセルは楽天が親会社になっているが、ヴィッセルはヴィッセルのまま。これには次のようなJリーグの方針があったからだ。
いわゆる現場、チームの中身はプロに任せて、会社設立から運営の準備が進められた。
最後までもめたのはチーム名、Jリーグの基本方針はチーム名には都市名を使い企業名はNGであった。 
ダイエーとしてはプロ野球と同じようにダイエーヴィッセルにしたかった。と言うより、社長もプロジェクトチームもそうなると思っていたようだ。だからギリギリ最後まで企業名使用を調整した。どんどん開幕時期が近づいてくる、企業としてはその名前を使うことによって広告効果と費用の広告費扱いにでき非常に有利。しかし、ガンとしてJリーグ側は譲らなかった。これは立派だっただと思う。今のプロ野球のようにいい加減な扱いではない。ユニフォームに企業名が入ってもそれは単なる広告、チームは地元のもの。このことが地域のスポーツ振興にどれだけ役立っているか。野球チームのない地方の都市にとって今やサッカーチーム(J2も含めて)はシンボル的存在だ。

ここで、大問題が起こる。
考えられたことだが、中内社長がチーム名問題で「撤退」を指示。サッカー会社として動き出した頃だったので、大混乱。しかし、社長指示は「即刻、引き揚げろ」で出向していた社長以下が手を引くことに。
サッカー会社社長は「今さら放りだす訳にはいかない。自分はダイエーを辞めてもサッカー会社に残る」と言いだした。 彼の言うのも御尤もだが、サッカー会社に残っても親会社たるダイエーが手を引けば居場所は無くなる。全くイミがない。 しかし、彼はダイエーを退社しサッカー会社に残った。
喧嘩別れの型になったが、暫くしてダイエーへの復社がゆるされグループ関連の会社へ。
ここが中内社長らしいやり方だ。

0 件のコメント: