2011年11月15日火曜日

阪神淡路大震災 ③

震災のことはいくら書いても書き足らない。
この項で取りあえずはオシマイにしたい。

この震災の被害は臨時出費レベルで165万円、どこからも何の援助も無かった。(行政からの援助均は所得制限があり、当時はかなりの給料だったのが災いして支援はゼロ)
家の補修(室内の壁紙の補修がメイン、電気関係etc.)に85万円、塀の建て替えに80万円(一部は隣家と折半)で計165万円。
ほとんどが割れた陶器類・食器類の破損は含んでいない。実際には震災後購入した食器類はなく殆どが貰いものですませたからだ。10数年たった今でもその貰いものを使っている。
で、被害は最小レベル。しかし、その後最大の被害がやってくるとは信じられなかった。
勤めていたダイエーは全国チェーンとはいえやはり関西、特に阪神間に店舗が多く、被害は甚大。コンピュータセンター、流通センターも被害を受け震災の損害は500億円と会社は創業以来の大赤字。
そこでいわゆるリストラが始まった。
当時は今のようにリストラ=人員削減ではなく、関連会社を含めて事業を見直すという本当にリストラクチャリングが行われた。結果は同じだが、本体の社員を重点的に関連会社に出向させるということになった。
個人的には前述のKLWが成功していれば将来的にKLWへ出向してもよい、というより出向したいと思っていた。ところが震災で方向は大きく変わった。でも50歳直前、神戸の本店に来て10年あまり、もうそろそろ関連会社へ出向してもよいころかと思っていたし、そのような意志も漏らしていた。
管理職の10%を関連会社へ出向させるとの会社の方針が決まり、私にも出向の内示があった。ところがある関連会社の東京の本社だという。50ツラ下げていまさら東京はナイと、とっさに拒絶。同社には大阪支社もあるので出向はするが大阪にして欲しいと調整したが、管理職は東京と言われ不調。なぜか東京は、単身赴任は絶対にイヤだった。
で即「それなら退職する」と申入れ、スッタモンダしたが、退職は自由。退職願いを書いて提出。
その後、慰留すべく色々と動きはあったが全てお断りした。
実は退職については家内との相談もなく、再就職先の目途もなかった。でも家内は「アナタが好きなようにしたらいい。でも食べさせてね」と一言。
実際、再就職にアテはなかった。有給休暇60日のうちに何とかなるだろうとタカをくくっていた。
震災の最大の被害は会社をクビになったこと。
実際にはリストラではなく自己都合の退職。リストラなら退職金の割増等もなく1年後に始まった早期退職制度とは大違い。
その後のコトを考えればヨシとするか!

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