2011年11月12日土曜日

阪神淡路大震災 ②

 当時自宅は宝塚市にあった。
震災の殆ど東の端、家内の実家のある箕面市などは殆ど被害無し、聞くと棚の上の花瓶が落ちて割れたとか、そんなん被害言わへん!  

 報道は神戸に集中し宝塚などは殆ど報道されなかったが、実際は100名以上のの方が亡くなられる大災害。全壊・半壊家屋も多数でた。実際、我が家の周辺でも殆ど半壊状態、皆さん近くの小学校へ避難されていた。我が家だけがシャンと建っているのが悪いみたい。ブロック塀だけが根元からグラグラ、そのままでは危険なので無理やり壊す。怖かったのは隣家の屋根から瓦が落ちてくること。建物のそばには行けない。

  ガレージの車が引きずられてタイヤ跡が30cm位残っている。
幸いにもブロック塀の2~3cmのところでギリギリ止まって車は無傷。ラッキーだ!後に京大の地震調査があってこのタイヤ痕をみて震度7の判定があったほど。
震災から4日目、やっと落着いたので出勤。
先にも書いたが交通手段はバイク。電車・バスは依然ストップ、道は瓦礫で一杯なので車は無理、バイクしかナイ。とは言え移動に過酷な状況には変わりない。バイクが通れる裏道を探し探し行く。だから神戸まで2~3時間かかった。しかも激寒、でも気が張っていて寒さもあまり感じなかった。
ダイエーとしては会社をあげて商品供給に全力を集中。
全国から商品を配送し倒壊を免れた店舗やその店頭で食料品を中心に生活必需品を販売していた。総力をあげて震災対応と言えばカッコ良いが、売上第一。従って本店事務所はほったらかし、恐らく各種問合せが入っているハズ、サービス的にはお客様への情報センターの役割が重要だと思って本店の復旧を提案したが、当時は販売最優先とのことで却下された。

仕方がなく、店舗で販売応援。
取引先からタンクローリーで水が来るというのでそれを手伝った。当初はその水を神戸市に供給してもらうハズだだったが、市は殺菌消毒していない水は供給出来ないという。なんと言うお役主的発想!実はその水は「サントリーの○○の水」のブランドで販売している名水。それでは独自に供給しようと店で配りだした。なにせ25トンのタンクローリー、10数センチの口しかなくそこからお客様の容器に配るのはかなり無理がありズブヌレ、寒い・冷たいでよく風邪をひかなかったものだ。

1週間くらいたって一段落したので、指示を無視してポートアイランドにある本店へ。
ポーアイは埋立地なので液状化が激しい。雨が降ればドロだらけ、乾くと砂嵐状態。そして全てが隆起している。見た目は隆起だが実際は1mの陥没。建物にはクイが打ってあり固定、周りの地面から隆起したように見えるが実際は地面が凹んでいるのだ。実験をするとよくわかる。コップに土と水を入れよく振ってみると水が上に浮いてくる。比較的大きな土砂は重さで沈み込み、細かい砂だけが泥水として残る。見た目は隆起だ。この光景も非常に異様なものだった。それに晴れて地面が乾くと砂埃がヒドイ。非常に細かい砂が建物の中にまで入ってくる。
驚いたことに本社のあるビルの正面玄関の階段が目の高さにある。足をかけて這いあがらないとビルには入れない。それだけ隆起、いや地面が陥没している。
やっと事務所にたどりつく、予想はしていたがガチャガチャ。
ドアが開かない。電話交換機が吹っ飛んで唸っている。着信のランプも付きっぱなし。引っ繰り返ったデスクやロッカーは何とかなるが、交換機は配線が複雑で素人では復旧は無理だ。配線を一つづつチェックしながら繋いでみる。2日がかりで何とか復旧。その途端、電話が鳴りっぱなし。一人では対応できない。翌日から店勤務していた担当者を呼び戻す。常務とあと一人は対策本部詰め、後は本店対応。
業務的には良かったが、環境が劣悪。第一事務所のある9Fまでは階段しかない。電気は通っているが水が出ない。トイレも使えない。交通手段もナイ。食事もままならない。飲料水は各自持参。
そんな中、女子社員も頑張ってくれた。ひっきりなしに電話はなる。ありとあらゆる問合せに対応。と言っても電話を担当部署へ振るのが主な作業、これが朝から晩まで続く。前述の砂の被害もヒドイ、日に何回も掃除をしないとそこいら中がザラザラになる。昼食も買い出しにいかないといけない。辛い日々が続いたが皆頑張ってくれた。

1週間くらいたつと全国各地からの支援・ボランティアが続々と届き、依然交通はストップ、道路は極端な渋滞はしているが、街は妙な活気にあふれていた。どこへ行っても「腹へっていないか?」と食料をくれる。街を歩いていてもパンやオニギリを配っている。この支援体制は嬉しかった。
<続く>

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